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「知ってるの、私たちだけだもんね」に反吐が出る



久しぶりに書くnoteなのに、題名が攻撃性1000000くらいなのは深夜の2時に書いているからかもしれない。

永井玲衣さんの連載「水中の哲学者たち」の第8回「こわい」を読んだ。


岡崎に引っ越してきて3ヶ月。
新しい人間関係が始まって3ヶ月。
ずっともやもやしていたことがこの文章のなかでズバリと言い当てられた気がした。


えらいひとの名や、大きく抽象的な概念、専門用語もどんどん乱発される。
対話はブレーキがきかないまま、どんどん前に進んでしまう。
先生のファンだという男性が、後を追うように花火を盛大に打ち上げる。
特定のひとにしか見えない花火を。


わたしはどうやらこの"特定のひとにしか見えない花火"が大嫌いらしい。

なんでそこまで嫌いなのか、拒否反応が出るのか、考えてみた。

思い返してみれば初めて人間関係で大きく躓いたのは小学校3年生くらいだったと思う。

別にいじめに遭ったわけでも、死ぬほど落ち込んだわけでもないんだけど、なんとなく躓いた感覚がある。

性別でくくるのはよくないんだけど、いわゆる典型的な女子のグループができ始める年頃で、どうしてもその雰囲気に馴染めなかった。

なんというか、
「これって知ってるの私たちだけだよね」
とか
「知ってるならグループに入れてあげる」
とか
「知らないなら友達じゃない」
とか

そういう感じが心底苦手だった。

情報の共有が友達関係の第一関門みたいになってるかんじ。

高校、大学と年齢が進むにつれ、一緒にいる人を選べるようになって、しばらく長い間そのモヤモヤとはおさらばしていたんだけど、最近久々に味わった。

あるコミュニティ出身の人にしかわからない単語や話題をわざわざ武器のように振りかざして他人を入れさせまいとするあのかんじ。

それなら2人で話せばいいのに、と思うけど
他人が分からなくて自分たちだけが分かるという優越感もあるのだと思う。

でもこの感覚が少なからず理解できているということは、勿論自分もどこかで"特定のひとにしか見えない花火"を打ち上げてきたということだと思う。

自分の罪に自覚的でありたいと思う。

そんなこと深く考えなくていい、とか
そこまで考えてたら病むよ、とかは
救いの言葉に聞こえるようだけど、私にとっては拒絶の言葉にも聞こえる。 


考えたい、と思う。

考えることで救われる気がする。







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