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”以前の私”と”今の私”

こんにちは、まえゆかです。
毎日5分、継続中。

今日は、参加しているオンラインサロン「コルクラボ」の文化祭の日。

でも、私は参加してない。

これを書いてる最中がまさに開催中で、「行こうかな~。どうしようかな~」とウダウダと悩んでいた。

でも、お昼ごはんに夫が昨晩作ったニンニク炒めを食べて、気持ちが吹っ切れた。
「ニンニク臭いし、行くのはやめよう」って。

”以前の私”なら迷うことなんてなかったはず。
でも、”今の私”はちょっとだけ違っていて、その違いが何かがわからずに、モヤっと感を抱いていたので、今日はぼんやりとその部分を深堀してみようかなと思う。

違うのは、どこ?

言語化はしきれてない部分も多そう。
だけど、書きながら考えてみよう。

”以前の私”と考えると1回目の鬱になった前後くらいのイメージで、たぶん、5年前くらいの私。
”今の私”は夫と結婚した後の私のイメージ。

著しく体力が落ちた

もう、加齢には抗えないんだなと思う。笑
歳を重ねるごとに健康に気を使っているはずなのに、体力はどんどんと落ちる。

夫には、体重が増えたかもと話すと「運動した方が良いよ」と言われ、アトピーが悪化してきた気がすると話せば「運動したらいいんじゃない?」と言われ、冷え性だと言えば「運動したら治るんじゃない?」と言われる。

うん、わかった。君が運動信者なのは知ってる。

でも、運動をするための体力が、ないんだよ。

わかってくれ・・・

「運動したら体力つくよ!」って無邪気に言う。

わかってるってば‥
この後は、運動する体力がない⇔運動したら体力つくよのエンドレスリピートなのだ。

でも、明らかに体力がない。
食欲も極端に落ちるし、食べたら太るし。
代謝が落ちているという実感はある。

サプリを飲んだり、養命酒を飲んだり。
食材にも気を使うけれど、根本的な体力が増えない。

せめて、運動しようと思うくらいのエネルギーが欲しい。

車いすラグビーで毎月どこかの週末に試合があるのも、体力が削られていっていた。
野球事業に携わっていた時は、メンタルは安定しているはずなのに、体力不足で起き上がることもしんどくて、また過労うつになるのではないかとヒヤヒヤした。

土日構わずに連絡が来るのも、炎天下の中や朝早くから遅くまで会場内を走り回るのも、たびたび出張があるのも、私にはきつかった。

だって、体力ないんだもん。

10月で異動でちょっとだけ、息が吸えるようになった気がする。
ようやく、勤務日じゃない日にしっかり休めるようになった気がする。

体力の低下には抗えない。

週末はできるかぎり家でのんびりして居たいって、たぶん5年前の私なら思ってなかったと思う。

だからこそ、週末のイベントに出かけるのが、ちょっと億劫になっているのかもしれない。

新しい出会いを求めてない

5年前の私のモチベーションをちょっとだけ思い出してみた。

いつも私はどこかで、

「何かあるかもしれない」

って思っていたような気がする。

長年彼氏もいない独り身だったということもあり、それは運命的なプライベートな出会いかもしれないし、仕事に繋がるチャンスかもしれない。

特に5年前は、東京パラリンピックに向けていろんな活動をしていて、新しい接点を作った方が仕事が面白くなる可能性が高かったし、多くの人がパラスポーツの魅力を知らなかった。
だからこそ、であった人にその魅力を伝えるだけで価値があると思えていた。

今も、パラスポーツエバンジェリストを名乗っているので、その魅力を語ることは辞めていないけれど、明らかに拡大しようと動いていたエネルギーが、違う方向に向かいつつある。
もう少し、足場を固めようというような意識のような。
うまく言語化はできないのだけれど。

新しい何かを求めるフェーズじゃないというか。

10年前と比べたら、明らかにパラスポーツのファンが増えて、私がわざわざ語らなくても良いフェーズになったという感じかな。

みんながパラスポーツが好きなら、私はその中で漏れているところをやろう。
なんとなくそんな立ち回りをしていて、もうちょっと着実な部分で自分のチャレンジをしようと思った。

そのチャレンジが何なのかはっきりイメージできていなかったけれど、博士論文を書くか、ビジネスの場でダイバーシティ促進するような事業だったり障害者雇用の実践をしていくような、もう少し堅実な方向性というのだろうか。

たくさん人脈も作って、たくさんの経験もして、だからこそどんどんと新しいものを生み出しては振り返りをしないという生き方ではなく、きちんと振り返って、社会に残るものを作りたいという気持ちなのかもしれない。

そういった意味で、私は新しい出会いを求めなくなったのかもしれない。

学びを止めたわけではなくって、明確な方向性が見えてきたからこそ、学ぶ範囲の中で深堀するエネルギーの方が勝っているのかもしれない。

だから、学ばないというわけではなく、週末は読書時間や勉強時間に充てることが多くなった。

読書バリアフリーサポーターの養成講座にも通い出したし、仕事に関連しそうな外部研修を探しては申し込みをしたり、イベントに参加したり。
新しくデジタルアクセシビリティアドバイザーの資格も取りたくて、資格勉強も始めた。

行ったら楽しいだろうと思うイベントに対しても、優先度が変わったんだなと思う。
とにかく誰かに出会いたかったあの頃と、今の私の全然違う。

少なくとも、プライベートな面では新しい出会いは必要ないって思うようになったのも、大きいかもしれない。

何もしなくていいと思えるようになった

相変わらずの学びの面ではアグレッシブさはあるのだけれど、昔に比べるとだらけている日も多い。
感覚的には、週に2日くらいは猛烈にダラダラとしている。

”以前の私”は、自分がダラダラとすることが許せなかったのだ。
平日は仕事をがんばって、週末も関連するイベントに顔を出し、本を読んで、自己研鑽に励まねばという一種の強迫観念があった。

今も、勉強はする。

でも、さぼることも多い。

ダラダラとエンタメ小説だけ読んで過ごす一日も多くなった。

でも、それでいいと思えるようになったのは、やっぱり夫に出会ったことが大きいのかもしれない。

夫は、本当に何もしない。
週末は昼過ぎまで延々と寝ている。
しいて言うならジムに行くくらいだろうか。
あとは、ドラクエウォークをしたり、テレビを観たり。

書いてみると、何もしてなくはないんだけど、私の中での区分ではジムに行くの以外は「何もしてない」に入る。

でも、彼はまったくそこに罪悪感を覚えないのだ。

彼に「やりたいことはないの?」と聞くと「何もしないことが俺のやりたいこと」とサラリと返される。

最初は掴みどころがないような気がして戸惑った。

でも、今ではありがたいと思うのだ。

私が体調を崩して何もできずにいても、不満も抱かない。
「疲れてるんだし、ゆっくりしてて~」
と一通りの家事はしてくれる。

何もしない私を責めたりはしない。

何もしないで週末を終えてしまい、
「あー、週末なのに何もしなかった!もったいない!」
と思ってしまう私に、
「仕事頑張ってるんだから、今日は何もしなくていいでしょう」
と飄々としている。

刺激がないことに物足りなくなるような気がしたのだけれど、気づけばいい感じの充電ポイントみたいになっている。

あぁ、頑張らなくてもいいのか。

ずっと、頑張らねば病にかかっていた私にとって、安寧の地を見つけた気がする。

”以前の私”を知っている人から見たら、きっと、物足りない私になっているような気もする。

でも、今の私は結構満ち足りているのだ。

不思議だなぁと思いながら、この私を気に入っている自分に、書きながら気づいた。

この5年くらいで、私は大きな変化をした気がする。
2度の鬱を経験して、周りの環境も大きく変わった。

鬱っぽい症状が出始めるちょっと前にコルクラボに入って、激動の5年間を過ごした。
私自身のアイデンティティも揺らぎ、周りの環境も変化がある中で、変わらない居場所があることにとても救われたなと思う。

そんな大事なコミュニティのイベントに、結局私は行かないんだけど。笑

そんな私でもいっかと思えるようになったのが、”以前の私”との大きな違いだなと思った。

やっぱり一番大きいのは、夫が側に居ることの安心さなのかもしれない。
なんだかんだと言って、何もしない週末を夫と一緒に居たいだけなのかもしれない。
だから私は週末のイベントに行かないのだ。

何もしない私を「いいんじゃない」と言ってくれる人の傍にいたくって。

結局、単なる惚気になってしまった。

おしまい。


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まえゆか/前田有香
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