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そこは職人の里だった

昨年末に引っ越してきた先は、東京から電車で1時間半、車ならもう少し早く着いてしまうような近郊の温泉地だ。日本は地面を掘ればどこでも温泉が湧くような国ではあるが、ここは万葉の昔から、河原に温泉が湧き、その後も時の為政者の直轄になったり、傷病兵の治療地になるなど、温泉が活用されてきた土地として有名だ。

とはいえ、川一本を隔てた隣には、温泉を中心とした一大観光地として栄えた街があり、そちらとは対照的に、文学者や政治家など人から離れて静かに事を為したい人たちに愛された土地柄だけあって、なんとなく鄙びた雰囲気が未だにある。言わば、元来、リモートワーク、ワーケーションの地だったわけだ。

気候は温暖、東京で雪が降ってもここは降らない、と言われる分、夏場、サーファーで賑わう海に近い辺りは、暑い印象があったので、奥まった山間の集落に、エアコン要らずで過ごせそうな風通しのよい家を見つけた時には、ここだ!と即決した。が、引っ越したのは12月。ご挨拶に伺ったお隣の美人の長老お婆さんが、開口一番、うちとお宅のところから上は、雪も降るし道も凍るんだよ!アハハハハ。

早速仰せの通りとなり、雪かき道具も揃えないうちに寒波がやってきて、翌日午後に消防団の方が塩カルを撒いて下さるまでは、家の前の道くらいは、と自力で山の水(家の四方にある蛇口から出るようにしてあるこの水はただなのです!)を汲んで手で運び竹箒でザッザッと、凍りそうな雪を溶かすということになった。結果、お隣の長老とふたり、1時間以上凍えながら立ち話し。とはいっても、凍えているのは私だけ。間もなく90歳の彼女は平気の顔。

さらに、長老曰く、昔は見晴らしがよかったんだけどね、杉が育っちゃったから見えなくなったよ、というほどの高い杉の木の防風林をものともせずに抜けてくる強風の地だった。ビューンと音を立てて吹き抜ける風で洗濯物は巻き上がる。大根を干すには最高だが。寒冷紗も飛びそうだなあ。。。

さて、泉、という名のこの県境の小さな町は3つの「区」に分かれている。一番最寄り駅の繁華街に近いあたりが本区という、それらしい名前が付いている。その次に、温泉街の中心となっている橋の辺りが五軒町。街の歴史やさらには文学にもちらちらと出てくる通り、5軒の芸妓場(兼遊郭)があったことからそう呼ばれるようになったとのこと。しかし、今は自然豊かで便利なロケーションということもあり閑静な住宅地になっている。

最後に、そこから150メートルほど上ったこの辺りは、中沢と呼ばれている。沢とつくだけあって、泉から流れ出す沢が何本かあり、小さな橋が沢山架かる土地だ。お隣の長老曰く、温泉街の橋からここまでバイクで上がってくると3回気温が下がるのが分かるとのこと。下っては行けても、歩いて上る気ににはならず、未体験であるが、確かにそうだろう、と頷いてしまう。さらに私の家の所属する「組」は、ここから集落の一番上までの20軒だけだが、石垣にはサツキやツツジがぎっしりと植えられ、生垣が椿やお茶の木だったり、道端にもあちこちに水仙や万両千両が顔を出し、自然の中に、整然とした雰囲気がある。

年末からなかなかタイミングが合わず、ご挨拶しそびれていた「組長」さんが、昨日自ら訪問してくださった。車が停まってたから、いるな、と思ってね、と。お隣の長老が話をしておいてくださったらしい。玄関先では(めちゃくちゃ)寒いので上がってストーブにあたっていただきながら、中沢の話を伺った。すると、この辺は大体みんな造園業なんだよ、と。で、自分は電気工、隣の家も反対隣の家も全部私がやったんだ、と。確か、この家の元の持ち主は溶接工だったな、と思ったところ、造園工以外は、みんな大工や職人なんだ、と。

下の温泉旅館が栄えていた頃は、庭師と大工職人がいつでも必要で、すぐそばにこんな集落ができたのだということを教えてもらった。今じゃ、旅館の旦那さんが自らハサミを持って庭木を切ってるのを見るけどね、とちょっと寂しい話とともに。そんな中、思い出していたのは、お隣の長老お婆さんし。初対面の時に、あまりにも博識でお話が面白いので、へえ!へえ!と大笑いしつつ、お仕事は何をされていたんですか?と尋ねると、なんだと思う?と言われ、先生?と訊くと、「治療師」だよ、と自己紹介してくださった。やっぱり「先生」だったわけだ。

最初は車で、その後一昨年くらいまではバイクで下の温泉街から隣の大きい温泉街まで、旅館という旅館、呼ばれるところ片っ端から走り回っていたから、どこのことも知っていると仰っていた。それも、半世紀分も。大学の先生もいれば、馬場選手もお客さんだったよ、と言われ、ん?あ、そうかジャイアント馬場さんは、野球選手だったな、と思ったり。

気候が良くなったら一緒に歩こう。町の話をしてあげるよ、と。楽しみだ。

こんな素敵な職人の里に紛れ込んでしまったことが可笑しくてならない。


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