翻訳者のつぶやき なんで私が『臓器収奪ー消える人々』を... その15
法輪功は一元的な宗教なのか?(その14)からの続きです。
(...実に物騒な書籍の翻訳者になってしまいました。その経緯と本書の内容に関わる逸話や情報をお伝えできればと、ブログを書いています。)
(15)冷たいシャワー
【有史以前の伝統】
先回のブログ(その14)で、中国語にはもともとReligionに相当する言葉はないと指摘したウォルドロン教授を引用した。『消える人々』の中でも法輪功に関して引用されていた。
法輪功の研究者は、奥深い先住民の文化の存在を法輪功に見出しているという。同じブログ(その14)で触れた「大和民族の多元主義的な生態」と共通するものかもしれない。
「中国(臓器収奪)民衆法廷」で法輪功の事実証言者は「宗教」ではなく「信念」だと答えていた。同法廷の「裁定」では、法輪功学習者のことを下記のように説明し、迫害の理由を明示している。
[「中国・民衆法廷 裁定」9分:上記引用の該当部分は6:32-6:55]
ウォルドロン教授をはじめとする研究者が指摘することは、真人を目指す道家、善を施す仏家、忍(戒め)を説く儒家といった、古来の思想に法輪功が回帰しているということだろうか。
【修煉者】
法輪功は宗教ではない。つかみどころがない。では、法輪功をやる人のこと(英語ではpractitioners)を『消える人々』の中で何と呼称すべきか?
当初は法輪功の資料に準じて、一律に「学習者」と翻訳していたのだが、途中で全てを「修煉者」に一括変換した(ちなみに法輪功の書籍では、一般の気功は「修練」、法輪功は「修煉」と使い分けている)。拷問を受けても屈せず、さらに生存し国外亡命できた一握りの人々の体験が綴られているのだ。単なる学習者がここまで拷問を受けるだろうか?この火へんの「修煉」が相応しいのではないか?
こう自分の中で結論を出したところ、ピッタリとこの訳語が下記の文に当てはまった。
【修めるという概念】
福岡にアテンドとして行った際、地元のジャーナリストに「法輪功は”宗教”でなくて“修練”なんですってね」と言われ、「あ、なるほど」と納得した覚えがある。日々の生活の中で自分を高めていく「修行」ととらえれば、「宗教」という言葉に身をこわばらせる必要もなくなる。
一度、日本人のお客さんがうちに滞在したときに、シャワーのお湯がでなくなった。平謝りしていたら「修行だと思います」と(英国は夏でも肌寒いのに)平然と水でシャワーを浴びてくださった。
日々の生活の中で修めるとはこういうことなのか、とイギリス人の口からは逆立ちしても出てこないような崇高な言葉に感銘した。
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ワニブックスのニュースクランチで、抜書記事を出しています。今回は日本との関係を指摘する「日本語版に向けてのまえがき」からの抜粋です。
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