立て看板という欺瞞
春休みの3月に、図書館に本を返そうとキャンパスに入りしばらく歩くと、そこには非日常が広がっている。立て看板である。
一年生獲得競争を繰り広げるサークル及び部活動は、より大きな、より魅力的な、より個性的な立て看板を作り、自らの団体をアピールする。そこにはあたかも青春がそこにのみあるかのような語り口だ。
立て看板はまるで扉のように、新入生に輝かしい学生生活を提示する。その1つ1つの扉はどれを選んでも輝かしい未来が約束されているような錯覚に陥らせ、新たな環境と自由という熱に浮かされた新入生に根拠も実態もない自信を与えてくれるのだ。
だがしかし、それは「ホンモノ」であろうか。果たして、あなたが歩む未来はそのように輝いているだろうか。
大学生の端くれを1年間過ごして、大学というところは案外くすんでいることを知った。4月のノリで入ったサークルの中で周りの人間と価値観が大きく合わなかった人、次第に居心地の悪くなってきたサークルから抜け出せなかった人、練習日が多過ぎて部活動に他の選択肢を全て奪われた人。そう言った”立て看板詐欺被害者”は多いのではないだろうか。
大学生活はよく「人生の夏休み」と形容されるが、この表現はかなり的を得ていると思う。遊び尽くせるという意味のみでなく、酸いも甘いも知るという意味においてである。思い出してほしい。あなたが小学生だった頃、中学生だった頃、高校生だった頃の夏休みは毎日が輝いていたか。毎日が心躍る日々であったか。
宿題に追われ、部活動に明け暮れ、母や家族から理不尽なことを言われ、たまに友達との楽しい時間を過ごすも、そうでない日は怠惰な時間を過ごし、自分が進歩していないことに不安を覚える。そんなような、よくわからない1ヶ月が夏休みと呼ばれるものではなかっただろうか。少なくとも私にはそうであった。
しかし、夏休みというものには一貫してルールのようなものがあったではないか。それは夏休み中には、自分の好きなことを自由にして良いということだ。居心地が悪いなら辞めてしまえ。時間を取られるなら辞めてしまえ。そうやって、我儘に、心の赴くままに、誰にも遠慮するこ必要がなかったのが”夏休み”である。
誰にも遠慮をせず、自由に生きよ。これが大学へと入学する全ての人へのメッセージだ。
p.s. 僕は夏休みに母が作ってくれる焼きそばが好きでした。気候も相まって、冬の焼きそばとは何か違うんですよね。うまく言語化できないけど。