耳で聞く音と身体で聞く音♪情報が景色に変わる時
京都にある鈴虫寺は外国人観光客からは『騒音寺』と呼ばれていると聞いたことがあります。
日本には“虫の音“という言葉や“虫の音“という歌もありますから、虫の音は音色、季節を告げてくれる音色だと思っていました。
けれど海外の方の多くは、工事現場の音同様に騒音に聞こえるとのこと。(それは大変ですね😅)
先日、家のバルコニーで瞑想をしていました。
秋風が心地よく、木の揺れる音や虫の音が優しく響いています。
ただ音を聞くだけの時間。
松果体からお腹の方に意識を移して行くと、自然の音はお腹で聞こえているように感じました。お腹に響いているという方がいいでしょうか。反対に道路を行く車の音は耳から聞こえて来ます。そう思えば、話す人の声も耳で聞いているなあと思いました。
身体で聞く音と耳で聞く音。
身体で聞く音は絵のような音で、耳で聞く音は情報。
日々色んな音を聞い暮らしていますが、同じ音でも身体で聞くようになれば騒音ではなくなるんじゃ無いかなぁなんて考えています。
以前住んでいた家は消防署や救急病院が近く、頻繁に救急車のサイレンが鳴りました。そして近くには幼稚園もあり、日中は賑やかでした。
これらの音は、住み始めた頃は気になりましたが、慣れてくると気にならなくなりました。
そうなった時、音は風景の一部になっているんじゃないかなと思います☺️
風景になった音はもはや景色です。
夏のセミ、秋の虫、雨の音豊かな日本の四季。
けれど一度景色となった音が、また騒音に変わることがあります。
それはあまりにも大雨が続く時や、大きすぎる雷の音、多すぎる蝉の声など色々ありますが、それらが情報に変わる時、その音に“不“の感覚を感じています。
雨が降り続く不安、雷が落ちる不安、蝉はなんでしょう?不快感?
自然界の音が情報に変わった時、それらは身の危険や異変を知らせてくれているのではないかなと。
人は生まれ持って、大きな音や高い所からの転落は危険だと知っているそうですから。