書き始めた理由みたいなもの

noteを数日続けてみてまず理解したことは、自分の気持ちを書く力が相当衰えていること。

文章のお作法という意味ではない(これは自覚的に破っている)。ビジネス的な文書は日常的に作っているわけだし、誤解を生まない文書のありようについては、仕事柄、人並み以上に意識を向けている。でもこのnoteはなるべくどんな受け取り方をされても構わない話を書こうとしているし、むしろガバガバで隙間だらけの文章を書こうと決めている。

そもそも、自分の気持ちをテキストにしたものが、一度の質疑応答もなく、正確に他人に伝わることのあるはずがない。彼我には必ず経験の差があり解釈の差がある。すれ違いが前提だからこそ共感できる喜びが大きいわけで、自分以外の誰かと100%わかりあうことができないことこそ人間の可能性のすべてなんじゃないかぐらいに思ってる。

だから、「気持ちを書く力の衰え」というのは、自分の気持ちを正確に書き下す技術の衰えをいいたいのではなく、はて、自分の気持ちとはなんであったか?というもっと根っこの部分の話だ。言語化するコストを払うだけの「自分の気持ち」ってどこにあるんだっけな?と。

私にはアラフォーのワーママという外形的特徴があって、その日常生活では、お互いに問いを投げかけ解像度を上げ合う会話というものがほとんどない。会話のうちのほとんどは事務連絡か、コミュニティに継続参加するための挨拶とその延長線上の世間話か、問いを投げられるか、こちらから問いかけるか(決して問いの投げかけ合いにはならない)だ。

気持ちを模るためには問いが必要だと思う。問われて、答えを探すプロセスを経て形ができてくるものだ。いまの私はもっぱら、自分自身で問いを立てている。自問自答とか自省とかいうやつで、悪いことじゃない。悪いことではないが、とにかく緩慢でじれったい。私には自分自身がハッとするような問いを生む力が足りず、はて、自分の気持ちってなんだっけな?みたいなところで呆気にとられたりする。こういう場面でメンターというものが力を発揮するんだろうなとぼんやり思う。

人見知りでビジュアルの圧が弱いくせに理屈っぽく頑固な私が、素晴らしいメンターと出会える機会は今のところほとんどなさそうなので、なんでもいいから気持ちに形を与えて外に出し続けてみようと思った。時間をおいたらなんかわかんないけどハッとする問いが出てくるかもしれないし、まあ断片的でも量があればなんとなく全体がわかったような気になりそうだしね。

結局さ、娘が少し成長して、つきっきりでなくてもよくなったせいで余計なことを考える時間ができただけなんだけど、昔から余計なことを考えるのが好きなんだからしょうがないよなあ。

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