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アグラの庭園の片隅で

 インドを訪れたのは2009年だったか、母と一緒だった。
 初めてのインド、噂をあれこれと聞いていたので心配のないように、また短い日程である程度回れるようにガイド付きのツアーにした。他人と長時間一緒にいることにストレスを感じるたちなのでだいぶきつかったのだが、ガイドも相当困ったと思う。仕事にまじめないい人だった。

 時間のない日本人向けのツアーは3泊でデリー、アグラ、ヴァラナシを回る。デリーからアグラは車、アグラからヴァラナシは夜行列車、ヴァラナシからデリーは飛行機で時間を稼いでいる。インド人の現地ガイドが空港から空港までずっとついていた。
 当時わたしは迷走している時期で、出発前日に久しぶりに会った母は、地味な真面目っ子だったはずのわたしの金髪を見て戸惑いながらも笑うしかなかったのだろう。きっと胃を痛めながら。
 インドでは金髪のアジア人はかなり目立った。彼らの感覚ではもとの髪を染めるというのは美しくない、豊かな漆黒の髪はそのままが一番美しい。肌が白く長身で金髪で、でも顔が平たい東アジア人なので、ガイドは「いったいどこの国の人を連れているのかと皆が訪ねる」と呆れ顔で私を見た。
 夜行列車の二等客室はひと車両を幾つかに仕切ってあり、仕切り壁に三段ベッドが向い合せに設置され、通路を挟んで二段ベッド。通路は車両を突っ切っていて、デッキには洗面台とものすごく汚いトイレがあった。日本人はたいてい一等の個室をとるそうで、周りはインド人ばかりだったが、皆静かで落ち着いていた。ベッドのない三等になると治安が悪いらしいが、二等に泊まる人間は少なくとも定職についていて危なくはないとガイドが言っていた。ビジネスマンのほかに、観光ガイドになるために日本語の勉強をしているという若者もいた。
 インド人の乗客たちはベッドの柱にチェーン式の錠前で荷物を括り付けていたのだが、わたしたちは用意が無かったので荷物をそのままベッド下のなるべく奥に詰め、手荷物は抱えて眠った。
 母はぞっとしたそうだ。ヨーロッパ旅行で乗った夜行列車は清潔な個室で、そういうものを想像していたらしいのだが、当時貧乏旅行づいていた私が予約したのは予算も旅の知識もない若者向けの格安ツアーだったのだ。だいぶ険悪にもなったが、今ではわたしも申し訳なく思っているし、母は母で貴重な体験だったと笑っている。いまこうやって思い出しながらも罪悪感で鳩尾の奥が苦しくなるけれど。
 人のいるところで眠れないたちなので、夜行列車は一睡もせずに窓の外を眺めていた。町明かりはなく、黒い平野の上に青い夜空が覆いかぶさって、星明りが時どき木立や家の影を浮かび上がらせた。家は住んでいるのか廃墟なのかもわからない、ただ影が見えた。がたごという列車の音と、誰かの寝言や軽いいびきと、青暗い夜の眺めがずっとずっと流れていた。

 ところでインドのガイドは、法律なのか州ごとの決まりなのか知らないが、州の認可が必要なようだった。
 アグラではもちろんタージ・マハルを観光したのだが、とにかく人が多い。インド人の観光客が圧倒的に多かったのでなんだか驚いた。皆こざっぱりした服装でカメラを持って歩いている。
 写真を撮っていると、すぐ近くのサリー姿の女性が「ここから撮ると眺めが良い」と半歩ずれてくれた。礼を言って写真を撮り振り返ると、にこやかだった女性はふてぶてしい表情でわたしたちのガイドに金銭をせびっていた。彼女らは州で認可されたガイドで、わたしたちのガイドは余所からきているのでこの場所で観光案内をするのは”もぐり営業”に当たるらしい。それを知っていて、彼女らは日本人を連れたガイドを狙って小遣い稼ぎをするのだそうだ。

 タージ・マハルは車を降りて少し歩き、廟に劣らず美しいイスラム建築の楼門をくぐると、有名な池の向こうに白い廟を望む前庭に出る。記念写真を撮る人でごった返していて、門の階段の上でこうやって撮ると手のひらにタージが載っているように映るんだ、とガイドが説明してくれたのだが、どうもそういうノリでないわたしと母は簡単に写真を撮っただけだった。わたしたちが常に静かなので、「みんな親子や友達で来るとはしゃいで写真を撮ったりたくさん話すのに、あなたたちは本当に親子なのか?他人どうしじゃないのか?」と変なかおで確認されたのは、ここの階段だった。
 写真を撮ろうかと声をかけてくるインド人の観光客らしい人も多かったが、カメラを渡すのは怖くて断った。一見ふつうの人が金銭をせびるのを目の当たりにしたばかりだったし、もしかすると善意だったのかもしれないが、カメラをあずけた相手が他の観光客に交じってしまえば、見慣れない彼らを見分けるのは不可能に違いなかった。

 タージ・マハルの庭園は広く、四角く区切られた庭の隅には小さな木陰がある。マメ科の樹の豊かな葉が強烈な日差しを遮り、そのわきで茂っている灌木がひっそり設えられたベンチを隠している。観光客は門から庭の中央を通って廟を見て帰るので、庭の隅は人気がなく静かだ。
 ベンチに座ると涼しく、ほっとして思わず声が出た。何か母と話したのかはよく覚えていない。ただジャスミンの花がしっとりと香っていて、すこし体をひねると木陰の向こうに白い廟が覗いて、それはそれは美しい空間だった。

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