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葛藤することがきっと強みになる。

「支援」ってなんだろうか。
「ソーシャルワーク」ってなんだろうか。

大学4年間、考えてきたこの問い。
最後の実習を終えて、心を少し言葉にしてみる。
綺麗にまとまっているものは実習日誌や実習報告にあるので、あえてまとまっていない、もやもやしたままの事柄を素直に書いてみる。

いち自治体の、あるソーシャルワーカーをみた、ただの大学生の心だと思って読んでほしい。


社会福祉実習は福祉事務所で生活保護について学んだ。

定期的にある家庭訪問は、そもそも必要なのだろうか。税金である保護費をもらっているから、家に人が入ってくることくらい許容すべきであるという意見もあるんだと思う。

でも純粋に、私は知らない人に家に入ってきてほしくないな。
そう思いながら、「見守り=監視」の境界のなさを実感した。

少し小ばかにしたようなあだ名が飛び交う場で、対等に接することがどれだけ難しいのか、この雰囲気に染まらないことがどれだけ大切なのかなとか思ったりした。

◇◇◇

そしてスクールソーシャルワーク実習。

学校でソーシャルワークをすることの大切さと難しさを同じくらい学んできたので、実習初日の学校/先生に対するイメージ・スクールソーシャルワーカー(以下SSWer)に対するイメージはどよーんとしたネガティブなものが多かった。

SSWerは勤務日が限られているので、実習も週に1日だった。そのため、長期に渡ってケースを追うことができた。個人情報のこともあるので書かないが、本当に色々な場面を見せてもらった。

その中で感じたことは本当にたくさんあるが、今回はとりあえず2つ。

◇◇◇

まず一つ目。
「支援」とはなんだろうか。

結構深刻なケースもあった。
私を含めた大人からすると、本当に大変でリスクの多い家庭環境で、一日でも早くその環境を改善するしかない。そう思って、大人たちは色んな機関と連携して動いていく。
その結果、一時保護に至るケースもあった。

しかし、保護に至った場合、全ての子どもが「助けられた」と感じるわけではない。自由な生活が制限されてしまったり、突然よくわからない人と生活することになったりするからだ。

大人たちは、支援者は、その子のためを思って。と、動く。そして、助けることができた。と実感することもあるだろう。

確かにその子のリスクを考えて、将来を見据えた際にそうすることが適切であるんだとも思う。
「あなたがあの時した選択で…」と子どもに人生の責任を負わせることは確実に違っていて、その子が適切に人生を選択をできるようにアプローチをしていくことが大人の役割でもあると思う。

子どもが成長していくなかで、「助けられた」と認識が変わっていくこともあるのかもしれない。

でも、好きな親と別れて生活をさせられる。
「助けられた」なんて思わない、むしろ罰のような環境で生活することになる。

それを考えると、「支援」がわからなくなった。
その子の幸福を考えたとき、支援者が、私が、考える幸福の形に当てはめてしまっているんじゃないか。そんなことを感じたりもした。

「支援」とは、リスクや課題からその背景を考えて、対処法を提示し動く。

文字ではこう書けるが、本当にそれが適切な「支援」なんだろうか。
"適切"とは、なんなんだろうか。

◇◇◇

ここから二つ目。
「支援/ソーシャルワークをする」ことと、「心で応える」ことを両立することはできないのだろうか、ということ。

前提として、この実習を通して私が感じたSSWerの価値も本当に簡単にだが言葉にしておきたい。

・義務教育の学校で全ての子どもを見ることができる
・予防的に、構えすぎず関わっていくことができる
・子どもを中心に、多機関と連携できる
などなど。

そして、どのような役割を担う人なのかについても。大きく言うと、環境調整の役割を担っている。 

・子どもの生活する家庭環境&学校環境の調整
・学校内で教員が教員の専門性を発揮できるような環境の調整
・子どもを適切に支援していくための連携の調整
などなど。

具体的な支援に結び付けるために、誰にどう伝えるのかを常に考えながら動いているというのも感じた。

というのが、本当にざっくりとした私の頭のなか。
これは一旦置いておいて、以下心のなか。

◇◇◇

実際にケースが動いていく様子や先生、多機関の方と連携する場面を見ていて、「心」がどこにもないような感覚に陥った。
①リスク/課題のアセスメントをする
②支援のプランニングをする
③行った支援についてモニタリングをする

全く同じ場面は一度もないので、機械的に動いているわけではないが、この過程のなかで「子どもの心」も「親の心」も「支援者の心」も見えないような気がした。

あるコミュニティソーシャルワーカー(CSW)さんにお話を伺ったとき、すごく心を感じた。

子どもに罪はなくても大変な環境に置かれてしまう。どう関わっても、良い方向に行かないこともある。諦めてしまいそうになるが、大人があなたのことを思って関わっている時間は無駄ではないと思いたいよね。

具体例とともに、少し涙ぐみながらそう話してくれた。

ある学校の先生も心を話してくれた。

生徒のことを思ったら、究極学校の先生にできないことはないよね。心がその子への想いを抱えきれなくなって、体が勝手に動き出す感じ。

きっと、このCSWさん、先生のようにみんながそれぞれ心に色んな感情・想い・願いを持って動いているんだろう。

でも、それが見えてこない。

支援において、ソーシャルワークにおいて自分の感情や想いは適切に扱う必要があるのはわかっている。しかし、連携や協働が上手くいかない場面は人間同士の心のすれ違いや想いの衝突が原因であることもすごく実感した。

こう伝えれば、あの人は動いてくれるかもしれない。というのは、心に働きかけてるんだとは思うが、それでもどこか、心は必要ないという感覚を感じた。

①のアセスメントをするにあたって、事実を集めることはとても大切だ。

SSWewの方はとっても丁寧に、丁寧すぎて圧を感じるくらいに事実を集める方だった。丁寧すぎて心がどんどん排除されていた気がした。そして、心が排除されると事実も正しいのか分からなくなった。

個人的なことになるが、私はとても感覚人間で言葉にするのがまだまだ苦手だ。
子どもの様子で少し違和感を感じてそれを勇気をもって伝えてみたとき、「○○は?」「それはどういう状況で、どういう意味合いで…?」「本当に聞いたの?」とか細かく言われると、自信がなくなってしまうと思う。(聞き方も大事だけど...)

自信がなくなって、事実がこうだったのかも。と思いこもうともしてしまう。
わかりやすい言葉を持つことで、心に向き合うことを辞めてしまう。

私だけかもしれないが、心が排除されることで、事実にも影響が出る。

だからこそ、心は大切だと思っている。

一方で、その人の認識(~~やと思う)と事実(~~だ)は区別して、事実からアセスメントをしていくことが重要であることも理解している。

「関わっている時間は無駄じゃないよね」という心の言葉だけで、実際の支援が伴っていなければもちろん良くないということも当たり前に理解できる。

では、この両者を両立することはできないのだろうか。

きっとこの問いは、1人の人間としての”私”と働く人間としての”私”をどうするのか?という問いともつながるんだろう。

一生かけた問いになった。


まだまだ書きたいことはたくさんあるが、既に長いのでこのくらいに。

実習でつかせてもらったSSWerさんは、ソーシャルワークが上手なかただった。でも、私はこのやり方ではできないな、やりたくないな、と思った。

目的や目指す部分は一緒なんだと思う。
そこに行きつくまでの過程や方法は本当に人によって違う。

今回ボコボコに指導してもらったけど、そこで折れずに済んだのはきっと私のなかで譲れない軸を持てていたから。モヤモヤして、悔しくて悔しくて悔しくて仕方なかったのは、きっとその軸を大切にできたおかげ。

葛藤して悩みながら、自分の言葉で、自分の入り口を見つけて道を開拓していく。

いつかSSWerになるかはわからないけど、葛藤し続けられる楽しい仕事だなぁと思いました!

来年からも別の場所でたくさん葛藤しよ。
とりあえず、卒論と国試頑張ります。

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