利他と自己満足
最近初対面の3人で、利他的なことにほとんど関心がない人がいる中で、なぜ利他的であろうと考え、行動するようになっていく人がいるのかについて考える時間がありました。全員、集まった理由を考慮すると利他的なことを重視するメンバーだったので、一旦私たちの共通点を探ろうということになりました。
なぜ、「人のために」をし続けるのか
いくつか出た候補はおそらく全て正解ではあったのですが、最終的に「過去の自分を救いたいという想いを持っていること」ではないかというところにまとまりました。例えば私は中学生の頃、人との話し方が分からず誰も自分を受け入れてくれていないと感じてとても辛かったので、自分の居場所がないと感じている子供の力になりたいと思っていたりします。
例えば受験生時代の自分が救いたい自分なら、その困難はとうに突破しているように感じられます。確かにその時期に自分と向き合ってこの世に残ることを選んだという意味では、きちんと乗り越えているとも解釈できます。しかしその時に自覚、実感、あるいは露呈した自分の弱い部分やネガティブな感情は、最低でも潜在意識にはずっと残り続けるものだと思います。つまり、人はその時期の問題に記憶がなくなる瞬間まで向き合い続けなくてはならず、過去は変えることができないからこそ、今同じ辛さを抱えている人を助けることで、自分自身の過去を軽減しようとしているのだという理由にまとまりました。
自己満足なのかもしれない
人は相手の求めていることを100%理解できるわけではないので、どうしてもこれをされたら嬉しいだろう、今のこの人のためになるだろうなどといった自分の経験に基づいた憶測によって、利他を行うことになります。
しかし、人の感情を汲み取るのが苦手な人が、今まで生きてきた環境や経験してきたことが本当に違う相手と対峙した場合、自分が相手のためだと思うことが、全く相手の求めているものではない、などということも普通に起こってしまうと思います。相手の感情に想いを馳せないままで、自分的には良いことをしていると思って行動する場合、相手のためにという感情を少しは持っていたとしても、相手側からしたら自己満足な行動に見えてしまうのでしょう。
この点について最近やっと自分の中での軸ができました。利他的な行動というものは利己と切り離して考えることはできないもので、全ての人は基盤に自分の願望を持っていて、人間という生物である以上、生き残らなければならないという感覚の元にあるので、相手を想う気持ちだけで行動するのはとても難易度が高いということです。私自身、自分が相手に対して良かれと思ってしていることは、結局自分可愛さからの行動なのではないか、と自分を責めてしまい、自分を否定してしまう時期もありました。
しかし今は逆に、自己満足や利己的な部分が感情に含まれていないほうがおかしいことなのかもしれないと思うことができていて、こう考えた方が以前よりも断然心が休まるので、よかったと思っています。このnoteを書きながら、今までは表面的な意味しか読み取ろうとすることができていなかった、「やらない善よりやる偽善」という言葉について深く考えたくなりました。