「離散の軌跡」展で考えるヴァリアン・フライたちの難民救済活動@The Whitworth Centre、マンチェスター、イギリス 2023年4月7日– 2024年5月 #TracesOfDisplacement #マイベスト展覧会2023
「離散の軌跡(Traces of Displacement)」展のレポートのつづきである。今回は、ナチスから逃れることを手助けした人々や、その後異国の地で活動をつづけた芸術家にまつわる作品を中心にレポートしたい。
フレッド・シュタイン《ヴァリアン・フライの肖像》1967
第二次世界大戦中(1039~45年)フランスの南部マルセイユの町で、芸術家や思想家を中心としたユダヤ人を救ったのは、ジャーナリストのヴァリアン・フライたちであった。彼が緊急救助委員会のほかのメンバーとともに、手助けに奔走する姿は、Netflixのドラマシリーズ「Transatlantic(2023年)」(2023年12月現在イギリスのNetflixで放映中。)でドラマ化されている、と展示会の説明書きに書かれていたので、早速見た。
フライとその仲間たちが、自分たちの危険を顧みずに、迫害されている人々を救おうとあらゆる手立てつくしている姿が描かれていた。刻々と状況が変わり、誰を信じればよいのか分からない状況で、それでも弱い立場に寄り添うことを放り出さない。美しい港町マルセイユで繰り広げられる彼らの奮闘と難民の苦難は、それがもう100年も前のことであるにも関わらず、歴史ものでありながら、現代に通じるリアリティーが感じられた。
ほとんどの人が自分や身内を守りたいの常であるのに、人を守ることが自分の生きている理由に直結する、ヴァリアン・フライやその同僚たちのような人がいたことに感謝する気持ちになる。第二次世界大戦中に、自らの立場や命を危険にさらして人道支援に尽くした人としては、杉原千畝、オスカー・シンドラー、ニコラス・ウィントンなども知られているが、それら全ての人が保身に走らず、他人を救うことのみに集中していたということが感慨深い。
ドラマの中で、静かだけれど、しっかりものを言う、何か強い印象を残す女性が描かれていて、彼女はハナ・アーレント役だったことが分かった。のちにアメリカに渡り、アイヒマンの戦犯裁判について、バッシングを受けながらも真実を語った人として知られる哲学者である。彼女もヴァリアン・フライに助けられていたのだ。ちなみに『ハナ・アーレント』は、「好きな映画は何?」と聞かれると思い浮かべる映画の一つである。
マルク・シャガール《白い馬のサーカス》 1967
Marc Chagall (1887-1985, Belarus) Le Cirque au Cheval Blanc 1967 Bodycolour on paper
シャガールはロシア(現在のベラルーシの町)の出身で、生涯移動を強いられたアーティストである。ヴァリアン・フライの助けを借りてナチスから逃れ、アメリカへの安全な脱出をはかるシーンも、’Transatlantic’ で描かれている。アメリカへの避難したのは54歳の時だそうである。難民として再定住することに苦労していたようで、「英語を学ぶことを 拒否し、イディッシュ文学で慰めを見出した」と展示会の説明書きにある。たとえナチスという存在に生命を脅かされたからではなかったとしても、自らの意思に反して住み慣れた土地を離れ、新たな文化に馴染むのはとてもエネルギーがいることだ。彼が住み慣れたフランスに戻って永住を決意するのは60歳直前くらいのようで、年齢を考えてみると、やはり国を移動して新しい言葉を一からやり直すのはきつかったのかもしれないとも想像する。ちなみにフランス共和国文化大臣でシャガールとも親交のあったアンドレ・マルローから天井画を依頼されたのはその数年後だったそうだ。
1962年に、シャガールは サーカスをテーマにした作品のシリーズを描き始めた。シャガールが描く幻想的サーカスは、どこか少し寂しげで、彼の深い青の世界に引き込まれる。描くことは彼にとってライフラインだっただろうと想像する。そもそも余興であるはずのサーカスは、私には季節ごとにどこからかやってくる団体のイメージで、とても現実感がない。国外からくるのだろうか。サーカスの存在そのものがすでにどこか幻想的なのである。
マックス・エルンスト《舞踏者たち》 1950
Max Ernst (1891-1976, Germany)Danseuses (Dancers) 1950 Lithographic print
マックス・エルンストの作品は、シャガール同様、ナチスが1937年に行った「退廃芸術展」に含まれていた。ほぼ同時に行われた「大ドイツ芸術展」でナチスお薦めの美術品が集められたのに対し、「退廃芸術展」では現代的な表現を追求した作品が国の内外の美術館から強制的に集められ、評判を貶めるために使われた。作品はずさんに扱われ、額に入れられずに床に置かれたり、タイトルを絵に書き込んだりもされたらしい。国外の作家の作品も入っており、フィンランドはクレームを入れて、フィンランドの芸術家の作品を退廃芸術展から外した、などということもあったそうだ。「退廃芸術展」は国内をツアーで回り、4か月で200万人も動員し、この芸術展の影響で、アーティストは国を追われたり、職を失ったりした。(ウィキペディア「退廃芸術」を参照)
エルンストは、1939年にフランスの収容所であるカン・デ・ミルに収監されたが、ヴァリアン・フライの助けを得てナチ占領地域から脱出し、1941年にニューヨークに到着した。
オスカー・ココシュカ 《ポール・ヴェストハイムの肖像》1923
Oskar Kokoschka (1886-1980,Austria) Head of Paul Westheim 1923 Lithograph
オスカー・ココシュカも、1934年にナチ党によって「退廃的」とラベリングされ、オーストリアから逃れ、国籍をはく奪された画家である。その後イギリス、スイスに移り住み、オーストリア国籍を取り戻したのは亡くなる3年前の90さいの時だったそうだ。どうしてそんなに時間がかからなければならなかったのか。
ヴァリアン・フライたちの努力がなければ、私たちはこれだけたくさんのその時代を生きた芸術家や思想家の表現に触れる機会ははるかにすくなかったはずで、信念をもって動く人の恩恵を後世の私たちは享受している。
リー・ミラー《 マーガレット・スコラリ・バール、イタリア、ヴェネツィア》 1948
Lee Miller (1907-77, USA) Margaret Scolari Barr in Venice, Italy 1948 Reproduction photograph
ニューヨーク近代美術館(MOMA)の創設者アルフレッド・バーの妻で、キュレーターのマーガレット・スコラリ・バーの写真である。1940年の夏、パリがドイツに陥落した後、ヴァリアン・フライや緊急救助委員会と協力し、ヨーロッパから脱出を求めるアーティストの救出を手助けしていたという。
「手助け」とは、実際にはビザ取得、宣誓供述書、略伝、紹介状、少なくとも400ドルの渡航費用 を用意することを意味している。(MOMA blog Inside Out よりhttps://www.moma.org/explore/inside_out/2016/06/22/in-search-of-momas-lost-history-uncovering-efforts-to-rescue-artists-and-their-patrons/ accessed on 18/12/2023) これをたくさんの人々を救済するために行ったという。一人分の書類を揃えるだけでも大変な作業だ。マーガレット・スコラリ・バーとともにMOMA側で一緒に働いた人もいたようである。一人でこなすのは不可能だろう。ヴァリアン・フライの話とは対照的に、スコラリ・バーの功績の重要性は見落とされてきたそうだが、MOMAの最近の研究で彼女の功績が明らかになってきたそうだ。
もともとヨーロッパで活動していた国際救済協会( International Relief Association) はナチスにその運営を止められたため、創設者の一人であったアルバート・アインシュタインがアメリカで引き継いでくれるように要請した。それがアメリカでヴァリアン・フライが共同創設する緊急救助委員会となっていく。ヴァリアン・フライの意思をついで、現在でもInternational Rescue Committeeは難民救済の活動を続けている。あの黄色に黒の矢印が書かれたロゴのチャリティーだ。