私の文章指導はめんどくさい
巷には『文章が上手くなる〇つのコツ』のようなタイトルの本が散見されます。何か、あることさえ整えれば、思っていることが文章化できると錯覚するような、そんなタイトルですよね。
例えば一部を短くするとか、結論から書くとか、そういうことはもちろん大事なんですけど、そもそも自分の言いたいことが何なのか、その説明すらできない人は、文章を整えること以前に、その文章を生み出すこと、そのものが、とても難しいと思います。
私が注目しているのは、成績の良い人(良かった人)の文章です。小学生でも中学生でも大人でも同じなんですけど、頭の回転の早い人って「これを書いたらまあ合格ラインなんじゃないか」っていうような及第点の文章を、サッと思いついてしまうんですね。でもそれって完全に思考停止で、何も考えてないと同じ。そのことが全く分かっていなくて。なぜ気がつかないかと言うと、文法も間違っていないし、表現方法も誤っていないし、なんとなくいいことを言っているようで、その人の本質が全く見えない。例えばAIにその人の文章を添削してと命令をかけても、表面上の直しで終わる感じ。「どこも悪くありません。よく書けています」とか返ってきそう(笑)
逆に、文法が合っていなくても、一文が長くても、結論がめちゃくちゃ最後に書いてあっても、その人の伝えたい思いが、文章からにじみ出ていたら、直す必要なんてないんですよね。
私も若いころ、受験生の家庭教師などをしていた時は、もうとにかく点数が取れる文の書き方なんかも指導していたんですが、それだと結局、長い目で見て、その子のためにならないんですよね。で、どんどん指導方法を変えて行った結果、今の私の文章指導は「どうしてこんなふうに思ったの」「なぜ色々な単語があるのに、この言葉を選んだの」というところを、結構しつこく問いただして、時間がかかる指導なんです。
で、話していくうちに、子どもも大人もですけど「先生、私の言いたいこと全然違ってました」みたいな、びっくりするような感想を言うんです。
「違ってたって、どういうこと?」って思いますよね(笑)
けど、とことん話していくうちに、どんどん自分の思いと自分の書いてる文章の乖離に気がついて「こんなことを、こんな綺麗事を言いたいんじゃなかった」とか、時には「先生、反対意見に転がっちゃうんですけど、いいですか」とか、そんな感想さえ出てきます。
読書感想もそうなんですね。私は原稿用紙の使い方なんか教えていません(笑)そんなの一人でも学習できるから。
「どうしてそこで感動したのか」根掘り葉掘り聞くんですね。それを繰り返していくと、本人もびっくりするような答えに行き着きます。そこまでのプロセスが本当に大変で、正直、割に合わないと感じることもあるんですけど(笑)
でもそれが、私の文章指導のスタイルなのかと最近気がつきました。
文章指導の先生と言うと、赤ペン持って添削するイメージありますし、実際私も赤ペンで添削はしますけど、もっと心の深いところからの言語化という作業を通じて、本当に表現したい石ころを1つ見つけるというか、そんなイメージです。結構、大変です。
でもこれを一人でできるようにさせます。そうすると、その人はもう一人で思いを言語化できるようになるんで。