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一万年の眠り(2)~森の恵み

 
 狩猟採集民族、例えばアフリカのムブティ・ピグミーと、我々との違いは何だろう?
 最も基本的な違いは、彼らが一生を通して森の中に棲んでいることだろう。対して我々現代人は、おおむね視界の開けた平地で、人工物で覆われた住居(マンション、一戸建てなど)に住んでいる。ここでいう人工物とは、コンクリート、金属、ガラス、プラスチック等だ。また周辺の道路は通常アスファルトで覆われている。
 イトゥリの森はアフリカの赤道に近い熱帯雨林だが、樹木に覆われているため、それほど暑くならない。一年を通して、朝の気温は17℃くらいで、日中最高でも30℃を超えない。日本でいえば真夏の軽井沢といったところだろうか。このため服とか冷暖房設備は必要なく、家(というよりはテント)は雨がよけられる程度の簡素な造りになっている。こうした住居環境の違いは、ヒトの心や感情に何をもたらすのか。森に入ったときの感覚を思い出してみると、その違いが分かるように思う。

生態系感覚

 深い森には、ヒトが五感でキャッチする独特の情報がある。例えば、
・野鳥や昆虫の鳴き声
・フィトンチッドの香り
・樹木の葉の間から漏れる陽光
・渓流水の味わい
・岩肌や砂地の感触
といったものだ。これらを総称して、ここでは[生態系感覚]と呼ぶことにする。ヒトが自然に接して感じ取れる感覚だ。人工物で覆われた住居環境では、この感覚が薄らいでしまうのは否めない。休日に勤め人が山に出かけて自然に触れたり、キャンプをしたりするのは、この[生態系感覚]を無意識に補充しているのだと思う。
 元々、狩猟採集民が森を離れなかったのは、何よりもその豊かな恵みが彼らの食生活を支えていたからだが、しかし同時に、森から五感を通して脳を快くする滋養のようなものをもたらしているといえないだろうか?具体的には次のようなことが分析・報告されている。

◉野鳥や昆虫の鳴き声、木の葉の擦れ合う音などには、人間の可聴範囲の上限(2万Hz)を超えて、耳では捉えられない超高周波音が存在する。このような音を全身に浴びると、皮膚感覚を通して脳の基幹部(脳幹・視床・視床下部)が刺激され、自律神経や免疫系などの神経ネットワークが活性化されることが分かってきている。(これを[ハイパー・ソニック・エフェクト]という)

◉ヒノキやスギの樹木から出る独特の香り「フィトンチッド」は殺菌、抗菌、消臭の効果がある化学物質だが、これを嗅ぐことでヒトの脳の司令塔である前頭前野部が鎮静化することが報告されている。

◉樹木の間から漏れてくる陽光は、目の網膜を通り抜け、その奥の視床下部に達し、健康ホルモン「セロトニン」を分泌する。これが気持ちを爽やかにし、精神を前向きにセットする。

 現代人が一日森の中で過ごすだけで心がすっと癒されるのも、このような森の生態系のもたらす作用によると考えて良いだろう。

土地開発という名の森林破壊

 さて農耕・牧畜革命を始めてから、この一万年間にヒトが行ってきたことの1つに「土地開発」がある。その実態は、森の伐採あるいは開墾だ。最初は農耕用地、住居用地として、次に城とか公共施設などの建築用地として、そして産業革命後は工場用地として。この森林開発(つまり森林破壊)は全世界で野放図に行われ、その地はコンクリートをはじめとする人工材で建設された建物や、アスファルトの自動車道で覆われていった。これが後々ヒートアイランド現象を引き起こし、都市の気温を上げ、CO2の(樹木への)吸収を減少させ、結果として気候変動の一因となっていることは間違いないだろう。

鎮守の森で自分を取り戻す 

 幸い、日本の国土においては、未だ7割近くを森林が占めていて、この割合は先進国の中では非常に高い。言い換えれば、都会に住む人々も近くの森林や渓谷の中にたたずめば、原初の人類に近い環境に身を置くことができる。
 思えば、日本の宗教施設は古来から神社にしろ仏閣にしろ、森の中に建てられている場合が多い。伊勢神宮、熊野那智大社、高野山金剛峯寺など、いずれも深い鎮守の森の中に存在する。これは、お参りをする人々がごく自然に[生態系感覚]を発動し、脳に滋養を受けられるよう仕掛けられているとも考えられる。
 であれば、我々も深遠な森を探し出してそこに身を置くことが、古来からのヒトの知恵を伝承することになると思う。

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