
静かで穏やかな普通の日を幸せと思える幸せ
今日は私の誕生日だ。
もともと記念日が大好きな私だったが、今日は今までで一番、穏やかな気持ちで誕生日を迎えることができたような気がする。
朝、息子と歩く駅までの道のり
電車で通学している中学生の息子は、コロナで入学が遅れたこともあって、電車通学に緊張し、駅まで一緒に行って欲しいと言うので、朝の駅までの散歩が駅まで息子を見送るのが日課になっている。
最初はめんどくさかったが、実際にやってみると、朝が弱いわたしでも、駅まで歩くと目が覚めるし、体が起きるのでなかなか良い。朝のウォーキングだと言うことにして、中2になった今も駅まで7分ほど歩き、息子を改札まで見送っている。
朝、息子と並んで話す、さりげない会話が意外と楽しかったり、
あんまり行きたくない月曜日の朝なんかは楽しい話をしながら送り出したり。
もう見慣れているはずなのに、毎日息子が改札を入って電車のホームに向かう姿を見おくると、小さかった息子が1人で電車に乗って学校に通うようになったのだなぁ、と毎日感動するし、今日も幸せな日を送れますように、無事で帰ってきますように、と息子の背中に呼びかけている。
いつもと同じ日常をありがたいと思える心
今日も、いつものとおり、息子と一緒に家を出た。駅まで歩く間、秋晴れのひんやりとした朝の空気の中、言葉少なく2人で並んで黙々と歩いた。
この瞬間、平穏で平和で、息子が隣にいて、こんなに気持ちの良い朝の空気の中、静かに歩いている何気ない日常がとても幸せだなと思った。
歩いている途中、息子に「今日は私の誕生日なんだけど、あなたと2人でこうやって平和に日常遅れていることがとても幸せだと思う」と伝えた。
息子はコクリとうなずいて、また黙々と歩き、駅の改札で後ろ姿を見送った。
世の中が、コロナだったり、地震だったり、いつ何があるかわからない不安定な世の中になったこともあるが、なにもなく、平和な日常と言うのが本当にありがたいことだなと思う今日この頃だ。
若いころは、誕生日には特別なことをしないと気がすまなかったし、それを祝ってくれない家族も嫌だったし、不満ばかりだった。
だが、45を超えたあたりからか、誕生日は「自分の中での節目」と捉えるようになってからは、そこまでこだわらなくなったように思う。
あれこれ要求しなくなったら、なぜか旦那が何か食べに行こうと言うようになったり、人って不思議なものだ。
今日は滅多に外食しない我が家が、家族でステーキを食べに行った。肉ムスメなわたしは満足。
プレゼントはご祝儀袋
肉はめちゃくちゃ美味しかったし、食べに行こうと言ってくれたのも嬉しかった。
しかしそれにしても、うちの旦那さまは、何かにつけて想像力が不足しているので、「相手のことを思ってプレゼントを選ぶ」という行程を省きがちだ。
わたしは家でバラを育てるくらい花が好きだし、花束って自分ではあまり買わないので、記念日にはお花をもらうととても嬉しい。
そのことは、毎年旦那に伝えていて、それでも毎回忘れていて、毎年「お花を買ってくれてもいいよ」と言って、やっと買いに行くというさま。
わたしの誕生日が結婚記念日で、結婚16年目。
毎年「花が欲しい」と言っていて、今日はステーキをご馳走になるのに、旦那は会社帰りに店に来るというので、駅の構内に花屋さんもあるし、お花でも買ってきてくれるかなぁと淡い期待を抱いたが、やはりそこはさすがの旦那、16年目の貫禄で花はなし。
誕生日プレゼントも、だいたい私が「これ欲しい」というと、それのお金をくれるという感じなのだが、今回はなんと、ステーキ屋さんでおもむろに取り出したのがこれ。
ご祝儀袋にピン札で、現金をいただいた。
「現金が一番邪魔にならないかと思って」
確かにそうなのだ。そうなのだけど、それはあまり親しくない間柄の相手に何を贈ろうか迷って、最後にギフト券に落ち着く感じのやつだ。
毎日顔を突き合わせているのだから「何欲しい?」と聞けばよいのではないか。
それに、このご祝儀袋を買う手間をかけるなら、駅の構内にある花屋であり合わせの花が買えるのではないか?
わたしはわたしで、今まで毎年何も言って来ないので、フラメンコシューズをねだろうと思っていたのでご祝儀袋は意外だったが、中身の現金が、ちょうどフラメンコシューズを買える額だったので、これで買わせていただこうと思う。
そんな家族を知ってる友人からのサプライズ
こういう朴訥な家族なもので、ほかの人たちが家族でお祝い事をしているのを見ると、それだけでとてもうらやましい気持ちになる。
それを見越してか、先日フラメンコの発表会の打ち上げでクラスメイトと集まったとき、サプライズでお花をいただいた。
誕生日だとは伝えていたが、そんなことは予想もしておらず、サプライズなんてされたこともないわたしは大感激。泣きそうになるほどうれしかった。
そしてその友人が花をくれるときのセリフが
「たぶん花とかあげる家族じゃないだろうから、私たちからプレゼント」
だった。
さりげなくこぼしている台詞を聞いておもんばかってくれたのだろう。それが嬉しかった。そして花とかあげる家族じゃないのを今年も期待を裏切らずに、きっちり花を買って来なかった旦那もすごい。
友人にさっそくご祝儀袋の話をしたら、「高倉健みたい」とコメントをいただいた。
そう。旦那は高倉健にあこがれていて、「不器用ですから。」とか言い出すことがある。友人の読みがまた当たりすぎてビックリする。
しかし不器用ですから。が通用するのは、大俳優の健さんだからであって、健さんが昔結婚していた大原麗子もにも通用しなかったのに、わたしのような未熟者にはその不器用さが通用するはずがないことを、そろそろ分かってほしい。
けれど、こんな我が家のことを分かってくれて、ニクい気配りをしてくれる友人に出会えて、めちゃくちゃ幸せな48歳。
そして、こうやっていろんなことを、不満タラタラでなく、それはそれとして、まあまあ楽しめるようになった自分の成長を褒めたい48歳の自分。
でもこういった思いも、若いころに、記念日を記念日として無理矢理祝ったり、ケーキがない!とごねてみたり、記念日に1人じゃ寂しいからと、誰か見繕って男とご飯を食べに行くとか、いろいろやってきたからこそ、このしみじみした日を楽しめるのかもしれない。
いろいろやってみて、平和な日常がいいよね、とやっと1周回ってわかった自分が嬉しいし、自分の面の成長を感じてそれが何より私への祝福になると思った。
誕生日に大嫌いな掃除をして過ごす
ちなみに今日は少し寝不足なので二度寝をして、午後からは、全くやっていなかった掃除を渋々やった。
明日、めったに来客がない我が家に親戚が遊びに来るからだ。
さすがにカオスで埃まみれでは申し訳ないので、慌てて掃除をする。
しかしそれも、自分の誕生日の節目として、身の回りを綺麗にすると言う意味合いでも、まぁいい機会なのかなと思えた。
誕生日に大嫌いな掃除をするだなんて、今までだったら絶対に許せなかったのだが、そういう発想の転換ができるようになったことも自分の成長である。
私が思い描いていた48歳よりはずっとずっと幼いけれど、でも私はまだまだそれなりに成長している。
そんな自分を祝福しながら、穏やかに1日を過ごせることに感謝である。
そして祝福のメッセージをくれたみなさま、本当にありがとう。
48歳も、もっともっと楽しんでいこうと思う。
今日もお読みくださりありがとうございました!