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「離散の軌跡(Traces of Displacement)」展@The Whitworth Centre、マンチェスター、イギリス 2023年4月7日– 2024年5月 #TracesOfDisplacement #マイベスト展覧会2023

ちいさな美術館の学芸員さんが企画してくださったアドベントカレンダー 
#マイベスト展覧会2023 に参加させていただきます。



「離散の軌跡」展

’Traces of Displacement’

9月ごろ、ある展覧会のためにイギリス、マンチェスターにあるThe Whitworthを訪れた。その際にふらっと立ち寄ったこの「離散の軌跡」展には、もう一度しっかり時間をとって足を運ばなければならないと感じていた。「離散の軌跡」と題されたこの展覧会は、歴史的で、かつ現代的な、まさに私たちが抱える最大の問題の一つである、「望まない移動」を主題にしている。

イギリスで難民問題がニュースにならない月はない。今月にいたっては、毎日のようにイギリス政府の難民問題への解決策というアプローチでこの話題を耳にする。私たちが日々受けとる、ニュース番組で聞く難民・移民問題は受け入れる側の視点が多く、それが具体的な事例であったとしても、どこか抽象的である。そこで語られる「難民」には一人一人の顔がない。

この展覧会では、現代の、または20世紀初頭の、故郷を離れざるを得ず、しかも辿り着いた場所から受け入れられることが困難な人々が、自ら経験してきたその痛みを、「アート」というコミュニケーション手段を用いて私たちに伝えてくれる。

生まれる場所を選ぶことは誰にもできない。彼は私だったかもしれないし、私は彼女だったかもしれない。

コーネリア・パーカー《エルサレム(占領地)》 2015

Cornelia Parker (1946, UK) Jerusalem (Occupied Territory) 2015 Patinated black bronze'

展示風景、コーネリア・パーカー《エルサレム(占領地)》 2015年、@The Whitworth

《エルサレム(占領地)》は、パーカーが都市の舗装スラブの間の亀裂のキャストを制作したシリーズの作品の一部で、彼女はこれを「その輪郭を記録し、その領域を占拠する試み」と表現している。現地で石畳の輪郭をイギリスに持ち帰ってキャストして作った大きな作品だ。

展覧会場でまず初めに目につくその大きな作品は、金属(ブロンズ)でできているにもかかわらず、はかない感じがあって、そのささくれた細く薄くイレギュラーな縁に仕切られた空間は、何か空虚なものを感じさせた。その空間は、失われた領土(イスラエル・パレスチナ紛争の結果、パレスチナ人が強制的に遠ざけられた地域)を示唆しているのだということを説明を読んで理解した。コーネリアパーカーの作品はもっと見る機会を増やしたいと感じた。彼女の作風は、語りたい内容があって、使いたい素材があって、それらを彼女独自の翻訳装置に通して、大きなスケールで表現しているものが多い。あまり脱線しないようにしたいが、コーネリアが彼女の作品づくりについて答えている、テート美術館が制作した一問一答のビデオを見つけたのでリンクを貼っておく。


ヒワ・K《上空からの眺め》2017

’View from Above’ (2017) by Hiwa K. 

通常は時間がかかりそうだから、と敬遠しそうなビデオ映像。荒廃した町の模型が写されたその画像に引き寄せられ、今回はモニターに繋がっているヘッドホンを付けて、しっかり見た。メモを取りながら二回見た。ビデオは12分間。この作品の作成者であるヒワ・Kは、イラク領のクルディスタン出身である。ビデオの内容は次の通りだ。

ナレーターがMという難民申請者とのやりとりと、Mに起こったことについて語っている。クルディスタン出身のMは迫害を逃れ、あるヨーロッパの国Xに難民申請をしている。何度トライしても申請は却下されてしまう。なぜなら難民として認定されるには、「国連が定める、安全ではない地域」から来たと証明できたなければならないからだ。Mが生まれ育った町は実際には安全な町ではなかったが、国連に安全な町だと認定されいる場所だった。MはX国で難民申請できる回数使い切り、強制送還にあいそうになった。捕まるのを逃れ、Mは別のJ国に行って難民申請を試みた。そこでMはこれまでとは別の方策をとった。自分が生まれ育った町の記憶を、国連に安全地帯ではないと認定されているK町に塗り替えたのだ。MはK町の地図を詳しく覚えた。道、有名な建物、あまり有名でない建物まで、しっかり頭に叩き込んだ。その結果、申請の面接で役人はすぐにMの難民申請を許可した。なぜならMが語ったK町の説明は、役人が照らし合わせているK町の鳥観図にぴったり一致したからだ。Mは強制送還されずにすみ、命は助かった。でもその代償はあまりに大きかった。彼は自分がすり替え、必死に覚えた町を自分の故郷だと、架空の妻が本当に存在していたと信じるようになってしまった。つまり自分の本当の故郷を忘れてしまったのだ。

ナレーションの間、モニターには、白黒の、破壊されつくして荒廃した町の映像がゆっくりと流れる。ビデオは少し上のほうから撮られ、最後は鳥観図のように真上から見た様子が映し出される。モニターの脇に貼られている説明書きには、このストーリーが架空なのか、事実なのか、それともどちらも含まれているのかは敢えて明示されていない、というキュレーターからの説明が入っている。

展示風景、ヒワ・K《上空からの眺め》2017 @The Whitworth
破壊された町のモデル(ビデオ映像)
展示風景、ヒワ・K《上空からの眺め》2017 @The Whitworth
破壊された町のモデルの上空からの眺め(ビデオ映像)

「たくさんの難民申請が許可されない。その理由は、危険にさらされた故郷がどんな場所なのか、地面に立って頭に描いた地図を説明しても、役人のが見ている鳥観図と一致させることが難しいからだ。」という難民申請のプロセスの矛盾に疑問を投げかけるこの作品は、判定する側の仕組みが本当に援助が必要な人を救えていない現実を教えてくれる。

私たちは、経験していないことは想像力が及ばない、という前提を肝に銘じて物事の理解に努める必要がある。いったん出来上がった仕組みは、その妥当性を問われないまま、テンプレートとして使われていく。「どんな情報を、どういう方法で知れば本当に援助が必要な人を救えるか」というプロジェクトの出発点を忘れずに、定期的に当事者の声に耳を傾けながら本質を問い続け、テンプレートを改定し続けること必要だ。その時に、言葉以外での表現方法を持ち合わせるアーティストの声も聞いてほしい。アーティストの作品が時代を超えて残っていくのは、大量生産されていく情報とは異なり、本質的な問いが含まれているから。

Safdar Ahmed《国境での茶番劇》2022

Safdar Ahmed (1975, Australia) Border Farce 2022 2 channel video, 15:55 min

さて、次の作品はビデオ映像、Safdar Ahmed《国境での茶番劇》である。日本語での訳語例がウェブ上で見つけられなかったので、訳さずに使うことにする。 タイトルの’Border Farce’は「国境での茶番劇」というような訳語になると思われるが、Border Force「国境警備隊」をもじったタイトルであり、オーストラリアの国から派遣されてきた国境警備隊が起こした/起こしてきた難民に対する非人道的な対応を皮肉を込めてつけたタイトルだと思われる。

展示風景、Safdar Ahmed《国境での茶番劇》2022 @The Whitworth
Kazem KazemiとSafdar Ahmedによるコミックアート(ビデオ映像)  
展示風景、Safdar Ahmed《国境での茶番劇》2022 @The Whitworth\
Kazem Kazemiが所属する音楽バンドHazeenの演奏シーン(ビデオ映像)


この作品は、シドニーを拠点に活躍するコミックアーティストで、イランのクルディスタンの出身であるSafdar Ahmed、クルド系イラン人でヘビーメタルギタリストのKazem Kazemi、映像監督ののAlia Ardonとのコラボレーションである。作品の中ではKazem Kazemiが難民としてオーストラリアへやってきたものの、難民申請を受けられずに、拘留されていた6年間と、その後の影響について語っている。

美しい南の島にあるマヌス島拘留施設(Manus Island detention centre)に彼は6年間拘留された。その間の管理する側の執拗な精神的、肉体的な暴力に、精神を傷つけられ、記憶に障害を負ってしまったと話す。特に彼の友人が警備員二人に殺されてしまったことが彼に与えた影響は大きかった。心の傷を癒すのに、デスメタルは特効薬なのだ、と彼は言う。モニターには、Kazem KazemiのバンドHazeenが作る映像、炎に包まれた白塗りの顔をした演奏者たちが映し出される。語っているKazem Kazemiの顔が画面にたくさん写される、彼の後ろに白黒のコミックアートが背景として現れてくる。彼の頭の中で起こっている辛い刺激が今でも彼を攻撃しているのだ、ということを理解した。繰り返し蘇ってくるつらい記憶を、彼はデスメタルという激しい音と自らの表現手段で、打ち消しているのだろうか、などと勝手に想像した。本当のところは本人にしか分からないとは知りつつ。映像はバンドのメンバーが故郷の食事を手作りして食べるという和やかな雰囲気で終わっていた。彼は現在も無国籍である。

ある国に生まれ、自動的にその国の国籍を得て、すでに存在している書類を取り寄せてパスポートをとる、そういうことが当たり前でない状況におかれている人が世界中にたくさんいる。無国籍である人が抱える不自由さと絶望感は想像してもしきれない。まずこう思った。「難民に人道的な対応できない国は、守るつもりのない難民条約を結んで人道的なフリをしない必要があると思う。間違ってそういう場所を彼らが目指した挙句、別の苦難を味わうだけの結果になってしまうからだ。」そう書いて、やはり思い直した。私の思考は簡単な解決へ流れているもしれない、と。難民条約は国が人道的であろうとする最低ラインの決意であるから、必要なものだ。ただその内容を常に問い続けることが必要なのだと思う。結局どんなに強固な取り決めも、ずっと関心を持って問い続けなければ、中身がない箱になってしまうものだ。

 英国の外国人強制収容所における記録

Selected objects from the Wolff family

これらは、ナチスの迫害を逃れてイギリスに亡命してきたユダヤ人の父Arther Wolffの娘である、Janet Wolffさん(マンチェスター大学の教授)がこの展覧会に貸し出している複数の資料である。父Arther Wolffが家族をナチスから救おうと努力したが、あらゆる試みも全ては成功しなかった。Arthorの父は英国に居住していたにも関わらず、ナチス支持者に暴行されて亡くなったし、兄弟夫婦が強制収容所に送られるのを阻止することはできなかった。

展示風景、Ernst Eisenmayer《バイオリン奏者のスケッチ》
マン島強制収容所にて制作1940 @The Whitworth
Ernst Eisenmayer (1920-2018, Austria) Sketch of violinist made in internment camp, Isle of Man 1940


展示風景、「鉄条網の向こうの芸術」展のポスター、
マン島Mooragh強制収容所にて制作 1940 複製プリント @The Whitworth
Poster for Art Behind the Wire exhibition held in Mooragh camp, Isle of Man 1940
Reproduction print

1939年から、ヨーロッパからの難民の多くは、「敵性外国人」としてマン島やグラスゴー、リバプール、マンチェスターなどのキャンプに収容されていた。キャンプでの生活は苦しいものだったが、芸術家たちはコミュニティの癒しのため、わずかな資源のを用いて、キャンプの雑誌を制作したり、劇や音楽コンサートを開催したりした。1941年の「Art Behind the Wire」のアート展のポスターが資料のなかに残されている。

マンチェスターからわりと近い場所に住んでいるが、上に挙げられた場所に外国人収容キャンプがあったということは初めて知った。自分から調べに行かなければ自然に耳に入ってこないようなことがあるのだ。

マーシュ・アラブコミュニティメンバー「カーペットまたはテント・ハンギング」 c 1945-55

Carpet or Tent Hanging c 1945-55 Made in Iraq
Tambour work on hand woven wool ground, created by Marsh Arab community members

展示風景、マーシュ・アラブコミュニティメンバー「カーペットまたはテント・ハンギング」
c 1945-55 @The Whitworth
展示風景、マーシュ・アラブコミュニティメンバー「カーペットまたはテント・ハンギング」
c 1945-55 @The Whitworth クローズアップ(手織りの羊毛地にタンバー・ワーク)

このテキスタイルはマーシュ・アラブ・コミュニティのメンバーによって作られたものである。「マーシュ・アラブ」は、メソポタミアの湿地帯であるイラク南部およびイラン南西部に位置するマーシュ地域の住民を指す。1990年代初頭、サダム・フセインはマーシュ地域を体系的に破壊し、マーシュ・アラブを反乱への参加のために追い出し、罰するために爆撃や排水を行った。これにより水位は90%減少し、何十万人もの人々が追放され、経済と文化が壊滅的な打撃を受けた。 2000年代を通じて、マーシュ・アラブは地域に水と生態多様性を回復させ、約25万人が帰還することができたものの、今日、この重要な生態系は政治的および環境的な要因により再び崩壊している。

Frederic Etienne Joseph Feldtrappe 《奴隷貿易》1815-20

Frederic Etienne Joseph Feldtrappe (1786-1849, France) 『Traite des Negres(奴隷貿易)1815-20』 Roller-printed woven cotton, hand quilted onto woven cottonlining(ローラープリントの織り綿、手縫いされた織り綿の裏地)

展示風景、Frederic Etienne Joseph Feldtrappe 《奴隷貿易》1815-20、@The Whitworth
展示風景、クローズアップ、Frederic Etienne Joseph Feldtrappe 《奴隷貿易》1815-20、
@The Whitworth

このAbolitionist Textile (奴隷制度廃止主義のテキスタイル)は、19世紀初頭にフランスのルーアンで作られた。デザインは二人の芸術家の絵画を参照している。4つの場面のうち2つは、イギリスの芸術家George Moreland ジョージ・モーレンドによる絵画、野蛮なヨーロッパの奴隷商人とアフリカの大陸から来た人々が難破した家族に援助を提供する様子を描いている。他の2つの場面は、フランスの芸術家Nicolas Colibert ニコラ・コルベールによる版画を基にしており、アフリカの農民が奴隷商人によって家族から引き離されるされる様子を示している。このようなテキスタイルは、奴隷貿易の廃止を訴える人々の家に飾られていた。ちなみに生地の綿は当時奴隷によって摘まれていたものである。

説明書きはこのように締めくくられている。「Whitworthのコレクションの中には、綿の生地で富を築いた慈善家によって寄贈された作品も含まれている。イギリスでは、今でも不透明な形で奴隷制度から恩恵を受け続けているという現状がある。」

白の背景に一色でパターンを描いたフランスの布のジャンルとして、トワル・ド・ジュイ(toile de Jouy)は知っていた。通常牧歌的な絵が描かれていてフランスっぽい布としてよく見かける。そういうふわっとした牧歌的な印象があるスタイルだけに、非人道的な行いをしている絵と組み合わさったとき、とてもインパクトがある。まさに奴隷制度廃止主義を主張していくのにパワフルなデザインで、現代を生きる私たちにでもその居心地の悪さは伝わってくる。

レオン・コソフ 《帰宅》 1984

Leon Kossoff (1926-2019, UK) Going Home 1984 Etching and drypoint

展示風景、レオン・コソフ 《帰宅》 1984、@The Whitworth

展覧会で作品を見ることの意義は、その作品自体に触れることはもちろんであるが、その作品がなぜその展覧会に選ばれたかという文脈を理解することである。

この作品の説明書きをした人は、香港で長年住んだアパートを売り払い、マンチェスターにいる家族と離れ離れになっている香港出身であるこの展覧会のフォーカスメンバー(この美術展のためのキュレーショングループ)の一人である。この人は「帰宅」というごく平凡な日常の一場面を、ディアスポラ/離散の人々にとっては、失われてしまったかけがえのないものの象徴として選んだ。物質的な家、かつてあった場の雰囲気、日常風景、心を許せる家族や友人。あらゆる意味での「家」は失われてしまったと説明するこの人の目にとまった作品が《帰宅》であった。同じ問題を抱える人なら共感せずにはいられないものなのだと思う。

この作品に対して別のフォーカスグループメンバーが詩を詠んでいる。
Poem for Leon Kossoff, Going Home
Feeling the ground
Shaking under my feet,
hearing the voice
In my head on repeat.
Where's my home?
The home far away,
away, but still close
every single day.
Faces all around,
but feeling alone.
The outer peace is found,
the inner forever gone.
Ani Daspanyan, Traces of Displacement focus group member

(日本語訳)
「レオン・コソフ《帰宅》に捧ぐ詩
地面を感じる
足の下で揺れている、
頭の中で声が聞こえ続ける。
私の家はどこ?
遠くの家、
遠く、でも近く
毎日毎日。
周りには顔がいっぱい
でも孤独を感じる
外にある平和は見つかる
しかし内なる平和はもう見つからない。
アニ・ダスパニャン、「移動の痕跡」 フォーカスグループメンバー」

移民である私にとって、難民の人が抱える「心と体が帰る場所としての家がなくなってしまうつらさ」は想像してもしきれないものだと分かっている。でも、そんな自分でも、私だってそういう状況になることだって容易にあるという気持ちが消えることはない。

終わりに(続きは今後書く予定。。。)

ここまで書いて火曜日の夕方。木曜日のアドベントカレンダーに入れてもらうには、もう今夜で切り上げなければならない。しかも,これは一つの投稿で書きあげるにはボリュームがありすぎるということが判明した。第一次大戦中アーティストの移住を助けたヴァリアン・フライや、難民に関わるジェンダーと人道主義などについても書き始めたものの、何しろ一つ一つのテーマが大きく、もう少し時間をかけて書きたいため、これは次回に続きとして書くことにする。

あまりに集中してたくさんの作品を見ていたため、数時間後、私は抜け殻のようになってThe Whitworthを後にした。皆さんも読んでいただけたとしたら、さぞ疲れていらっしゃるはず。クールダウン用の画像でこの投稿を締めくくることにする。


The Whitworthに隣接する公園にいたリス、餌をあげている人のお蔭で近くで撮影ができ、感謝


The Whitworth を出る
マンチェスター大学近くの教会、バス停はイベントのちらしなどを貼る格好の掲示板になっている
マンチェスター大学の門の前を通る、The Whitworthもマンチェスター大学の傘下にある
大学に隣接しているマンチェスター美術館のタカアシガニは、通るたび必ず見る
駅前のグラフィティ、マンチェスターはグラフィティがたくさんある
駅前のグラフィティ、昼間みんなと通れば大丈夫
The Whitworthの最寄り駅 Oxford Road駅前、帰宅

最期まで読んでくださってどうもありがとうございました。この展覧会の残りの作品についてもまた書きますので、この話題に興味を持っていただけたらそちらも読んでみてください。

ちいさな美術館の学芸員さん、アドベントカレンダーに参加させていただいてありがとうございました。



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