2番・・・ ⑩恍惚と不安二つ我あり
「オヤジの右が当たれば・・・」
「右喰ろたらもたんやろ・・・」
「どれだけもつかな・・・」
周りの人間たちが呟く言葉が耳に入ってくる。
そういえばAさんが私に話してくれていた言葉を思い出した。
「腕に自信のある奴がワシらの集まりに来ても、オヤジの右喰らって立ってられた奴おらんのやで!」
私は現役の頃から強い相手とやる時ほど燃えた。
逆に、楽勝で勝てると言われた相手だとなんか調子がでなかった。
私のデビュー戦。
相手は老舗のジムで、メインはそのジムのチャンピオンのタイトルマッチ。
アマチュアで数戦のキャリアがあり、勝てると見込んで私は選ばれたみたいだった。
対して私は全く初めての実戦。
大袈裟ではなく、負ければ自殺するつもりだった。
それくらい追い込まれていた。
超満員の後楽園ホール。
普通の神経では、あの光輝くリングには上がれなかった。
気が付けば、「殺す」という言葉を吐いて自分を鼓舞していた。
リングでの記憶。
リングインして見上げたライトの眩しさ。
1ラウンド、ゴングと同時に突進していった私に、相手のアッパーが入り、顎が跳ね上がって視界に入ったライトの眩しさ。
1ラウンド1分16秒。
私は右手を上げられていた。
ライトの眩しさしか記憶になかった。
あの時の恍惚が忘れられない。
そして私は今、人間で囲まれたリングの中にいる。
対峙するオヤジ。
なんとも言えないオーラを発していた。
あの懐かしい燃える気持ちが甦る。
「はじめーーーっ!」
さっきの、Aさんとやった時とは比べ物にならないほど、ドスの効いた掛け声で始まった。
先程と同じく、オヤジの戦闘スキルがどの程度なのかジャブを数発打ってみる。
速く、小さな無駄のない動きで反応する。
なるほど一筋縄ではいかない相手だった。
そうこうしてると、オヤジが仕掛けてきた。
ジャブとは少し違う突きのようなパンチを続けざまに打ってきた。
スリッピングでかわせた。
そして右を振ってきた。
ダッキングして左ボディー。
体が自然と反応したことに自分でも驚いていた。
「オーーー!」
周りからは、私がオヤジの右をかわし、ボディーを打ち込んだことを驚いたかのような声があがった。
でも、いかんせん防具の上からなので、効いた様子は微塵も感じさせない。
続けてオヤジは前蹴りを蹴ってきた。
私も昔、極真系の空手をやっていたせいか自然に反応して、左手でいなした。
心なしか、防具の中のオヤジが少し笑っているように見えた。
私もエンジンがかかってきた。
私の得意のコンビネーション。
左ボディー、顔面への左アッパー、右ストレート。
最後の右はおしくも急所をずらされたけれど、パンチの感覚が戻ってきた。
フットワークとは違う素早い摺り足で距離を詰めてくるオヤジ。
速い左を数発打った後、右。
今度は距離を詰めてフックぎみの右。
ウイービングでかわす。
「ブンっ!」
空気を裂く音。
確かに防具の上からとはいえ、まともに喰らったら相当なダメージを負うだろう。
私はハードパンチャーではなかった。
持ち味といえば打たれても怯まず前にいく、ダウンしたことのない打たれ強さだけだった。
気持ちは現役の頃に戻ってきた。
ただ、哀しいかなスタミナが限界に近づいていた。
次第に肩で息するようになっていた。
これはどちらかが倒れるまで続けるのだろうか?
もう30分くらいこうしているように思えるくらい長かった。
実際には10分くらいだろうか。
最初は、お互いパンチを交換する場面が多かった。
次第に私が反応できず、被弾する場面が増えだした。
足元がふらつきだす。
顔面の防具が重いせいか、脳の揺れが平衡感覚を失わさせる。
オヤジの右も、まともには喰らってないけれど、段々と避ける事ができなくなってきた。
とうとうダメージとスタミナ切れで、両手を膝につかなければ自分の体を支えきれなくなった。
オヤジが距離を詰めてきているのは分かった。
でも、もう顔を上げて反応できない。
下からアッパーぎみの右を打ち込まれた。
視界がグルんと回って、床に身体が打ち付けられる。
後楽園ホールの眩しさとは比べ物にならないけれど、自分の視界にはライトしか見えなかった。
(あー、ダウンするってこんな感じなのか・・・)
もう起き上がる余力はない。
そして蟻地獄のような戦いが終わった。
でも、なんか気持ち良かった。
「自分スゴイなっ!」
「オヤジの右あんな喰ろて立ってた奴初めて見たわっ!」
「自分、エエ根性してるわっ!」
さっきまで射抜くように殺気だった視線を送っていた男たちが、私の周りを取り囲んでいた。
(あー、俺、やっぱこの場所が好きやわ・・・)
私の主戦場だったボクシングの聖地後楽園ホール。
「お前、それでもプロかっ!やめちまえっ!」
早々とガス欠になり、まったく手数がでなかった試合。
容赦ない罵声。
「お前のほうが勝ってたよーーーっ!」
その代り、敵の観客だろうが、根性見せれば評価してくれる。
リングの中の数分の為に、何時間も何時間も練習する。
でも、右手を上げられるこの瞬間に全てが報われる恍惚感。
私は怪我の影響で引退した。
怪我のせい・・・
本当だったんだろうか・・・。
自分でもわからない。
本当はもっとやれたんじゃないのか?
引退して、しばらくするとそんな気持ちが湧き出てきた。
そんな気持ちを殺すようにボクシングのみならず、格闘技関係の情報を一切断ち切っていた。
本当は逃げてたんじゃないか・・・。
やっぱり、私はリングに忘れ物をしていると感じた。
後日、Aさんの事務所に再度、呼ばれた。
「コブシさん、オヤジが一緒にやらないかって。」
Aさんは机の上に新品の真っ白な胴着を私に差し出した。
(もしかしたらあれは、この為の試験だったのかもしれない・・・)
そして、私の取り立て屋稼業が始まった。
ウソ。
胴着は丁重にお返しし、その後、退職金で借金は完済いたしました。
話が大脱線しました。
本編にもどりまーーす。