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空と海と、19日目

2019年5月14日

6時5分、霧雨の中を出発した。ザックの中の物をそっくり次の宿に運んでもらうので、軽くて楽チン。

花の子ルンルンの歌が出てきそう。本当は花の子ルンルンの歌を知らないのだ。

ただ、ルンルン ルンルン ♫

『魔法使いサリー』なら知っていた。

まはりーくまはーりた やんばらやんやんやん ♪

5月は一年で最も新緑の鮮やかな季節。今朝の木々は雨のせいでトーンを下げて大人びた感じだ。朝早いのはどうして気持ちがいいのだろうか。

子育ての頃は、休みになると少年⚽️   サッカーの試合で息子たちのお供で早起きをした。起きるときは苦痛なのだが、しかし清々しかった。早起きは三文の徳というように、なにかあると思う。

それはきっと、一日のできたてホヤホヤに遭遇するからかも知れないと、今朝思った。

何にしても出来たては貴重だ。何ともいえない感じがするのだ。

産声をあげた赤ちゃんにしても、できたてのパンやご飯にしても、もうそれだけで特別感がある。ちょっと違うが、初恋もそうだ。ホヤホヤは初々しい。

女房と畳は新しい方がいいのだ。そんなホヤホヤの一日を、田んぼのカエルの合唱と共に歩を進めた。実にのどかだ。五穀豊穣、やがて実りの秋を迎えるのだろう。

少し歩いて止まり、菅笠にカバーを被せた。雨が本降りになって来たので又止まり、ザックのカバーとレインウェアーの上着を着る。このレインウェアーが蒸し蒸しと暑くなるので、なんとも面倒だけど風邪を引いては元も子もない。



ザックは軽いが、一昨日からのお尻の筋肉が痛い。まだ歩き始めて間もないのに。

足を前に出す度にキュキュッとくる。台所洗剤じゃないけど、違和感は少しずつ増している。それは我慢できない程ではないものの、明らかに正常ではない。

今日もひたすら国道56号を歩き、宿の分岐にさしかかる『道の駅ビオスおおがた』を目指すので基本、迷うことはない。

元気出していこう!

何が元気なのか分からないが、いつものように自分を鼓舞する。



30分ほど歩くと『文殊堂』の入口が出てきた。良く耳にする、あの文殊?と思いながら隣の説明書きを読んだ。



文殊堂  
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文殊菩薩は「三人寄れば文殊の知恵」といわれるように知恵の神様です。この世の間違った考えや、人々の迷い、無知を正し、本当の知恵を与え人間社会に幸せを送る菩薩です。複雑な人間社会に生きる迷いがとれるかも知れません。
この小黒の川の文殊様も昔から地元民に親しまれこの地区は昔から賢者を多く輩出しています。お子様の学業、進学、免許取得の祈願の他、賢くなる為の様として多くの人々に大切にされたいと思います。三月に開花する山桜の大木は見事なものです。 
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人の考え方は、滅多なことがない限りなかなか変わることはない。変わるということは自分を否定することに等しいから、仮に・もし・万が一なんて思いがよぎっても決定打がないと修正しにくい。

変化するというのは、難しいのだ。そのままの方が考えなくていいので、楽なのである。歴史から紐解いても分かるように、突き進むときこそ実は危険が潜んでいるのだ。勢いに乗るがあまり目的をはき違えてしまい、修正不能で失敗をする。

いつ何時も、一呼吸おくという姿勢を身に着けたい。


少し違うが、あのダーウィンの名言「・・・唯一生き残るのは、変化できる者である」としたのは、コチコチ頭の人には響くだろう。本来の意味が違うとしても、常に自身を顧みる姿勢は万民の教訓にしたいものだ。もちろん、自戒を込めて!

加えて言うと、ブレることとは異なるのだ。(言葉は難しい)







現在の若い人たちは吸収も早く怖いものがないような時も、人生の先輩に教えを請うような場面があるのは有難いと思う。それが単なる戯言(たわごと)であって出鼻をくじかれそうな思いになったとしても、間違いなく立ち止まるきっかけにはなる訳で、『冷静』の二文字を与えてもらえる。逆もしかり。

迷いがあっても大丈夫だと肩を押されたら、案ずることなく進めばいいだけ。












8時半に、朝ご飯にありつく。
雨は降り続いている。合羽が蒸れるので雨でも暑い。上等な合羽なのになぜ蒸れるのだろうか…




好きな言葉を思い出した。
『泰然自若』

〈 物事の動じず平然としている様 〉

どんなことにも感情的でなく、落ち着いていること。拡大解釈をしてしまうと捉え方が大きく変わってしまいそうだが、大きな懐を持った人間像を描くのである。そしてその姿を具現化するとしたら、いつもお坊さんの姿が浮かぶのだ。私はこの四字熟語は心の一番隅にしまっている訳で、もしかすると空海と私の接点がこれなのかと考えたていた。

密教や般若心経も他人に語れないほど全く知らないが、まわりまわって繋がっているのではないかと。


🎏鯉のぼりではなく、カツオのぼりが目立つ。



長いトンネルを抜けるとそこは雪、ではなく雨だった。

この好きになれないトンネルにも長所がある。先ず、紫外線がない。そして雨を凌げる。それと、トンネル内は常にひんやりするのだ。

しかし出来ることなら通りたくない。確実に危険度が増すからだ。

今日もいくつかのトンネルを通り、そしていつものように🚛トラックの風圧にビビっている。

風圧で何㎜か浮きそうになるからだ。

子供の頃に行った遊園地。
🎢 🎡 🎠 
そこに『ローター』という乗り物があり、丸いその部屋の壁を背に立つのだ。すると、その丸い空間がどんどん回転して、遠心力で人間が壁にペタッとへばり付いてしまう。手提げカバンなんかも、壁に引っ付いてしまう。それを更に体感させるために、床が足の下から少しずつ下がって行くのだ。
床に足がついてないけど落ちないのを感じる、なんとも変な気分になる。
トラックの風圧で浮きそうになる感覚と重ねていた。ビビリでジェットコースターに乗れなかった私は、子供の頃に一番乗ったそれは今でいうアトラクションだったのだ。
その『ローター』に姉妹でよく乗った。床が落ちて行くのを知っているのに、落ちていくとキャーキャーと黄色い声を出していたことを鮮明に覚えている。
その動物園で撮った写真の母親は若く、頭にはレースの三角巾をして日傘を差していたことまで覚えている。現在はその母も、私の名前も分からなくなるほど年老いてベッドに寝ている。
こんなに長く独りで歩いていると、昔のことも記憶の糸を手繰り寄せたかのように思い出している。へんろ道沿いで小さな家を見ると、若いころの両親はこんな家に住んだのだろうか、と元気な頃の二人を想像してみる。
人は二度死ぬと聞く。初めは肉体の死そのもの。二度目は、この世から忘れ去られたとき。
偉人なんかは、ずっと語り継がれる限りまだ生きているのか。逆に、語り継がれる極悪非道の悪人も生きていることになる。動物のように皮は残せないので、人は名を残すのだ。
情報の海から孤立していると、自分の記憶と想像がほとばしる泉の如く湧いてくる。











こうやって雨が降る日は濡れるので、スマホの反応が遅いし、変わり映えのしない景色を撮るのも飽きている。SNSの投稿がなかったら、こんなに写してないかもしれないと思った。
四国の人里離れた場所にも、カラフルな選挙ポスターが貼られている。妙な感じだ。
夏の選挙を見越してのことだろう。この日本丸の舵取りが、どんどん脅かされていることが心苦しい。志を高くもっても人は変わる。変わらざるを得ないのだろうか。








    ●汚い画像で、失礼




















道の駅の食堂にラーメンがあった。一番人気の『宗田節ラーメン』は、見かけは地味だけど何気に美味しかった。フツーの鰹節と違って、ブランドものだ。



宿の道を尋ねると10分か15分ですねと言うので、私の脚だと確実に15分はかかるな、と。言われたとおり白い橋を渡り道なりに進んだ。海岸の傍にはらっきょう畑が続く。







途中に、目指す宿の『ネスト・ウエストガーデン土佐』の標識が出ていたので、この道で間違いないのだが30分くらい歩いているのに着かない。心配になって宿に電話すると、もう直ぐだと言われる。30分以上かかるんじゃないか。間もなく円柱の宿泊施設が見えて、その横に大きな避難タワーがあった。

高知県に来て避難タワーは何度も見てきたが、これが最大級だった。それを見ると、実際に津波がくると未曽有の事態になることが読み取れる。その宿は海の目の前だから、これがないと客足も遠のくのかもしれない。

こんなに素晴らしい景色も、いつか来ると確実視されている津波に備えているのだ。




母親像は、太っている方が良いのだろうか。2時20分、宿に到着。
部屋に入ると、布団が敷いてあった。


玄関にウエディングドレスが飾られた宿は、建物の真ん中がすっぽりと中庭になっていて白を基調とする洋風な造りであり、築20年の轍もしっかり残していた。

夕ご飯は、いつものように3杯食べた。フツーのお茶碗とは違い、旅館や食事処などで見るあのズンドーで陶器のやつだ。お茶碗の1.5倍は入る。




元々が大食いであるが、この消費する歩きで骨川筋衛門になってはダメなので、しっかり食べているのだった。

さすがに3杯目をお替りするときは、少し緊張気味でお願いした。きれいなお姉さんは、イヤな表情一つせずに笑顔で持ってきてくれる。







私の食べ方を見て、土佐の大食い選手権の予選にでも出ませんか❓と、まさか言っては来ないのだ。
心の中が見えなくて助かるときもある。

部屋に戻り、四つん這いになり痛い痛いと3杯食べたお腹のことではなく、足・お尻・腰・肩の全身の節々が同時多発テロみたいに痛み、それはお婆さんそのものである。

どこかで丸々一日休んだ方がいいのかも知れないと思うようになった。
blogで結願(けちがん)した人を参考にしているが、根性論ではなく何かが違っているように思えた。

人間の限界って、どこにあるのか考える。

まだ行けるか?

明日は動けるか?

明日は歩けるのか、明日もまた『左』が正常でないのか、ちゃんと次の宿まで辿り着くのだろうか。明後日は打ち戻りで、40㎞のウォークなのだが戻れるだろうか。

今、まさに私はこの非日常と格闘しているのだった。体と心と、そして目に見えない何かと。

間違いなく贅沢なこの時間を、噛みしめて進んでいく。

本日、43.773歩

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