私はどうやってもの書きになったか〜その谷の越え方〜 (番外編 月刊中山祐次郎)

〜本記事は無料で最後までお読みいただけます〜

こんにちは、中山祐次郎です。外科医をやりつつ、もの書きをやっています。

今回はある友人に頼まれ、「どうやって私がもの書きになったのか」について書きたいと思います。偉そうな自慢話はなくし、なるべく素直に、起こったことをありのままに書いてみたいと思います。

はじめにはっきりしておきたいのは、私は確かに本を読むことは好きでしたが、もともと文章を書くのが上手な方ではありませんでした。中学生時代、夏休みの宿題でなんでもいいから原稿用紙3枚くらい書いてこい、というものがあり、国語の先生が選ぶ上位15人くらいが小冊子になって配られたのですが、一度も当選したことはありませんでした。あとは懐かしのSNS、mixiで今思えばイタいpoemを週に1回ほどつらつらと書いていただけです。書くことは好きだったかもしれませんが、私より長文で毎日書いている人なんてゴマンといた、あの頃だったのです。

それは、医者になって4年目のある日曜日でした。私は東京23区の北エリアにある都立病院の外科・後期研修医でした。その病院はがんの専門病院でしたので、私が担当する患者さんはみながんの患者さん。私は消化器外科を専攻していたため、肝臓がん、大腸がん、胃がん、食道がんなどの患者さんを担当していました。

がんの患者さんを担当するので、どうしても亡くなってしまう方は少なくありません。私は「緩和ケア」、つまり痛みを取ったり不安に対処したりする治療に強く興味を持っていたため、がんの終末期と言われるような方の病室に足繁く通っていました。どうしても日中外来や手術ばかりの上級医にくらべ、時間の自由がきくので一日何度も病室に通います。そうすると親しくなるのですが、その方々の多くは亡くなっていきます。

仕事以外はなにもないような生活をしていたので、私の頭はやがて「死」で埋め尽くされるようになりました。朝起きたら「死」。昼メシを食べながら「死」。夜寝る前に「死」。そんなことばかり考えていたのです。病んでいると言われたら、そうだったのかもしれません。あるいは、そんな日常に対する当然の防衛機制が作動していただけだったのかもしれません。


あるとき、高校の同窓会がありました。ひと学年上の、イケメンで頭が良くてバスケ部で、ヒーローのような先輩が二学年合同で簡単な飲み会を開いてくれたのです。どういうわけかそこに参加した元サッカー部の私は、やなちゃんという友人と再会することになります。いや、正確に言えば再会ではなく、齢30にして初めて親しくなった、です。もともと高校のころには仲良く無かったのです。私からすれば、彼は試験のたびに学年30番以内(毎回順位が公表されていました)の、超天才。私はといえば、210人中170番より上に一度も行けないという劣等生だったのです。最近の言い方で言えば、スクールカーストが違ったのです。ですから話したことはなかった。やなちゃんは当然のように東大に現役ですすみ、私は二年も浪人して鹿児島大学にやっとこさ受かるということになります。

そのやなちゃんが、同窓会のときにもよくわからないけれど輝いている。私には本当に輝いてみえました。話すことは面白いし、明らかに高校の頃よりカッコよくなっている。眩しい。そう思いつつ、アウェーだった私は酒を大量に飲みよくわからない絡みをいろんな元バスケ部員たちにしていました。

会は中盤にさしかかり、ヒーロー先輩が「みんなちょっと座って、自己紹介っていうか近況話そうぜ」と言ったのでみんなで大きな輪になって座りました。「いま都市銀で働いてます」「外資系金融です」「テレビ局です」「商社です」…私はよくわからなくなりました。職業だってよくわからないし、会社名も知らない。その当時、私は広告代理店とはポスターを印刷して代理で駅などに貼る会社だと真剣に思っていたのです。おまけにそこにいる人のほとんどは東大出身でした。

私は二浪もし、さらに医学部は6年あるので社会に出たのが26歳。他のみんなは22歳から働いてますので、なんだか全然貫禄が違いました。私は恥ずかしくて仕方なく、小さい声で「いま医者やってます」と言ったのを覚えています。それだけ言って次の人にバトンを回そうとしたら、たしかヒーロー先輩が「えっ、近況は?」と突っ込んできたのです。私の頭は目まぐるしく回転し始めました。まずい、ここでガツンと言わなければ負ける…意味不明なマウンティング競争を勝手に頭の中で始めていました。

「いま、宇宙飛行士を本気で目指してます。そのために極地の経験として南極観測隊に帯同する医師になろうと思っています」

言った瞬間、なぜかバカ受け。みんな爆笑でした。「宇宙!」「南極!」顔を赤くして、次の人にバトンを渡しました。

その日、それでも、そのネタでやなちゃんと話すことができました。そして、「よくウチでホームパーティーやってるから来なよ」と言ってもらえたのです。

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その翌月、私はやなちゃんの家で行われるホームパーティーへと参加していました。あまりに多くの人がいて、しかもやなちゃんがテレビ局の人だからか男性も女性も業界人が多く、もはや私には異世界に見えました。キラキラ…キラキラ…かなり恥ずかしいお話ですが、それでも「医者」という肩書きは「ある程度workする」のではないかと思っていました。専門職だし。でも、全然話が続かないのです。もちろん私の非常識さもあったとは思いますが、芸能人も小雪しか知らず、ドラマも見ず、劇作家も知らず、聞いている曲は竹内まりや。とにかく話が全く合いません。話されることと言えば、「えー手術って痛いんですかー?」と、あまり興味もなさそうに振られるくらいでした。

その時私は悟ったのです。ああ、医療という自分の世界と、外の世界とはぜんぜん繋がっていないんだな、と。絶望に近い気持ちでした。すごすごと病院に帰り、医療職の人と仲良くするしかないのか。そう思いつつ、それでもしつこく手術の話や病院の話をしていました。それ以外に話せることなんてなかったのです。

そういうホームパーティーが3, 4回あったでしょうか。やなちゃんはなぜか、他の人と話の合わない私をそれでも誘ってくれました。私はみしみしと自分の世界に穴が開きかけているのを感じていたので、ストレスがなかったかと言えば嘘になりますが、先に酔ってから参加するなどして無理に参加していました。

そんなある日、やなちゃんが「ゆうじろうくん、本書きなよ。絶対面白いよ」と言ってくれました。彼は実はすでに自分の本を出していて、出版についてけっこう詳しいようでした。「俺が企画書とか書くから、一緒にあちこちの出版社をあたってみよう」そんな言葉をかけてくれたのです。

実は、そのときすでに書きかけているものがありました。ある日突然、「死を想え。死を想えば、生き方が変わる」をテーマに、もちろん出版の見込みもまったくないままノートPCのワード文書に書き始めていたのです。これを書かなければもう自分が保てない、そう思って書いているものでした。

そのコンセプトに沿って、企画書ってなんだ?というレベルの私を尻目にやなちゃんは企画書を作ってくれました。いつの間にか目次も、私と話しながら作ってくれています。そうして十何社か送ってくれたようですが、ことごとくボツ。唯一、D社のある編集者さんが「興味がある」と言ってくれました。

私は喜んでメールを返信しました。すると、「出せるかどうかわかりません。まずは一冊分書いてください」とのお返事。まずは、一冊分。なんて気軽に言うんだろう、と思いつつも、それから半年くらいかけて先の本を書き、完成させました。苦しい執筆でした。出版するかどうかもわからないものを、10万字以上書くということは非常に苦痛を伴いました。いま思い返すと、この当たりに「もの書きになるかどうか」の分水嶺があるようにも感じます。「出せるかどうかわからない」状態で一冊分の文章を書く人は、物書きになりたい人のなかでもおそらくかなり少ないでしょう。ここに1つ目の谷があったように思います。

ともかく私は悶え苦しみつつも、一冊分の原稿を書き上げました。その編集者さんに送り、待つこと8ヶ月。冗談ではなく、大げさでもなく、私はこの8ヶ月のあいだ毎日、毎朝起きたらまずメールボックスを開け、昼にはメールボックスを見て、と待ち続けました。


***


ついに来た返信。

「結論から言えば、出版することはできません」

私は角材で頭を殴られたようなショックを受けました。そのまま一ヶ月は、ただ朝起きて仕事へ行き、帰ってくると当時近所にあった麻布十番のbistro あわという立ち飲み屋でぼんやり雨を眺めていました。


谷を越えた、と思った私は再び谷底に落ちていました。自分に本を出す資格は無い。執筆者にはなれない。お前にもの書きは無理だ。そんな言葉が目の前をぐるぐると回遊魚のようにスクロールしていました。雨の音だけが聞こえていました。

そのころ恋人もおらず、ただ毎日雨を見ては酒を一人で飲んでいました。今思えばかなりの精神的なショックであり、しかも誰にも言えなかったのです。やなちゃんは「気にしないで、また次行こう」と言ってくれたのですが、迷惑をかけていることもあり、ショック過ぎてそんな気になれませんでした。

そんな中、スマホをいじっていると変なアプリを見つけました。「755」という不思議な名前のアプリ。ツイッターと似た雰囲気で、しかし個人でトークルームというものを持てるようでした。私は自分のトークルームを作り、「藪医者外来へようこそ」という自暴自棄な名前をつけてぼそぼそとつぶやき始めました。アカウント名は「藪医師(やぶいし)」です。本当にこの頃はヤケクソだったのです。

それから少しずつ、755での見ず知らずの人たちとの交流が始まりました。匿名だったからか、私は本当に素直になり、グチや悩み相談を打ち明けていったのです。「いまから合コン行ってきます」なんてことはしょっちゅう。「患者さんが亡くなった。つらい」などもどんどん書いていました(現在は削除されています)。

そんな中、私は755で「すべての新しいものは、たった一人の熱狂から始まる」という言葉を発見しました。つぶやいていたのは幻冬舎社長・見城徹さん。それを見た私は全身に電流が流れました。そうだった。こんなことで諦めて良いのか。無念のうちに死にゆく人たちのことはどうでもいいのか。そんな薄っぺらい気持ちだったのか。

私は問いかけました。きつい自問自答をしたすえ、「私はもう出版を諦めない」と決めたのです。今思えば出版することをゴールにしていてとても浅はかですが、とにかくこの時から私の頭は沸騰しました。そして、毎日自分の原稿に目を通し修正を加え、かつ755の人たちとの交流も続けていました。

そのころ私は755でフォロワーが3,000人ほどいて、フォロー外からも含めると毎日70〜100個ほどの質問に答え続けていました。恋愛、病気など、ひとつひとつガチンコで返答していたので、指は痛くなり、毎日自分の自由な時間はほぼ無くなりました。そのころ当時流行っていたNAVERまとめに「【感動】755で書籍化が決定した”藪医者外来へようこそ”が深い愛に満ちている。」というまとめが作られていました。

これが、幻冬舎社長・見城徹さんの目にとまり、「こいつは面白い」ということでフォローしていただきました。その後、755上での濃厚な交流を経て原稿を良かったら見せてとなり、ある日突然電話がきて「幻冬舎に来れますか」と言われ、空いている日に赴くと「3ヶ月後にこれを出そう!」となったのです。本はその3ヶ月後、「幸せな死のために一刻も早くあなたにお伝えしたいこと」というタイトルの新書で出版されました。

いま思えば、755の皆さんとの交流がなければ本の内容は深まることはなかったし、見城徹さんとの出会いもなく、私の本が出版されることはなかったでしょう。私は755での交流や、一生懸命頂いた質問に答えることが出版に繋がるだろうとは微塵にも考えていませんでした。見城徹さんは、ただでさえそういう中身のないあてこすりやただの自己アピールのようなことを激しく嫌う方です。

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しかし、遠くから見ると、こうやって755で燃え盛るような34, 35歳を過ごしたことが出版に繋がったことは違いありません。755の方々に深く感謝をするとともに、その交流に熱狂していた日々を懐かしく思い出します。ある友人は亡くなり、ある友人からは嫌われ、ある友人とは決別してしまいました。いろいろな事情があり今はそれほど活発に755はやっていませんが、いまでもあそこは私のホームです。

こうして出して頂いた処女作。これを一生懸命幻冬舎で売ってくださり、私はウェブ上での連載をいくつか持たせていただくようになりました。それらの連載をきっかけにして、二冊目、三冊目、そして小説と続けて出させて頂いたのです。こうして私はもの書きになりました。


こうして振り返ると、私はたいした才能があった訳ではなく、もし人と違うことがなにかあるとしたら、とにかく諦めが悪かったの一点に尽きるのではないかと思います。しつこかったのです。一度諦めましたが、「むくり」ともう一度立ち上がったのです。

偉そうなことを書くつもりはありませんし、そういうのはもっと成し遂げた人が書くべきでしょう。たった一人、中山祐次郎の経験したこの5年間から言えることは、

諦めず、しつこくやりつづければ、見てくれている人がいる

の一点です。しかしその「諦めず」は非常識なまでの程度で、「しつこく」は病的なレベルでやれば、の話である。いま私は、振り返ってそう思っています。

もちろん私よりすんなりともの書きになる人もいるでしょう。しかし、あくまで私の物語はこのようだった、ということです。私はじつにたくさんの出版社からボツをくらい、8ヶ月毎日待ち続けてもボツをくらい、それでも続けたのです。いまもの書きになろうという人の何倍も失敗をしたので、やっとこさ本が出せるようになった、という具合です。

やなちゃんや幻冬舎の見城さんと出会った私は、信じられないくらい幸運な男です。アメリカンドリームのようだと言われたこともあります。しかし、私はクジを人の何十倍も引いたのです。なんなら、「当たるまで引いた」のです。人生とは不思議なもので、クジに当たる確率は低いのですが、クジを引く回数は自由に選べるのです。

中山の物語はここで終わります。さて、あなたは、どんなクジを引きますか。


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