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【エッセイ】「英語で卒論」が難しい4つの理由

某大学文学部の英文科で、卒業論文を強制的に英語で書かなくてはいけなくなった筆者が考える、「英語で卒論」が難しい理由をつらつらと書いていきます。

1.そもそも参考文献を英語で読まなければならない。

なぜ、日本語ではなく英語で書くのか?
それは、英文科という学科がそもそも英語で書かれたイギリス文学やアメリカ文学、そして英語学(英語という言語を分析する言語学)を研究する学科だからである。
英語で書かれたもの/英語を研究する学問であるということは、必然的に研究書や論文も英語で書かれたものが多くなるわけだ。(国文学に関する本が日本語で書かれたものが主であるのと等しく)

もちろん、日本人が日本人向けに書いた英米文学及び英語学の研究書や論文もある。しかし、「原書」レベルで新たな学術的発見をしたり、何か慧遠自たりする上では、やはり(名目上であっても)英語ネイティブが書いた研究書を読んで、英語で表現することがアカデミックなレベルでは日本語よりも次元が高いとされているのである。
ゼミの指導では日本人が日本語で書いた論文を参照することは多いに推奨されるが、執筆の時点で、それだけでは問題が生じる。それは、引用に日本語文献を使用しようとすると、その文献自体を英語に自分で訳さなければならないからである。
し、そもそも日本人の研究者もその論文を書く際、英語で書かれた論文を参考にしているはずである。そのため、「それじゃあ、そのもとになった文献から引けばいいではないか」という話になってしまう。
そのため、そもそも英語の原書のみならず英語の論文をガシガシ読んでいかなければお話にならない。
(学術論文レベルで訳本の出ている論文なんて、よっぽどの名著しかない…。)
そういうわけで、英語低スペック人間には非常に難題なのである。

2.思考レベルで日本人の研究者を越えなければならない。

卒業論文は、学士レベルとはいえ1つの論文。
「普通に言われていること」は避けて、新しいことを書かなければならない。
しかし、前述のようにそもそも日本人研究者ではなく、彼らの論文の基礎になっている「英語論文」を参考にする…。
つまり、プロセスとしては、日本の英米文学/英語学研究者たちがそもそも参考にした研究書を自分で読み、彼らが「言及していないこと」を新たに論じなければならないのである。(もちろん、教授の方々がいろんな方向性を提示して、入れ知恵はしてくれるが)
この、「普通に言われていること」を避けようとして、私も含め大半の学生が迷走を重ねる。

例えば文学作品であれば、作者の伝記を読むことは研究の基本とはされているが、「作家論」には新たな発見が少ない傾向にある。そのため、フェミニズム論や人種論、マルクス主義など「社会」との関わりと絡み付ける。しかし、これらの論が「社会」と結びついているからこそ一枚岩で割り切れないし、割り切ってはいけないものである。そのため、作品との掛け合わせがさらなる謎をよんでしまうのである。

3.英語と日本語では「大切なこと」を述べる順番が異なる。

卒論研究の形式と、執筆に至るまでのプロセスはこうである。

・ゼミに入る
・教授と相談して、テーマを決める
・原書、関連論文を読み、思考する
・考察をレジュメと原稿にまとめ、発表する
・先輩、同期、教授からのフィードバックをもとに執筆
・教授にチェックしてもらい、推敲して書き直す

つまり。「発表」を作ることで研究を進め、「発表」を元に卒論を執筆するのである。ここで、1つ問題が生じてしまう。発表は日本語で行っているのである。
日本語と英語は、「何かを論じる」時に決定的な差異がある。
日本語は大事なことを後に述べるように論を展開していく。
しかし、英語は大事なことを先に述べてから論が展開される。
日常会話でもそうなのだが、英語の文章には「トピックセンテンス」なるものが存在する。つまり、論文では冒頭に何を書いているのか、何の話なのか、肝は何かを説明する。段落内においても、「肝」をちらっと最初に述べて全体像をさらっと紹介する。

一方で日本語にはこれがない(薄い)。そのため、日本語で行われる発表は、とにかく大事な「見せ場」となる論を最後に持ってこようとし、その「背景」を前に集める。
しかし、これが英語で書くとなると「真逆」が正しいのである。(演繹的な論じ方っていうのかな…よくわかりませんが…)そういうわけで、この研究発表の論/引用の順番を執筆の段階で少し組み替えなければならない。これがかなり難なんですね。

4.なんかめっちゃ英語できると勝手に思われる

ごめんなさい、「難しい」理由じゃないですが。まあ、これも「英語で卒論」を書く上での災難ということで。

他学部や他校の方と飲み会をしていて。

「卒論つらくない?」
「いやもうめっちゃつらい、、、」
「何字くらい書くの?」
「うーん…英語で1000wordsだから、日本語で言うと30000くらいなのかな…」
「え!英語で書くの!?むっちゃ英語できるやん!!」

みたいな。まあわざわざ、英語で書くって言わなくてもいいんだけどね。
「字数」の話になるとちょっと、英語だということを言わざるを得ない…。
このせいで、理系院生との合コンでも悲惨な目に遭った。

「卒論とか今大変な時期じゃないの?」
「あー、そうなんですよ。」
「何字くらい書いてるの?」
「あ、えーと、英語で書くんですけど、今6000wordsくらいですね」
「あー!えー!そっか!!英語なのか!いや、俺は英語あんまりできないんだけどさ、まあリーディングとかはできるんだけどスピーキングがあんまりね!!まあ、普通に俺は自分の研究の方が大事だと思ってるから、英語は後回しなんだよね!!」

わたしは「英語ができる」とか言ってもないし、「英語できるの?」とか聞いてもないし。それくらい世の中に英語教育だとか「話す力」が重要であるということが浸透している表れなのだろうか…?
(ただの非常に勝手で個人的な偏見ですが、理系の人って「英語」という一つの言語をわざわざ「リーディング」とか「スピーキング」とかカテゴリ化するような傾向ありません…?)

まあ、これは一例ですが、我々は英語で卒論を書かなければ「卒業できない」ことがまず前提であって、別に「論文が書けるほどの英語力があります」と言っているわけではないんですね。
それを頭の片隅に置いてもらって「英語で書いてる」と聞いても(めったにないですよねごめんなさい)、「頑張ってるんだな」くらいで聞いて欲しいという、英文科生の一意見でありました。

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