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幸福論(3) 時間の概念を捉え直す

ここまで、幸福論(1)では脳科学からみた幸せの構造を、幸福論(2)では、組織の中での幸福のあり方について考えてきました。今回は、古代ギリシャの哲人、アリストテレスの哲学を引用しつつ、時間の観点から幸福について考えてみます。「嫌われる勇気」の著作で知られる哲学者、岸見一郎氏の著書をテキストにして話を進めていきます。

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              <アリストテレス>

「キーネーシス」と「エネルゲイア」

アリストテレスによれば、人間の行為は「キーネーシス」と「エネルゲイア」に大別されます。
「キーネーシス」とは、目標に向かってスタートからゴールへと一直線に動く行為を指します。例えば、山登りをするときは、普通は麓から山頂を目指して登り始め、頂上まで登り切ったことで目標を達成します。オリンピックでは金メダル獲得がゴールになり、大学受験では入試に合格した時がゴールになります。このように目標に到達することを主眼に行動することを、アリストテレスは「キーネーシス」と呼びました。
これに対して「エネルゲイア」とは、行動それ自体が目的を内包し、自己完結しているような行為を指します。行為そのものに自分のエネルギーを投入して燃焼するわけです。例えば歌を唄うことやダンスを踊ることがその典型です。歌やダンスは、それを行うこと自体が目的であって、何かの目標に向かって歌ったり踊ったりするわけではありません。(コンテストで競う場合は別ですが)
この2つの行為を時間軸に沿って図示すると、以下のように表されると思います。

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計画的か、刹那的か

このような観点に立つと、いわゆる計画的行動はキーネーシスと言えるでしょう。企業における組織的行動、例えば「5年後に売上を倍増する」とか「顧客満足度国内第1位を目指す」というのもこれに相当します。
一方のエネルゲイアは、計画的ではなく刹那的なものであり、論理的というよりは直感的と言えそうです。アリストテレスは、キーネーシスよりもエネルゲイアの方を重視すべきだと主張しました。のちにこの思想を受け継いだ、アルフレッド・アドラーも「人生は連続する刹那だ」と看破しました。
なぜエネルゲイアの方が重要なのかというと、「未来」とか「明日」というのは実のところ人間が勝手に生み出した幻想に過ぎず、本当は「今、ここ」の現実に生きるしかないからだ、と岸見氏は言います。
私の父は、私が生まれる前に肺結核になり、背中を切開して片肺を切除しました。九死に一生を得たわけですが、こういう大きな手術を受ける患者は「明日」が来る保証はないので、現在に生きるしかできなくなります。健康な人も本当はそうなわけです。

人類史をたどる

ここで人類史を振り返ってみましょう。我々ホモ・サピエンスはその歴史の大部分を「狩猟採取時代」が占めていますが、この時期すでに、人々は動物を囲い込んだり、夜には見張り番を立てるなど、他の動物に比べ、計画的・集団統率的な行動を取っていたことが分かっています。これはキーネーシスです。
一方で象狩りなどに成功すると、数日間、歌や踊りに興じていたということで、この辺りはエネルゲイアに満ちていたとも考えられます。
しかし時代が下がって農耕、工業化時代になると人々は飛躍的に計画性・統率性を高め、キーネーシスが圧倒的に主流を占め、この流れは基本的には現在にまで及んでいると思われます。
しかし人間の本能の原初的な部分は、今でも「連続する刹那」を求めており、それはアートや祭りなどで表現されています。サッカーやボクシングといったスポーツの試合も一旦始まれば“連続する刹那“と言えますし、茶の湯の“一期一会“もそうでしょう。そこではプログラム化された動きやマニュアルに沿った行動から逸脱し、瞬時にその場の気配を読んで自分の動きを変えていく、かなりエキセントリックな行為が中心になってきます。
思うに、日常的な反復的行為で徐々に目標を接近するキーネーシスでは人の欲望は完全には満たされず、それだけでは幸福には到達しない。どこかでエネルゲイア的行為で日常をひっくり返す必要があり、人は無意識にそのような補完行動を取るのではないでしょうか?農耕時代における収穫祭は、その意味で集団的エネルゲイアとして物財やエネルギーを蕩尽させ、心をハレ(=非日常)の世界に飛ばしていたと考えられます。

世界にアクセスするもう1つの方法

現代社会において、キーネーシスからエネルゲイアへと行動を切り替えるきっかけを与えてくれる1つが、「マインドフルネス」です。
「マインドフルネス」とは、仏教における瞑想がベースとなり、そこから一般社会に普及してきたものです。具体的には畳や座布団の上に胡座か正座をし、深呼吸をして雑念を払い、今この瞬間に意識を集中させます。ゆったりと腹式呼吸を繰り返し、風や温度を皮膚で感じ取り、花の香りや鳥の声に耳を澄ませます。そうして思考や感情にとらわれることなく心を徐々に安定させていきます。身体と心を統合して「今ここ」に集中することで、自ずと大自然にアクセスできるような気がします。世界とアクセスする方法として、前項で「共同体感覚」というものを紹介しましたが、それとは異なるアプローチがそこにはあります。あえて名付けるとすれば「生態系感覚」ということになるでしょうか?

終わりのない旅

「人生は旅のようなものだ」とよく言われます。確かに旅は始まりと終わりがあり、それをヒトの誕生と死に置き換えることができます。
会社の出張で大阪から東京に行く場合は、とにかく東京に着くことに意味があるので、これは目的意識を持った「キーネーシス」といえます。ところが「旅」というのは、最初に予定した土地に到着しなくても良いし、そもそも予定を立てる必要もないわけです。それよりも道の途中で何を見たのか、誰と会ったのか、何を感じたかの方が重要でしょう。知らない土地を訪れ、勘だけを頼りに面白そうな場所を探す、ということもあるかもしれません。そうして最初に建てた計画から逸脱し、その時その時の直感で行き先を決め、その場でなにものかを体験するとき、そこに旅の醍醐味が生まれるような気がします。こういう即興的な生き方の中に人生の味わいが潜んでいるのかもしれません。
「キーネーシス」と「エネルゲイア」、現代を生きる我々にとってはこの双方の領域を1人の社会活動の中でうまく融合させていくことが、この時代を生き抜く充実感と幸福をもたらすのではないかと思います。(了)

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