何のために「悪」が存在するのか
令和6年4月17日
今日の午前中は楽器屋さんに頼んでいた書籍を受け取るために外出しました。
楽器屋さんにいく前に郵便局へ。私の初秋の楽しみである狂言公演のチケット先行発売の案内を今朝受け取りましたので、早速、申し込みを済ませたのでした。どのお席になるかはお楽しみ。毎年「私にとってベストな席が用意される」と考えているので、あまり自分を不安な気持ちで追い立てないようにしています。
さて。本日のお話は「悪」の存在について。
正義と悪の物語は、今ではあらゆるところで見聞きしますが、本当に「悪」は「悪」でしかないのか。「闇」は「闇」でしかないのか。もう少し、この辺を考えないといけないと思うんですね。
確かに、正義側についていると、すごくいいことをしているようにも感じるものです。
悪と戦う。そうしないと、平和は訪れないんだ。
わかりますよ。そうおっしゃるのは。私もそう思う方なのでとてもよく理解できます。
政治家の裏金問題、コオロギ食、ワクチン、漬物・梅干しの製造が許される範囲が狭くなる、共同親権…ニュースを見るとこれでもかという程、悪の所業が羅列されて悲しくなったり、情けなくなったり、怒りを覚えますよね。そういうお気持ちになるのはとても良くわかりますし、私もニュースを見ているとそういう気持ちになってしまいます。
ですが。敢えてここで考えていただきたいのですが「何のために『悪』は存在するのか」ということを今一度考える必要があるのかなと思います。
二つの勾玉のような図形が一つに合わさって円形になっている「陰陽太極図(いんようたいきょくず)」をご覧になったことのある方もいらっしゃると思いますが、これは「光の中にも闇があり、闇の中にも光がある」という図ですよね。完全なる光もなければ、完全なる闇もないわけです。
ですので、光だと思うものにも影があり、闇だと思うものの中にも光があるわけです。
では、その「闇の中の光」とは何なのでしょうか。
それは、「闇によってもたらされる良いもの」だと、私は思うわけです。その「良いもの」を見つけるには、視点を変えたり、発想の転換が必要になってきます。「押してダメなら、引いてみな」ということですね。
例えば、周囲の方々から総スカンを受けたとしたら。確かに、周りの方々から嫌われるわけですから、自分自身としてはピンチなわけです。そして総スカンをしている周囲の方々が悪に見えることでしょう。でも、その中に光があるのです。
どういう光かというと「自分を大切にするきっかけを与えられている」ということ。「周りの方々に見放されても、自分は自分を見捨てない。とにかく、自分を大切にして愛するんだ」ということが見えてきたら、それは闇の中の光を見ていることになります。
ですから、今の現状は闇に囲まれているような感じがしていても、そこには必ず光がありますから、その光をどうやったら見出すことができるかを考える必要があるわけです。そして、その光が見えた時、初めて闇に感謝できるような気持ちになるのです。これが「光と闇の統合」の正体です。
「ピンチはチャンス」と言いますが、本当の意味でのピンチがチャンスになるというのは、いかに闇の中から光を見出すことができるかということなのです。それができて初めて、ピンチがチャンスになるわけです。
闇を闇としてしか見ず、悪を悪としてしか見ていなかったら、闇や悪の中の光を見出すことはできません。
今こそ、発想の転換、視点を変えることが必要なのではないでしょうか。
私も父との問題について、この視点で考えてみます。確かに現状を考えると、私の本気度を試されているようにも感じるんですよね。仕事についても、プライベートについても。私がどこまで覚悟ができているのかを試されていると言いますか。そこを見直す必要があるかもしれません。
閑話休題
・外出先で見かけた名残の桜です。だいぶ新緑に包まれていましたが、健気に咲いている花がありました。
・たまには流行に乗って(笑)、日曜劇場「アンチヒーロー」のコラボ商品「アンチサンド」を食べました。餡とチーズのマリアージュ。なかなか美味しかったですよ。第二弾は何かしら?
・道端に咲いていた可憐な花。とても可愛い。
・ジャガイモが大きくなっていました。袋からはみ出ている🌱
・庭のギボウシ。葉が青々としています。
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