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食を通じて世界を知る ー スーダンでの食に関する思い出

*冒頭の写真は国内避難民キャンプで料理する女性たち。

スーダンの北ダルフール地方に赴任していた約2年の間、数少ない楽しみは食事だった。スーダンの現地の料理で一番思い出深い物は、朝食である。朝食といっても、午前11時前後に食べる物で、メインは豆の煮込み、これを平たいパンで掬うようにして食べる。食後にはとびきり甘いチャイ。容量100ccくらいのガラスのコップに小さじ2−4杯の砂糖を入れる。スーダンの人は大抵溶けずに底に残るくらいの砂糖の量だった。宿舎生活だった当時、現地の料理を頂く機会は少なく、後述する宿舎の専任コックの作る料理を主に食べていたので、この豆の煮込みと、焼肉につける唐辛子とライムを混ぜ込んだピーナッツペーストが私にとっての懐かしいスーダンの味だ。

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*上の写真はスーダンの朝ご飯。

当時滞在していたW F Pの宿舎では、モハメドという専任コックが朝昼晩の食事を作ってくれていた。宿舎に住む約20名の職員全員が毎回モハメドの料理を食べていたわけではなく、夜は自分の部屋で簡単な料理を作っている人もいた。部屋には流しはあるがコンロが無かったので、電気コンロなどを持ってきて料理をしていたようだ。

私は着任早々、宿舎の食事情を改善するべく結成された、有志によるFood Committeeのメンバーとして活動を始めた。もちろんこれは仕事ではなく、全くのボランティア活動だった。問題は、日に日にモハメドの料理を食べる人が減っていた事だ。このコミッティーの結成と、私が初代メンバーになる事は、私の着任前にこの宿舎を訪れた当時のスーダン事務所副所長の鶴の一声で決まった。副所長は私がタジキスタンに赴任していたときの元上司で、私の食に対する情熱をよく知っていたので推薦したらしい。そんな経緯も後から知ったが、実際にモハメドの料理を数日食べてみて、これは何とかせねばと俄然やる気になった。何しろ、私のこの先2年の食生活はこのモハメドにかかっていたのだ。

まず、宿舎に暮らす職員全員に聞き込みを行ったところ、問題点がいくつか浮上してきた。一番の問題はメニューの内容で、皆いろんな不満を持っていた。肉ばかりで野菜が少ないとか、出している食費に対して内容がイマイチだとか、量が多い、少ない、など色々な意見があった。私も実際に食べてみて、メニューの内容は改善の余地があると思った。例えば夜ご飯に、大きな羊のもも肉の丸焼きがそのままドーンと出てきたのには驚いた。もちろんこれは一人分ではないので、ナイフで切り分けてみんなで食べるのだが、全員が食事の時間に揃っていないと、後から来た人の分がなくなる可能性もあった。当時は皆バラバラな時間に来て食べていたのでこのリスクは高かった。

モハメド自身にもいろいろ話を聞いてみたところ、彼も困っていた。専任コックなのに、宿舎のみんなが食べてくれるわけでもなく、人数も減っていっているのに、何をどう改善したらいいのかというフィードバックを一切もらっていなかったのだ。以前の投稿にフィードバックには3種類あること(感謝、評価、コーチング)を書いたが、モハメドはそのどれも受け取っていなかった。もう一つの問題は、食堂の運営方式だった。モハメド自身はコックとして雇われお給料を貰っていたが、材料費は食堂を利用する職員から毎週集めるシステムだったので、常に必要な調味料ですらまとめ買いができず、さらにこの食費の価格設定がかなり低かったため、メニューのバリエーションを増やすこともできなかったのだ。

食べる側と作る側、双方からの聞き込みをもとに、コミッティーのメンバーで改善点をまとめ、職員全員を集めて話し合いをして皆の合意を取り付け、早速取り組んだ改革の内容は以下の通り:

 • 食費の額を上げ、毎週ではなく毎月徴収することで、食材のまとめ買いを可能にし、メニューも多彩に。
 • 要望の多かった朝食メニューの改善:モハメドは毎朝パンケーキを焼いてくれるようになり、パンやシリアルだけでなく、フルーツやヨーグルトなどバラエティー豊かに。
• 野菜を増やし、お昼ご飯もそれまでの肉中心のサンドイッチから、食堂で暖かい出来立ての食事を取れるようにした。時間がなくて食堂に戻れない場合は、お皿に盛り付けた昼食をモハメド自らオフィスに届けてくれた。
• 夜ご飯はみんなで揃って食べるようにして、出来立ての温かい食事を食べられるようにした。

メニューの改善にはコミッティーのメンバーたちと様々な案を出した。食材の買い付けも、モハメドと一緒に市場にある食材店に行って、定期購入する代わりに安くしてもらえるよう値段交渉をした。そして、私もモハメドと一緒に厨房に立ち、現地で手に入る中国の調味料などを使って、和食もどきのレシピをいろいろ教えた。モハメドはスーダンの首都にある料理学校出身の訓練を受けたシェフだったので、実は色んな料理が作れたのだが、全くフィードバックがなかった事と材料費が限られていた事で、実力を発揮する機会がなかったのだ。

そこで、食堂の壁にホワイトボードを設置し、今日のメニューをモハメドに聞いて書き出し、さらに職員の皆にメニューのリクエストやフィードバックも書いてもらうようにして、それをその都度モハメドに伝えるようにした。こうすることでモハメドのやる気も倍増し、驚きのメニューが度々登場するようになった。職員のお誕生日やクリスマスなどのイベントの際はケーキを焼いてくれたり、特別なパーティー料理も作ってくれた。

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*上の写真は、赴任後間もない頃に催した日本食ディナーパーティー。

イベントを度々開催する事で、それまで自分の部屋で一人食事を作っていた人も徐々に食堂で一緒に食事を取るようになり、みんなで和気アイアイと話す機会も増えて、チーム全体の和も向上したように思う。私だけではなく、他の職員もたまに厨房に立ち、得意料理を披露してくれたのも懐かしい。職場の同僚ではあるけれど、ダルフール にいる間は、まるで家族のような関係を食を通じて築くことができた。家族だと思うと、多少腹が立つことがあっても、まぁ仕方ないか、と思えるようになるから不思議だ。

ちなみに、ダルフールから離任する際、仕事の引き継ぎの他にもうひとつ頼まれた引き継ぎが、チョコレートブラウニーの作り方を伝授することだった。私はたまに夜中に厨房でブラウニーを焼いていたのだが、これが皆のお気に入りになり、日中40度近くまで気温の上がるダルフール では手に入らない材料の板チョコやクルミを休暇のたびに買ってきてくれる人も何人かいた。総勢20人の宿舎の住人みんなに行き渡る様に毎回大きなブラウニーを二つ焼くのは結構大変だったけれど、みんなの喜ぶ顔を見たくてよく作っていた。これはコストがかかり過ぎるのと材料の一部が現地では手に入らないのでモハメドには頼めなかった。ブラウニーのレシピの後継者には、お菓子作りの経験があり、さらに几帳面だったブラジル人の同僚が任命された。その同僚とはその数年後ローマで同じ部署に配属になり、当時を偲んで久しぶりにブラウニーを焼いてオフィスの皆に振る舞った。ダルフールでは手に入らなかったアイスクリームも添えて。今でもブラウニーを見ると、ダルフールのことを懐かしく思い出す。ブラウニーの他にも、皮から餃子を作ったり、首都ハルツームから保冷ケースで冷凍した魚を運んで調理したり、巻き寿司パーティーをしたりと、食にまつわる思い出は枚挙にいとまがない。そしてその思い出はみんな幸せなものばかり。どんなに仕事が忙しくても、辛いことがあっても、みんなで囲んだ楽しい食卓に助けられた。

モハメドは元気だろうか、と時々考える。北ダルフール の宿舎の食事が美味しいことは、他のダルフール地域事務所でも有名になり、他の宿舎のシェフがモハメドに料理を習いにきていたこともあったくらいだから、きっと今でもどこかでその料理の腕を発揮していることだろう。



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