《小説の公開》
長い間、単行本として出版されず雑誌上に掲載されたまま、事実上封印されていた、第28回新潮新人賞受賞作、小説「マンモスの牙」を、一定期間ネット上のサイトに公開いたします。
なお、この小説は「牙の曲線」として映画化され、2022年末に封切り予定です。
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第二十八回新潮新人賞受賞作
マンモスの牙
小山右人
1 牙の曲線
ぼくの生涯にとって唯一のかけがえのない友人(三十そこそこにしてすでにそう確信している)の超新星が、お互い定職のない無為徒食の気ままさで、街に落ちているささやかな幸運でも拾おうという散策のうち、また例によってふいに立ち止まり、彼いわく生きていく上での最も核心にある複雑な秘密を解き明かす鍵になるという奇妙な苦しげな姿勢を取りはじめた。歩行者でごった返 した歩道で、彼は街灯に掴まり、頭を地面すれすれまで下げ、片足を高く振り上げ、その爪先で何か探る様子で宙の空虚をコツコツ叩いてみる仕草をした。 するとその爪先はもはや単純なのっぺらぼうの足先などではなくて、最も鋭敏な神経を持った昆虫の触角さながら常人にはわからない何ものかを確かに探る様子だった。傍にいるぼくは気が気ではなかったが、ひとたび閃きに捉えられた彼は、場所を選ばず自分の内界の探究に没頭しはじめるのだ。彼の逆さになった顔はみるみる紅潮し、怒張した頸動脈が激しく脈打つ姿は痛々しいほどだ
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が、彼はそんなことを毫も苦痛と感じない様子で、圧で押し出され気昧の眼球をかっと見開き、汚れた石畳に視線を這わせるようにしてゆっくり見回していく。頸から背、爪先までを硬直させて、ごく緩慢に上体と下半身の間を捩り、頭を丸め込んで宙返りの捻転の動作に持ち込んでいく姿は、蟷螂のぎくしゃくした関節の動きをも連想させる。 何やってるんだ、と一瞬足を止める人もいるが、すぐに冷ややかな眼差しを投げ捨て去っていく。傍に立っているぼくは、羞恥で顔面が灼けそうに熱くなったが、それを越えて、目に見えないが、しかし彼にとっては確かな手応えを予感しながら、世界の要をじっと睨み据えようとするその 深い熱意に裏打ちされた姿勢には、引き込まれざるを得ないのだ。・・・それにしても超新星が、一見唐突とも見えるこの複雑な仕草をするようになったのはいつごろだったろうか? 彼は、それを人生への目覚め、あるいは、自分自身の認識に到達するための欠かせない手続き、ともいうのだが・・・。いったいどんな根っこを、この男は持ち、何を模索しようとしているのだろう? あまり語りたがらない彼に詰問したとき、彼特有の冷たく人を突き放すような顔をぼくの方に向け、そんな言わずもがなのことを訊く奴があるかとでもいわんばかりに口元をきつく引き締めた。ぼくは、余計なことをした、と罪責感にさえ捕えられ、仕方なく俯いてぼく自身の記憶に痕跡を残した彼の外面的な目につく行動を拾い上げ、それを線で結んで一連の流れを浮かび上がらせようと試みた。
・・・思いは十五年ほど前の高校の頃まで遡っていった が、彼はいつも教室の片隅の椅子に座り、ほとんど無口で孤立しているようでもあったのだが、超然とした雰囲気、その色白で眸をキラキラ輝かせた何かしら深い秘密を知っているようにも見える姿は、ほうっておくことのできない 気掛かりな存在だった。(たしかにささやかなずれはあったとはいえ、あの頃までは、彼も、そしてとりわけぼくは、比較的順調に滑らかにチーズの表面を包丁の刃先が撫でるとでもいうふうな平穏な生活を送っていたのではなかったか。それが何かの拍子に刃先が引っ掛かり、柔らかな チーズの内奥に向かって沈みはじめた、そんなふうな感覚で捉えるのが今から振り返ると当たっているような気がする)・・・そこから現在の状況に至る最も明瞭な発端ともなったエピソードが、今鮮やかに甦ってくる。それは、学校 のプールの清掃が終り、新しい水が入れられ、降り注ぐ陽光に水の透明度が極まり、鈍いずぼらな生徒までも水の精に変貌する高揚に水中ではしゃぎ回っているようなときだった。皆がクィックターンの練習を始めたとき、彼が水中に没してなかなか浮かんでこないのを不審に思った同僚が彼を引き上げると、「よ、よけいなおせっかいは、や、やめてくれよ!」と徼しくどもりながら甲高い声で喚き散らしたことがあった。水浸しの彼の顔の形相の恐ろしさに、 皆は息が詰まった顔で一散に逃げ出した。その場にいた生
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徒の一人に恐るおそる話を聞いたところでは、超新星は両膝を腕で抱え、水中でちょうど逆さまになりながら奇妙に首をくねらせ、パクパクロを開閉させては水を飲んだり吐き出したりし、それでもいつまでも上がってこようとしな いので見ている方が怖くなってしまったほどだったという。たぶんその姿に遭遇した生徒たちが、眠っていた胎生期の不気味でもある記憶を一瞬にもせよ呼び覚まされて怖れをなしたにちがいないこのエピソ—ドを思い出すにつけ、当時からすでに彼の模索ははじまっていたのだと、手掛かりの片鱗を垣間見たような思いにもさせられる。・・・そこでまた一つ、そのことを裏付ける重要なエピゾード。 それは、彼がクラスで一番美人だった女子生徒に、放課後、催眠術をかけたという一件。相手が相手だっただけに、話は際どさを帯びて膨らんだが、そこにはどうして彼女のような存在に、こともあろうに彼がそんなことができたのか、驚きと同時にやっかみが含まれていたのだ。彼は、彼女に奇妙な踊りの仕草のような無理なポーズを取らせたのだが、それがどうやら猥褻な行為目的でなかったのだけは救いだった。しかし、好奇心に富んだ級友たちの噂 が、決して彼にとって好意的なものではなかったのは言うまでもなく、それでもロを閉ざしたきり想念に眈る彼の孤立は深まった。
超新星に言わせれば、複雑な捻転の動作に、ちょうど金庫の鍵の番号を合わせるように、認職に到達できる唯一の暗号を解き明かす秘技があるはずなのだとはいうのだが ・・・。実際そのとおりに捻転すれば、空間に潜んでいる座標の手応えを得、さらに生きるに価するかどうかも定かでない現在自分が置かれている〈こちら側〉の状況の絡み合った糸を束ね、明るい未来でもある〈向こう側〉の本来自分があるべき秩序へ、あわよくば統合できるかもしれない、というのだ・・・。それを見つけ出すために、衆目のことなど彼の眼中にあるはずもなく、カチンと鍵のダイアル が符合する感触が飛来すれば、どこであろうと捻転の動作に入る。ちょうど体操で、ウルトラの宙返りをするような複雑な捻転を、決められた仕方でこなし得れば、選手が、完璧な演技を終えて誇らしげに手を振り上げるときの 爽快な表情にも似て、彼にも長年待ち望んだ解放のときが 訪れるだろう、とはいうがはたして・・・
ーーほら、ぼくの額が樫の木の根にぶつかる乾いた音の感じがわからなかったかい? そしてぼくの脚は、悠然と広がる枝ぶりの包み込むような空間を暗示してはいないだろうか? ーーそう熱心に問い詰める彼の姿を見ても、即座 にぼくが彼の全てを理解できるはずもなかった。彼に言わせれば、例えばベンガル菩提樹が、その複雑に入り組んだ幹と気根、さらに悠然と巨きく広げた枝で宇宙を包み込む姿に羨望を覚え、それをそっくり体現したいというのだが ・・・。そしてさらに、ベンガル菩提樹が、雄大な宇宙を抱擁する憧れの海のような存在とするならば、より具体的な
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神秘の形態で彼を魅し、強い羨望を抱かせるものは、実は、マンモスの牙なのだという。ーーマンモスの牙! それはあまりにも唐突な気もしたが、眸を異様に輝かせながら語る彼の口調には、今までにない強い熱気が籠っていた。ーーきみもマンモスの化石なら、一度ならず向き合ったことがあるだろう。あの一見単純に迫出すようでありながら、実は複雑で絶妙なアーチをなす牙の曲線が描き出す不思議さ。ぼくは、博物館でマンモスの化石の前に佇んだとき、その牙の曲線の得も言われぬ絶妙さにたちどころに視線を奪われ、根元から尖端まで嘗めるように見ていくにつれ、何ものかを躰の奥から揺り起こされる感覚と共に強い立ちくらみを覚えたほどだった。ーーそう言いながら彼は、頭を地べたすれすれまで下げ、腰を思い切り捻って全身でマンモスの牙の形を表しはじめたーー頭骨から太く斜め下方に迫出した牙は、内側前方に稜を張り出しながら一 気に真上に向かって大きな円を描き、一周りしそうな勢い。が上方の頂点に達すると、稜は微妙に外側に捻れながら、全体の曲線はやや内側に巻き込むかと見えたとたんに尖端は、前上方を向くように微妙な捻りが加えられている。さらに数歩位置をずらして斜めからその牙のアーチを見てみたまえ。斜め前下方に憤怒の吐息の勢いで突き出した牙が、いっきょに垂直に天に向かって威嚇的に聳え、なおかつ今にも振り下ろされようという鞭のしなやかさに微 かにたわめられている。そうして双の牙で、地球一個分以上もありそうな巨きな空間をしっかり抱き込んでもいそうな雄大な威圧感を遺憾なく発揮して迫ってくる。これほど躍動的かつ繊細で恍惚とさせるくらい美しく、それでいて 複雑な宇宙の意昧を暗示しているような形態が外にあるだろうか? ・・・もしぼくが実際のマンモスと遭遇していたら、恐怖よりむしろその牙の曲線の絶妙さに、凝然となってしまっていただろうな。マンモスの化石は、あの牙のお陰で、一万年以上の時を越えて、むしろ生きている我々よりはるかに活きいきと動き、自らの存在について存分に語り得ている。ぼくの理想はマンモスの牙であり、永遠にかなわぬライバルという気もしているんだ・・・
マンモスの牙が美しいのはわかったし、彫刻家が惹かれるように感動する気持も理解できないことはない。しか し、その形態の中に、人生の秘密を解き明かす鍵があるという説明には、いくら彼が熱っぽく語ったところで腑に落ちないところが残った。不満げなぼくに向かって、彼は苛立ちを隠さず、煩わしい説明はこれきりにしてくれよ、と言わんばかりに投げ捨てるように語りだした。
ーーいいかね、ほら、かつて我々が同級生だった頃、シベリアの凍土の中から氷漬けになったマンモスがほぼ生前の姿のまま出土したというニュースに、クラスの生徒たちが興奮したことがあったじゃないか。・・・その全身を覆っていた黒い剛毛、厚い皮下脂肪、逞しい筋肉、さらに胃の内容まで数万年前のまま出土したというのだからね。・・・
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あのときぼくは、目新しさのせいばかりでもない強い衝撃を腹の底に受けて、一人思いに耽る時がしばらく続いたんだ。恐竜と同じように巨大で逞しい身体を持ちながら絶滅してしまったという運命は、ぼく自身の存在感の心もとなさから発して、社会や人類全般の未来に対するぼくの信頼を一切絶望的に打ち崩していくきっかけにもなるエピソー ドだと感じているような時期だっただけになおさらにね。 つまりね、自分にも人類にも破滅的な運命しか描きかねなかった鬱屈したぼくの思いをいっきよに覆しかねないビッグニュースとしてぼくの頭の中には響き渡ったわけだ。 ーーさすがはマンモスだ! タタール語でどうやら「大地 に住むもの」という言葉がその名前の語源という説もあるらしいが、まさにしっかり地に染みついた羨ましいほどの 存在感を証明してくれたようなものじゃないか。我々人類 (とりわけぼく)が、原型どころか放射線で抹消されてし まうかどうかの瀬戸際という危ういところに置かれている のを嘲笑うようにね・・・そんなふうに鼻唄混じりに人々にふれて歩きたい誘惑を感じるほど、一時期ぼくは浮かれていたんだ。それ以来、ぼくにとってマンモスというのは、 再生と確固たる存在の象徴として心の底に深く刻まれてい たにちがいないんだ。久し振りに博物館を訪れてマンモスの牙と対面したとき覚えた強い立ちくらみは、おそらくぼくの憧れの感情ともない交ぜになったその象徴的な記憶をくすぐり揺り起こしたためなんだろうな。マンモスの牙そのものは、もう二度と再生されることもない破滅の象徴でもあるはずなんだけれど、ぼくにとってはあのニュースのお陰で、その意味は全く逆転してしまったわけなんだな・・・
言葉を叩き付けるようにして語った彼は、もうぼくの方には見向きもせずに、蒼白な顔面を強張らせて彼の模索に浸り込んでいった。傍に残されたぼくは、しかしながら彼の言葉から彼の渾名の〈超新星〉とも結び付く閃きを得ていた。元々渾名を付けられることが嫌いだった彼は、それでも超新星supernova と同一化した名前を彼に決して好意的ではない同級生たちから付けられることにも自ら進んで受け入れるようなところがあった。あの実際には進化した星の最期を告げる華々しくもある大爆発の輝きでありな がら、何世紀に一度の巨大な新星の出現でもあるかのような鮮やかな閃き、そんな存在に、自分の身の上と重なる共感を覚えたものだろうか。ーー超新星といえば、かつて藤原定家が〈明月記〉の中で、牡牛座の近辺に見慣れない星 〈客星〉が現れ、輝きだしたと記したのでも有名な突然現れた不気味でもある星の輝き。当時、今から九百年以上も以前の人工物のガスや塵で汚されていない澄んだ夜空の中では、その巨大な星の終末を告げる突然の異様なギラつきは、繊細な歌人の透明な角膜を通り、網膜にどんな不吉な像を結んでいたことか、今から想像すると、自分の中に眠っているにちがいない先祖の素朴な魂の驚きを呼び覚まさ
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れ、純真で無垢でもある蒼古的な恐怖がムクムク胸の内に湧きだす気配だ。たぶん日常我々がテレビ画面で見る核爆発の輝きの映像に抱く終末の予感などとは比べものにならないくらいの天変地異、終末の不安を搔き立てる危機的な 予兆として、躰の奥深いところから湧き起こつてくる戦きに襲われたのではなかったか。そんなエピソードを語り合ったときの遠い昔に思いを馳せる深い瞑想の顔になった彼を思い出し、マンモスの牙の一件と併せて、彼が今置 かれている危ういバランスの状況が冷や汗混じりにぼくの胸に伝わつてきた。その持続的で深い熱意を見ていると、 どこかかつての不可解に挑戦する錬金術師のような魔法めいた謎解きに立ち向かう人と彼が重なって見えてきて、他の友からはまず受けない強く揺さぶられる感動のようなものを覚えるのだった。それでもぼくは、未だに彼の内界にすっかり巻き込まれ、共に精神の苦難を克服していくとい う境地には程遠い気がして、相変わらず傍に佇んで彼がど んな驚くべき認識をぼくの前に開いて見せるか観戦しているようなところがあつた。
「これだけは知っておいてくれ」とかつて超新星が、一縷の望みをぼくに託すという顔付きで彼の秘密の一端をのぞかせる意味ありげな言葉を語ったのが、そのとき思い出された。
「例えば、奥深い山の中の荘厳な神社の鳥居をくぐったときのことを考えてみてくれ」
「それならぼくにも想像はできそうだ」
「鳥居を通過したとたんに、聖域に入り込んだという気持がきみにもするだろう。ほんのただ、神聖な形をした木の枠を潜っただけでも、なにかしら気持が改まる手応えはわかるだろう? ぼくのもそれに似ていなくもない。ある躰の捻り方は、宙空に潜んでいる鳥居を潜らせ、秘密の意味をほくの躰を通して伝えてくるようなんだ」
「ふ一む、朧げながらわかるような気もするけれど・・・。 それは、例えば、空間の中に潜んでいる、次元の境目を見つけ出すという話に似ていなくはないだろうか? ほら、何気なく暮らしている日常の空間に、実は異次元へ通じる微妙な柔らかい襞にも感じられる扉が潜んでいるという話・・・」
「うーん、そんなふうに夢のある話として語れればどんなに楽かとも思うんだけれどもね・・・。ぼくは柔らかいビニ ールみたいな透明な膜に何重にも纏い付かれて、今にも窒息してしまいそうで、ここから一刻も早く逃げ出したい気持なんだ。こうして無理やり躰を捻っていると、ある瞬間にはコツンと何かが爪先に触れる手応えを感じる。それを頼みの綱に、さらに先に潜んでいる扉をこじ開け、なんと か風穴をあけようとしているんだ」
宙空に潜んでいる扉の鍵を、躰の捻転によって一つずつ開けていく、しかしそれまで待てずに窒息してしまいそうだと切々と訴える超新星を傍目に見る心苦しさに苛まれな
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がら、彼の言葉の意味をぼくは懸命に考え続けた。しかし、考えるだけでは彼の体験に肉薄できるはずもなく、そこで、一念発起、ぼくは自分なりに試してみようとした。一点に立ち、首を勢いよく振り回してみる、さらに失望するまえに、身軽にもう一点に飛び移り、今度は片足を振り上げて頭を落としてみる。・・・どうだろう? 樫の木やマンモスの牙の手応えとまではいかなくとも、空気よりは濃い密度は感じられなかっただろうか? しかし(というか、当然と言うべきだろうか)、ぼくは空を掴む虚しさに躰がよろけそうになる。《莫迦ダナ、本気ニナッテコンナコトシテ。オマエッテ奴ハ》地面を見つめて考え込んでいるぼくを目聡く見つけて、彼が傍らに立っていた。すると、失望の色を彼には気取られたくない気持が湧いてきて、ぼくはそこで躰をのけ反らせ、ちょうど彼がする仕草の反対に回ってみせようとした。
「逆にぼくが、きみが解読した捻転を反対に回れば、今きみがいる世界にぼくは入れるのだろうか?」
「さあ、それはどうかな」と彼はただでさえ寂しそうな顔をいっそう歪めて、絶望的だとばかりに首を振った。ぼくは、あっさり自分の浅はかさを認め、両手を振り上げてとり繕いのニヤニヤ笑いを浮かべ、道化師の仕草で媚びてみせるのが精一杯だった。
2 中心軸の偏位
彼は、ぼくに哀れみを含んだ微笑を返してくれたものの、くるりと背を向け、塞ぎ込むように自分の課題へと還っていった。まもなく彼が、自分の身体に蔵われている捻れと結び付くものに目を向け、彼が直面している問題の手がかりを得ようとしているのを知ったとき、さすがは彼だと思わず嘆息を漏らした。彼は、植物学者が蔓植物の螺旋を描く蔓の不思議なメカニズムとその空間に、宇宙の神秘に通じる鍵を探ろうとする姿さながら、頭髮の左巻きの渦 から始まって、頭部、顔面のわずかな捩れや手脚の関節の運動、体表に浮き出た青い静脈の絡まり具合まで詳しく探る様子だった。当然のこと、その鋭い追求は、彼自身のペニスにも向かったのだが、不運というべきかあるいは強烈に個性的といった方がいいのかもしれないが、彼の一物は ーー自尊心を保つには十分な大きさはあったのだがーー勃 起したとき左巻きに捻る形に捻転して、非対称のいびつな 格好になるのだった。それはデフォルメされた丸坊主の人物像の凄みさえ帯びて見え、誇らしさと一抹の不安を抱きながら物問いたげな眼差しを向けた彼に、思わずぼくは 「何かいかつい爬虫類の迫力があるじやないか」と言ってしまったことがあった。うっかりロを突いて出た言葉だったとはいえ、彼の慰めか励ましになりはしないか、という思い遣りがあったのも事実だった。が、結果的にはそれが
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裏目に出て、むしろより深く彼は自分の〈中心軸〉の偏位に思い悩む様子だった。彼は、憂慮する思いに逆らってまで勢いよく勃起するぺニスを労るように掌の上に乗せ、どこか哀れむような眼差しで見詰めるうち、いささか憎らしそうに左右の方向に捻ってみたり前の方に強く引っ張ってみたりした。まるで彼の長年の錯綜が、彼の存在を支えるこの中心軸の捩じれのせいだと言わんばかりの疎ましそうな顔付きで。しかし、彼の一物は決して気に病むような目も当てられない姿というのでなく、むしろ異性に対しては、格好の自己存在と欲望を強くアピールするはちきれんばかりの自己主張の形態をしてさえいると思ったのだが、 彼はそんなことで癒される様子でもなかった。むしろ、宇 宙の小さなしかし厳密な法則に神の意図を探ったり、物に潜む魂を探ろうとする人のように、もっぱらその形態にこだわり、どういう経過で自分の一物はそんな形になり、そしてそれは自分の運命にどんな意味を持っているか執拗に思案する様子だった。・・・
それにしても、躰の中にある捻れとか、捻転による複雑な回転の仕方で自分を探索しようとするのは元々見当が違っていて、もっと別のところに探るベきだったのではなかったか? 例えば幼児のときに母親との間に異常な体験があったとか、性に目覚めるときに耐え難い屈辱を受けたとか、彼を拒絶し続けた女性に心底傷付けられたことがあったとか。たぶんそんな自分で意識するのもおぞましい自分にとって最も大切だった人との間に起こった事件で負った痕を、人は自分に優しいやり方で長い時間をかけて反芻し、癒しと同時に自分の認識に到達していくものではないか? 彼ならばそんなことはとっくにわきまえているにちがいない、ごくありふれた陳腐な精神分析的な方法と一 蹴されるのも覚悟しながら彼に言ってみたことがあったが、案の定それはひどく癇に障った様子で、彼はぼくを睨 みつけ、数日ロもきいてくれなくなる有様だった。その強い拒絶の反応に、かえって彼の核心に隠蔽されている深い人間的な痛手を負った部分を垣間見せられてしまったような気もしたのだが。結局彼の身体の形態を複雑な捻り方へ向かう探究は変わらず、むしろより強く神経を集中して苦しい試行錯誤にのめり込む様子だった。
厖大な精神の宇宙と肉体の小宇宙とが曖昧に融け合って重なり合う彼自身の焦点ともいうべき〈宇宙軸〉の偏位は、彼を耐え難い憂鬱に浸し、数日思い煩わせた。彼は意を決し、自分の身体の中に潜んでいるにちがいない複雑な捻転の秘密を、ブタの尻尾の捩れのような虫垂の形に至るまで徹底的に調べてもらうため、病院に行くことにした。しかし実際初診で向き合った皮膚の薄汚れた初老の外科医 は、いきなり彼が言い出した要求に、額に深い皴を寄せ疑いの眼差しを向けた。そして、ここはそんな無駄な検査をするところではないと威を張って、帰るよう促した。彼は、自分の最も核心にある重病のようにも感じられる苦悩
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を、軽くいなして追い返そうとする外科医に憤然と立ち向かった。顔を紅潮させ唾を飛ばして激昂を露にする彼に対し、外科医はわずかに怯んだが、病に侵されてドロドロに融けたようになっている内臓でさえ平然と搔き回す常人離れした職業感覚の頑迷さに立ち返り、その肉厚な背をすぼめて身構えた。なおも自分の要求を一方的に叩き付ける彼は、外科医がその職業選択の際にいささかなりとも自覚したであろう潜在的に持つサディスティックな性向に、はからずも火を点すことになったのだ。外科医は、無理に崩した相好の中から、妙に馴れなれしい猫撫で声を作って、「ええ、わかりましたよ。そこまでおっしゃるなら、あなたの気のすむまで徹底的に検査してさしあげましょう」と言った。
超新星は、人が嫌がる検査を苦にする様子もなく、黒く光った蛇のような機械の管を飲み込むことーーもし検査機器という大義名分の理性の部分が消し去られたら、なんと不自然で奇妙な行為だろうーーにも平然と耐えた。管の先端は見知らぬ暗渠の中を突き進み、充血した粘膜の山襞をいくつも越え、括約筋で小さくすぼまった肉の扉を押し開け、また漆黒の別の宇宙空間へと突入していく様を刻々と 映し出した。自分の身体にもかかわらず、見知らぬ光景に次々出会わされる羽目になるなんとも屈辱的でさえあるこの驚きにも怯まず、むしろ眸を活きいきと輝かせた。足元を照らす懐中電灯のような明かりに、深海のように奥深く静まり返った世界がぼおっと浮かび上がると、粘膜の襞の複雑に重なり合った姿は、ヒマラヤ山脈の山々が入り組んで折り重なった凍った大地をはるか上空から俯瞰する雄大な眺めを想わせもした。が、より近付くと、涎のような粘液で濡れ光った粘膜は、丸みを帯びて盛り上がり、不規則 にくねって隣の粘膜の襞と柔らかく重なり合う不気味でもある相貌を露にした。それはいかにも優しく柔軟で、なおかつなまけもののようにぐうたらで、融通がきかず、それでいてしたたかに、貪欲に蠢く臓器の内側の世界なのだっ た。・・・この暗い洞は、肉の塊をも融かしてしまう欲望の始原の食欲を呼び起こす貪欲な闇。この闇で生まれた欲望は、人をたえずせっつき、気忙しく、野蛮でさえある行動に駆り立てていく。・・・
はたして超新星は、この躰の内奥を探る冒険から、内臓感覚の秘密の一端を摑んだ様子で、ぶ厚い人間の発生学の本まで引っ張り出してきて、珍しく彼の方からぼくに語りかけてきた。ーーいわく、ペニスの捩じれからくる彼自身の〈宇宙軸〉の偏位にはじまる混乱は、直接複雑にその陰に枯れかけた果実のように潜む睾丸の感覚と密接に絡み合っていることに気付いたのだという。つまり、発生の過程で躰の奥深く内臓の部位から降りてきた睾丸の下降路を遡ってゆけば、最も手短かに本来厳重な秘密に隠蔽されているはずの無意識の住み処でもある内臓感覚の世界に入り込むことができる、と。
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「わかりにくいことを言っただろうか? しかし、きみも男なら、睾丸を蹴られたときのあの腹の奥深くにまで響く何ともいえない〈急所〉をこん棒で殴られたような痛みについては熟知しているだろう。まさにあれなんだよ、つまり睾丸というのはね、躰の外にぶら下がっているようでありながら、実は内臓感覚の要と言ってもいい存在だったというわけだ。女の場合はね、思い切り深く卵巣に打撃を受 けなければ、男の痛みはわからないというものだよ。不快で、不可解で、奥深く深刻な痛みの代名詞でもある卵巣痛と、男のあの痛みは、きっと共通していて響き合うと思うんだけれどもね」
そう言う彼の顔は、久々に晴れがましくもあった。さらに、いったん勢いづくと、闇雲な彼の突進は止まるところを知らず、例えば超音波と空気の泡がポコポコ音を立てて発する気泡浴に入り、睾丸が気泡に弄ばれるままにして、 その自由な浮遊感の導きで長年しこった内臓感覚を解き放つんだ、などと言い出すのに驚き目をみはりもした。が彼は頓着する様子もなく、どうだい、こうして地上にいながら宇宙空間を自由に漂う無重力の感覚を最も手っ取り早く味わう方法だとは思わないかい? と言った。渋々付き合ったぼくは、それでも普段あまり味わったこともないこそばゆく何か浮き上がるような解き放たれる感覚を体験したのも事実だった。
「こんなふうに内臓感覚の要をね、風船を突いて宙に遊ばせるようにしてもう一度ぼくの感覚を全てばらばらに自由に解き放つのさ、次の新しいぼく自身の組み立て直しのためにね。今、世間でも会社から官僚制度までなんでもリス トラで大騒ぎだろう。ぼく自身も、そういうところ(いや、もっとはるかにラジカルで根本的なのだけれど)に追い込まれているのさ」
彼は、熱湯に赧く上気した顔を輝かせながら艷のある声で言った。
「しかし、どうしてこの惑星の進化の過程であのマンモスの牙のような美的でもあり、他を威圧する機能の上でも優るもののない完璧な形態が生まれるものだろうか? あれはけっして、マンモス自身がこうしようと意図したはずのものでもないし、ましてや手を加えて形作ったものでもな い・・・」
考えるゆとりを取り戻した超新星は、再びマンモスの牙の完璧さと争いながら、捉えどころのない自分への思いに没入する様子だった。
「きのうの晩、無重力の浮遊感の中に解き放たれた気分に漂ううちに鮮やかな夢が現れたんだ、実に久し振りの美しくも、苦しくもある夢だった。ーー満天の星を戴く澄み渡った夜空に、灰色がかった巨大なマンモスの牙が聳え、その美しい曲線をくねらす姿。北極星の近くの宇宙を何やら暗示的に指し示す微妙にたわめられたその姿は、壮大さを感じさせもした。・・・近付いてよく見ると、細密な象牙彫
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が施されるようにして、ぼくの躰が窮屈にたわめられてマンモスの牙の形に押し込められていたんだ、それが常々ぼくが閉塞感を味わっている見えない閉鎖病棟の出現だったのかもしれないけれどね。とたんに息苦しさを感じて躰をもがかせたが、どうにも牙の呪縛からは逃れられない苦しさばかりが募った。そのときぼくは激しく捩られる痛みを腰の辺りに感じ、悲鳴を上げそうになった。・・・なんと例のぼく自身の人生よりもはるかに無残に込み入っていびつに捻れた哀れむべきぼくのペニスが無理な形に押し曲げられ、それでも強く抵抗して勢いよく勃起しようとしていたんだな。なんともけなげでもあり、痛々しいほど無謀な悪戦苦闘をしていると、思わず憐憫の情を催してしまったほどだった。しかし間もなく、半睡の朧げな幻想的でもある 意識の中で、ぼくの一物は、きらめく星辰の真っ只中に青白い燐光を帯びて心もとなく聳えだしたんだ。そして次の瞬間、痛みを伴ったひどい捻れとともに、なんとも苦しげな射精をした、血のように粘ついて生温かくもある精液が溢れ出す耐え難い射精だった。ぼくはごく短い奇妙な興奮の後、打ちのめされたように濃い藍色の世界に沈んでいった、深く底知れない絶望のデプレッションの世界へとね」
髪を搔き毟り、苦渋の色に顔をしかめて言う彼は、それでもなお語り尽くせないものを内に秘めている様子で、ロ唇を震わせ、もどかしそうに言葉を繫いだ。
「その実に不快な射精の後の深い落ち込みの気分は、昔見た悪い夢と繫がっていくようだったんだ・・・。その悪い夢というのはね、子供の頃高熱にうなされたときに見た捻られた空間の不気味な幻像(今でも鮮明に記憶に焼き付いてしまっているほどのものなのだけれど)なんだ。ーー浴衣 を着た自分が、藍色の薄闇の中で逆立ちさせられたままくるくる回り、その傍らでは巨大な独楽がブーンと低い音を立てながらいびつな回り方をして頭を振っていた。天井の木目の波形に揺れる気持の悪い眩暈から逃れたくて、なんとかこんな無理な格好の回転は止めたかったのだが、どうにもならず何ものかに操られるように逆立ちの回転を続けさせられてしまう。気が付くと、いくつもの巨大独楽がひしめき合って自分の周りでは回っていて、どうにも逃れる術のないところへすでに追い込まれていたことを悟らされる。辺りの床も空気も向こうの闇も、粘土質の鈍い柔らかさに感じられ、抗う気持もずぶずぶと底なしの奥深くへ吸収されていってしまい、歯痒い時の流れが無限に続くのではないかという苦しみに発熱の重苦しい気分が倍加されていった。・・・今、自分の頭の中は、あの巨大独楽に操られたときそのまま乱暴に搔き回され、マンモスの牙の滑らかで調和の取れた曲線どころではない無数の捩れた糸が絡まり合う状態になってしまっているんだ・・・」
そう語った彼の顔からはすでに血の気が引いており、実際に発熱して身を戦かすのではと危ぶまれたほどだった。
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苦しみの極致に陥った彼に手をこまねきながらも、一方ではぼくの中に期待が湧いてくるのも禁じ得なかった。外科医の処にまで行く突飛な行動まで取りながら執拗に自分を模索する彼に、翠色の飴にしか見えないエメラルドの原石に精妙なカットを加えて人生の宝石の価値を表して見せてくれる鮮やかな手並みの人の姿を重ねずにはいられない気持があった。ぼくには、彼の苦しげな探索への付き合いから逃れて、かつてのおもしろおかしいだけの平穏な日常にいつでも戻れるというずるい思いもあったが、彼がこれからどんな発見を見せてくれるのか、そちらの期待の方が圧倒的に僕を領していた。とりあえずぼくは、地に落ちて腐っていく果実ほどにもうらぶれて蹲る彼の背に、毛布を掛けることくらいしかできなかったが、せめてもの報いとばかりに、彼とどこまでも対決し続けようと勝手に心に誓いを立てた。
3 正規の回旋
数日後、彼は、鈍色の厚い雲に覆われていた鬱陶しい空からふいに金砂子の光線が射したときのような冴え渡る感じで有力な手がかりを得た! といきなりいつにもなく甲髙い声を上げた。その鍵は、人が狭い産道を通って生まれ るときに必然的に起こる複雑な回旋にあったんだ、と語気を強めた。「ぼくには、人生の最初の瞬間とでもいうべき大切なそのときに、なくてはならない通過儀礼のような産道での苦痛な回旋が欠けていたんだ。ぼくは予定日を過ぎた巨大児で、帝王切開で生まれたものだからね」と、顔を赧く上気させて叫んだ。ほとんど嘲りとも取られかねないぼくの呆れ顔に、彼は毒突くように言ったものだ。「きみのようにちゃんと正規の回旋を経て生まれてきた人間には 自分の気持が分かるはずはないのだ」と。・・・いわく、桃太郎のようにぱっくり割れた腹から飛び出すのと、最初で 最後の肌に密着した狭い難関を身をよじりながら新世界に送り出されるのとでは、人生の意味がそこから違ってしまうというのだが・・・
彼は、そのプロセス(どうやらあの外科医に詰問して知識は仕入れてあったらしいのだが)を、熱心に躰を捩り、 顔を赧らめ、再現しはじめた。ーーいいかい、まず第一回旋。児頭が強く骨盤入口に押しつけられ、顎が胸に付くよ うに屈曲させられる(彼の無理に鉢を小さく丸めた姿は、 ダリの絵にある卵の中に蹲ったいかにも息苦しそうな裸の男の姿に似ている)。ーー続いて第二回旋。児頭の先端が、 骨盤底に押しつけられたところから始まる。横向きだった児の頭が、徐々に縦軸の周りを回転し、ちょうど逆さで後ろ向きの位置になって骨盤出口に嵌まり込む。横向きの躰から、首はひどく捻れた格好だ。ーーそして第三回旋。児頭が骨盤出口から娩出されるとき、今度は第一回旋とは反対に、力一杯背後にのけ反るような運動が起こる。頭頂、 額、顎、が次々に滑るようにして日の目を見る。それにつ
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いで身体も、捻れながら娩出される。(人ハ、コレホド窮屈ナ折リ畳マレタ姿勢デ生マレテクルモノカ! そういえば、瓶の狭いロを通して中で帆船の模型をきれいに広げて飾ってみせる、なんともこの出産時の苦しい体験を意識の底から目覚めさせる芸当があったのではなかったか。あの伝からいくと、実は人間は無制限の広い宇宙に産み落とされる、などというのではなくて、完全な自由の子宮から、 息詰まる瓶の中に押し込まれ、弱々しく体裁を整えるふうに帆を広げたにすぎなかったのではなかったか・・・)これ が人類共通の、大概の人間が最初に経験する捻転というわけだ、と無理な姿勢をしながら語り終えた彼は、いつになく明るく見えたほどだった。
たしかにこれは、きみがいきなりする捻転の仕草と似てはいる。しかし、だからといって、どうしてこんな捻転が、人生に重要な意味を持つというのだ? 母親とのス キンシップとか幼時の親子関係というのならいざ知らず ・・・。おまけに、出産のときの〈欠如〉にまできみがどうやって遡れたのだ? まさかきみは、そんな鋭敏な能力があると、ぼくに誇示したいのでもあるまいに・・・それにしても、帝王切開で生まれた子供が終生その捻転の欠如に苦しむなどという話は聞いたことがない、と詰め寄るぼくに不敵な微笑を返した彼は、にわかに勢い付いた。鍵の最初のほぼ三段階まではなんとか解読し終えた、と声を張り上げながら、意気揚々とぼくの前で躰を捻ってみせた。ーー前転から入って左脚を真上に上げ、足首を内側へ四十五度捻る。このとき爪先に、弦に触れるような感触。ーー続いて頭部を右に捻りながら背骨も斜め右へたわめ、しだいに 臍を見る格好に上体を折り込んでいく。それにつれて左爪 先も引っ張られていくはず。そのとき肌をぞくぞくさせるような弦を引っ搔く音が聞こえる。ーー柱を掴む手を持ち替え、力を込めて躰を支え、斜め宙返りの格好で丸めこんだ上体を起こしにかかる。そのとき、振り下ろされる脚の動かし方が重要だ。けっしてばたんと地に叩きつけられるようなことがあってはならない。弦を引っ搔くような仕方でそろそろと降ろしながら、しかし地に向かって速さが増したところで熱湯から手を引っ込めるように俊敏に折り曲げる。そうしないと、瞬時に開く狭い裂隙をくぐり抜け損なってしまうことになる。ーー以上が、とりあえずは最初の段階さ。しかしどうだい? なにかゾクッと来るような 感触はぼくを見ていて伝わらなかったかい? ぼくは、自分の始原の時にまで遡ってぼく自身に関わる大切な手掛かりに触れた気がする。そしてさらに、ぼく自身を離れたより普遍的な宇宙の座標にまで届きそうな予感にぼくの胸は高鳴りはじめ、辺りも塵一つない宇宙空間の静寂さに澄み渡りはじめるようなんだ。ーーそういう彼は、近頃の髪や服装のみの奇を衒った若者たちの中にはまず見受けられない素朴で稀少な潑剌さをその薄汚れた風貌の中から発散させた。
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ぼくは感心する一方で、一人悦に入ったような彼にいささか辟易気味に斜めの視線を送り、距離を保とうとした。 すると、むしろ思いがけずこちらの想像力の歯車がカチンと回りだし、意外な姿がもやもや星雲状に彼を取り巻き蠢きだした。ーーもしかしたら彼は、彼自身の言葉でも言っているように、案外常人を超越した宇宙の法則にも達する感覚を持っていて、いち早く次の時代を先取りした座標を読み取り、自分の占めるべき位置を読み取ろうとしている人ではないか? そんな決して浅薄ではない、知る人のみに控え目に伝わる仕方で真に新しい秘密を探ろうとしている姿が、ぼくを惹きつけて止まなかったのではなかったか? ・・・すると彼の姿は、スペースシャトルから送られてくる映像の青い地球から濃い黒の闇へと恐ろしいほどの美しさで移り変っていくグラデーションの虚空の中に、不思議なロボットめいた関節のぎこちなさで浮かぶ宇宙飛行士の雰囲気をいつの間にか漂わせはじめていた。ぼくは、 今まで以上の親しみを越えた尊敬にも近い気持を抱きつつ、より彼の秘密に迫りたい衝動に駆られた。
「例えば、人は一生かけて自分の似姿を作り続けるというじやないか。ちょうど蚕が、教えられもしないのに美しい繭を作り、蜘蛛が精緻な巣を張り巡らすようにね。きみの場合、それが複雑な回転だったのだろうか?」
「ふーむ。しかしね、蚕にしろ蜘蛛にしろ、連中は規格に合った他とそっくりな繭や巣ばかりを作りたがる。ぼくは、そうじゃないんだ」
「そうか。一見精緻でも、ささやかな個性しか持たない繭や巣ばかり作っているのは普通の人間というわけだね。きみの場合、とてつもなくいびつな形の繭を作り始めたとか、見たこともないような複雑な幾何学的な巣を張り巡らし始めた蜘蛛というわけなのか」
「いや、ぼくはね、規格外というのとも違う。蜘株が繭を作り始め、蚕が蜘蛛の巣を張り巡らしだしたようなものなのかもしれないね、傍から見ている限りは・・・」彼は寂しそうな微笑を浮かべてそう言い、首の骨をコキコキいわせ ながら頭を入り組んだ図形を描くふうに動かし自分の問題に没入していった。
ーーきみにとって、それはある種の広大な内的宇宙の神秘的な明るみに到達するための激しい修業のようなものなのではないか? 厳しい禁欲と静寂を自らに課して瞑想を積み重ねるうち、一つずつ心の階層の固い扉が開き、やがて最も深淵に開ける至福の光に充ち溢れた内面の豊饒な世界に導かれるというふうな。あるいはきみは、極めて鋭敏 な前衛芸術家の感性と共通するものを持ち合わせている人 なのではなかろうか。真の鋭い感覚を持った芸術家が、まるで空気の中からすくい取ってみせるように驚きの形態を目に見える形に表すのにも似て。ーーぼくに羨望の念さえ抱かせる探究に没頭する彼に、そんなふうに鎌をかけるように訊いてみたこともあったが、彼は、黙殺したきり苦し
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げな捻転の仕草に没頭し続けた。
万が一彼が求めている複雑な回転を解読したとしたら (もちろん十分にあり得ることとぼくも信じているが)、彼はどれほどの至福に満ちた歓びを味わうのだろうか。しかし、ぼくの傍らで顔色を変えて悪戦苦闘する彼は、そんな 楽天的でもある展望に向かって励むという様子でもなく、ようやく大きな手掛かりを得たにもかかわらず、もう数日後にはむしろ行き詰まっていく苦しさばかりを滲ませるようだった。彼との徹底した対決を勝手に心に誓ったぼくは、何とかしなければと焦りもしたが、未だに日常の表層に未練がましく片足を乗せた状態で、彼の心の琴線に触れるような名案を思いつくはずもなく、ぼくなりに反射的に浮かんだ閃きを出任せに提案するほかなかった。一つの案として遊園地に行き、乱暴なほど躰を振り回す乗り物に乗って、この行き詰まった状況を、外からのランダムな力で打開する道を探ってみてはどうか、と言ってみた。ーーその案に、彼は満更でもない顔をし、実際一緒に遊園地に行くことに同意した。
いくつもの乗り物がある中で、彼が関心を示したのは、 案の定と言うべきか、最も激しく複雑な回転をする代物だった。苦行する人が何日間か籠る壺さながらの小さなカプセルに窮屈な姿勢で乗った人々からは、機械が過激に振り回されるたびに、尋常ではない悲鳴が漏れてくる。ぼくは、何か悪い予感を抱きつつも、ここまで彼に付き合ってきた行きがかり上、その息が詰まりそうなカブセルに乗り込まざるをえなかった。・・・ああ、実際機械が動き出してからのパニックは、予想をはるかに越えており、地上に叩きつけられそうになるかと思うと空に跳ね上げられ、天も地も入り乱れ、内臓も腹の中のあちこちを回り、平衡感覚もとっくに生理的な限界を越えていた。ようやく外に出られたときには、ぼくは失神寸前になっており、「もう付き合いは勘弁してくれ」と彼に手をすり合わす有様だった。 それに対し彼は「いいよ」と言ったきり、また同じ乗り物の方へ歩いていった。何かに憑かれたように、いやむしろ平然としているようにさえ見えるその後ろ姿に、ぼくはあらためて驚嘆を覚えもしたが、一方で、案外ぼくのとっさの思いつきも、何らかの光明を投げかけるかもしれないと微かな手柄の期待を抱きもした。ぼくが熱の籠った眼差しで見詰める中で、彼は懲りもせず同じ乗り物にたて続けに三回も乗った。さすがに降りてこちらに歩いてくる彼の足元は覚束なく、怖いほど蒼白な顔をして首筋には脂汗を滲ませていた。その乾ききった口唇が細かく震えているのを見たとき、《コレハ何力起コリソウダ・・・》 とぼくの中には騒ぎ出した期待と不安が複雑に交錯した。
翌朝、物が激しく壊れる音が彼の部屋から響いてくるのに驚かされ、灰色の薄明の中に目覚めたとき、ぼくの中に蟠っていた不安は極点に達した。ぼくは跳ね起き、彼の部屋に飛び込むと、粉々に砕けた鏡の破片の真中にひどく興
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奮して躰中を震わせ、髮や衣服が荒れ放題のまま蹲る彼の姿があった。いったい何があったのか、床に散らばったガラス片ひとつ踏まぬ慎重さで彼の傍らに近付き、小声で問いかけた。裂けた額から溢れた血が流れ込む口唇から、彼 はしばらくウー、ウー、と獣の低い唸りのような音を漏らしていたが、間もなく血の混じった唾の泡を吹き出しながら訥々と語りだした。「ぼくは、ばらばらなんだ! わかるか? ぼくを構成しているはずの何もかもがばらばらなんだ」凝血のこびりついた髪の間から、仔犬の悲鳴のような声を絞り出し辛うじて彼は語った。どうしたというんだ? 昨日遊園地のあの激しい乗り物で、何か手応えらしきものを掴んだようじゃなかったか。思わず彼の肩を揺すり、詰問すると、「激しく振り回されてみて気が付いたんだ。この手が、この顔が、ペニスが、自分のだという保証 がないことに。ばらばらなんだ。勝手にものを掴み、勝手に勃起し、自分のものでない顔を付けて生きている。もう他人を生きているなんてものじゃない。自分がない。他人を押し付けられて生きている。こんな屈辱にきみは耐えられるか!」ロから針でも吹き出しそうな今までにない険しい口調にぼくは圧倒され、遠のいて身構えた。言葉を失ったぼくの方に、彼は苦しげにロ唇をわななかせながらなおも語り続けた。「〈ぼく〉が、ベルトの緩んだズボンみたいに、人前であろうががまわずずるずるとずり落ちてしまうんだ。どうだ、とんでもないことだろう? 今朝、うっかり鏡と向き合ったとき、自分が、ぼく自身の影の中からずり落ちていくのを見た。え? 信じられるかい?」彼は、 濃い影に充たされた哀しさに、今にも冷たい涙を溢れさせそうな眼差しをぼぐに向けた。思いがけないなりゆきに目をみはるぼくに、彼は震える目配せで壁の方を見るよう示 した。「鏡がいちばん怖いんだ。ほら、あの鏡を叩き割ってやったんだよ」彼は、粉々に砕けた鏡の破片の上に目を落とした。「鏡は、ぼくにとって魔物だ。そこに映ってい るのは、自分の姿だととうてい認められない。自分の動きを真似る他人のように見えて空々しくも感じられてしまうんだ。そしていつばらばらに砕けてしまうかもしれないという強迫観念でぼくを苦しめる。ーー今、その恨みを晴らしてやったところなんだ」彼は、まるでいまいましい生き物を仕留めたとばかりに恨みの籠った低声で言った。彼の言葉と姿から滲み出す力に屈服させられたせいか、煌めきを放つ断片が、粉砕された無残な死骸の生々しい骨片の散乱にも想われた。「実はね、ほら、かつてぼくが教室の片隅でひたすら空想に耽る生徒だったときのこと・・・ぼくはまだあの頃、頭の中で無数の力ードを弄ぶ段階だったのかもしれない。・・・それはつまり、ぼくのあらゆるもの、名前の由来にしろ、ぼくの生い立ちにしろ、両親の存在、国籍、兄弟、学校、あらゆるぼくを構成する断片が記された 力ードを、とっかえひっかえ並べ換え、全く別の (本来あるべきと言った方がいいかもしれない)ぼくの運命を組み
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立て直せないか、という悲壮でもある試行錯誤を操り返していた時期だったんだ。・・・しかし、頭の中での必死の試みにも限界があった。懸命の錯誤を試みるほど、力ードは細分化し、どうにも収拾がつかなくなるところにまで至ってしまった。ぼくは激しい混乱に陥り、真夜中に興奮して天井に向かって手を振り上げ喚き続けた。今から振り返れば、生みの苦しみの究極の段階だったのかもしれない ・・・。その時を境に、ぼくは今に繋がる大切な手がかりを得ることになった。頭の中だけで試行錯誤していてもだめだ、つまり行動に出なければ、と。躰の捻り方こそ、見失った自分を取り戻す方法だ、とね。そしてようやくここにまで至ったのだけれど・・・」彼は、苦しげな息の喘ぎの隙間から途切れがちに言った。そして一息つくかつかないうちに、何か込み上げてくる感情を押さえ切れないとばかりにぶるぶる顔を細かく震わせ、喉の奥からもどかしげに言葉を発した。
「それで、こ、この鏡がな・・・憎らしかった・・・ば、ばらばらになっているぼくの正体を、露骨にあばいてしまう冷酷な奴だったのだからな!」
叫ぶなり彼は、ひとしきり高い咆哮のような声を発し、 床に倒れ込んだ。頭を抱え固く蹲り、もう一 言も話さない彼が、割れた鏡の断片に映った像のように粉砕されて見え た。《キミノ内側モ無残二砕ケテイルトハ・・・細かく震える彼の中で渦巻いているにちがいない嵐の激しさに、ぼくは目の眩む思いがした。彼は、このまま果てしない混乱の中に呑み込まれてゆき、どうにも手のつけようもない錯乱の内に破滅していってしまうのではないか。傍にいるぼくも、救いようのない窮地に追い込まれていく気がして、 彼のことはもう手には負えないという諦念に覆われていった。しかし、ここに至って彼を見放すことがぼくにできるか? あのずっと以前の無邪気でさえあった清々しい彼の記憶が染みついているにもかかわらず、彼があの本来の姿を取り戻そうとする悪戦苦闘の真っ只中で見放す冷たさを 自分に許すことはできるのか? ぼくは、ただの冷淡な傍観者や、野次馬などであったはずはないのだ。すると、背を震わせる彼の周りに散らばった無数の鏡の断片の煌めきが、鋭い針先となってぼくをチクチク刺し回った。・・・せめぎ合う気持に縛られるうち、決して浅薄なお義理の拘束などから彼の傍らに留まろうとしているわけではない自分を意識し、ぼくはいくらか救いを見いだした。思いもかけないことに挑戦し、どんな苦痛をも厭わぬ彼の体内を流れる血の熱は、ぼくの中にも十分に伝わっている気がしたし、彼の微かな仕草にも、全身の筋肉が敏感に身構えているのがわかった。彼は、背鰭につかまらせて海底を案内してくれる気前のいいイルカのような存在では決してなかったはずなのだ。彼と付き合うからには、それ相応の身構えが必要なのはいうまでもないことだった。それにしても、 もし今中途半端に彼の元から去ったら、ぼくはむしろ恐ろ
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しい混乱に陥れられるのではないか、という今までにはない不安を感じ始めているのにも気が付いた。
4 稀な同類
嗚咽のような音を咽から漏らして背を震わす超新星の傍らにぼくは一緒に蹲り、手掛かりの見いだせない堂々巡りに、それでもやはり絶望を感じないわけにはいかなかった。ぼくの中には、これまで彼が試みてきた無数の挑戦の 断片が過ったが、たちどころに闇の彼方に吸われて消え去った。そうして顔を掌で覆って目前の闇にさえすがる思いで念ずるうち、かつての彼のあの鮮やかな記憶、透明なプ ールの水中で皆を驚かせた彼の模索の原点でもあったといっていい一件が甦ってきた。彼が水中で取っていたであろう奇妙な姿がぼくの想像力を刺激し、この窮地に至って何か思いがけない手がかりを与えそうな予感を孕みつつ、ぼくの目蓋の裏に静かに怪しげな燐光を発しながら浮かび上がってきたのだ。ーーこれほどあらゆる試みに倦み果て、荒廃した砂漠のように干からびて萎れた彼に、もう一度わずかなりとも潤いを与えるには、あの水中の原点に連れ戻すほかないのではないか・・・。彼も言っていた、人生の始まり(いや、生命そのものの起点といった方がいいかもしれない)から自分を組み立て直すという奥底にある強い願望にとっても、もう一度あそこへ立ち返る好機なのではなかろうか? ーーぼくは、その閃きに少なからぬ自信を覚えた。いや、もうそれしか思い付かなかったというのが正直なところだ。
ぼくは、彼の噎びが鎮まるのを見計らい、説得を試みたが、彼がすんなり頷いて動きだすはずもないことは見え透いていた。ここに至って事態がそんなに楽観的に打開されるわけもなく、ぼくは、窮余の一策とばかりに蹲ったままの彼を、思いきり抱き起こした。荒修業に励み窶れ果てた人の姿にも見える彼を、陽光が燦々と降り注ぐ長閑なプー ルサイドに連れていくのは、思い付いたばかりにはいかにも場違いのことのようにも感じられたのだが、彼の姿にはあまりにも相応しすぎるこの荒んだ薄暗くじめついた部屋に放置することは、さらに底なしの深淵に見放すことになってしまうようにも思われたのだ。さてひどい苦労の末、 彼をプールサイドにまで運んできたはよかったが、髭ぼうぼうで髪を搔き乱した彼が白く滑らかなタイルの上に胡座をかき、躰を震わせる姿は、たちまちのんびり寝そベっていた人々に耐え難い不安を惹起することとなった。日光浴にうたた寝をしていた人がそれとなく身を起こし、出口の方に消えていくのを見ながら、ぼくは淡い後悔に苛まれつつあった。そうして一人消え、二人消えしていくプールサ イドにとり残される孤立が際立つほど、ぼくは自分の思いつきの見当はずれに、いよいよ自らを責めないわけにはいかなくなった。やはり彼を連れて帰るべきかと諦めかけたとき、プールサイドの向こう側で、じっとこちらに注目し
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ている若い女の存在に気付いた。女は、黒い大きなザングラスをかけているので、その顔立ちは正確にはわからなかったが、まるで真紅のゼラニウムの花畑を眺めているほどにも目を眩まされそうな鮮やかな紅の水着と同じ色彩の口紅をつけているところから、相当に派手な自己主張の欲求を内に秘めていることは容易に読み取れた。赤みを帯びた長い髮をぬるい風になびかせ、程よく日に焼けた肌の胸の膨らみを無言のうちに誇ってみせるその女の姿は、男心をそそる魅力に存分に溢れているように見受けられたが、そんな女が、他の男には目もくれずに、身を乗り出して超新星を凝視するのがとりわけ妙にも感じられた。彼は、そんな女の存在を全く気にもかけず(見向きをするゆとりもなかったといった方がいいかもしれないが)これほどあけっぴろげな晴天の下でも頑なに自分の殻の中に閉じこもり、 躰を固くして全身をわななかせ、彼の最も重大な問題の一 点に全神経を集中する様子だった。その奇妙な光景に、プ ールの監視台の上にいた係員さえ、居心地悪そうに向こうの観覧席の方に行き、遠目にこちらを窺う有様だった。プールサイドには、もはやぼくと彼、そして女の三人しかおらず、向こう側から女が彼を見詰め、それを傍からぼくが眺めているという不思議な三角形の緊張した構図の静まりが、がらんとしたプールサイドを支配していた。湿気をたっぷり含んだなまぬるい風が三人の間を吹き過ぎ、鏡面のように澄んだ水面にさざなみを立てたのが、唯一動くものの影だった。ぼく自身も緊張に汗を滲ませ、躰が震えてしまうのではと息詰まる苦しさを覚えはじめたとき、向こう側の女が、獲物に狙いを定めるライオンの慎重な姿さながら這って動きだし、ゆるゆると水に浸ってこちら側に向かって泳ぎだした。女は、何かのサインを込めて水音を正確に彼の心に打ち込もうとでもするふうに、粘っこい音を立てて水面を規則正しく叩き、彼の方に徐々に近付いた。女の彼への接近は、見るからに違和感を抱かせ、掌に汗を滲ませる緊張を高めずにはおかなかった。ぼくにとってこれほど劇的な(おそらく彼にとってもそうではなかったか) 場面に遭遇するのは、彼が急に突飛な姿勢を取り、招いた無数のハプニングの中でも、初めての出来事のようにも思われた。女は、傍にいるぼくの緊張などとは裏腹に、躊躇わず彼の蹲る足元のプールサイドに泳ぎ着き、つかまると、濡れた長い髪の頭をブルブル振り、水滴の音を響かせた。しかし彼は、そんな誇示的ですらある女の接近にも頓着する素振りさえ見せず、相変わらず極度に強張らせて小さく丸めた躰を小刻みに震わせ続けた。女はしばらくプールサイドにつかまったまま、憧れの対象をうっとり眺める仕草でその濡れた大きな眸で彼を見上げ、躰をたゆたわせていた。水に美しい影を落としたほどよい滑らかさの女の顎の曲線は、細長の整った顔形を際立たせた。近くで見ると鮮紅色のいっそう眩しい厚めの口唇は微かに開いて白い歯を覗かせ、もし彼の目にそのどこか淫靡な雰囲気を漂わ
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す姿が入ったら、せっかくの集中を台なしにしてしまうのでは、と危うさを感じさせるほどだった。
まもなく女は、敏捷な動きでプールサイドによじのぼり、濡れて輝く眩しい細身の躰を現した。さらに躊躇いもなく彼に接近すると、彼の小刻みな震えに合わせ頭を細かく揺らしはじめた。女は、最初は控えめに、しかし徐々に大胆に、彼の震えに共振するように躰を動かしていったのだが、彼女の優れた反射神経のせいもあったか、その共振の見事なまでの一致は、つがいのアホウドリの完璧な飛翔の美しさを連想させたほどだった。ぼくはそのとき、かつて彼が、美人の同級の女生徒に催眠術をかけてしまったきわどくもある事件を思い出し、すると彼には元々そんな天性の才能のようなものが備わっていたのではなかったか、 とまた新たな一面を見せられたような気もした。ーーブルッ、ブルッ、・・・ルルル・・・ブルッ、ブルッ・・・それにしても、リズムの妙さえ感じさせる、なんという見事な協調 運動だろう! 女はもしかしたら、彼の躰からわずかに発する波長を敏感に察知して共振しはじめたごく稀な同類だったのではなかろうか? ・・・しかし、彼を深く理解し、真に共鳴できるのは、ぼくのように(いや、ぼくたった一人といってもいい)何年来ぴったり寄り添い体験を共にしてきた者のみではなかったか。にもかかわらず、たった今出会ったばかりの女に、まるでつまみ食いでもするようにあ っさり彼と共鳴したような顔をされ、奪い去られることに強い危惧を感じた。そう、ぼくはまったく思いもかけなかった激しい嫉妬の感情に揺さぶられる羽目になってしまっ たのだ。マッタク、ボクタチノ間二、想像モツカナカッタ 〈恋敵〉ガ現レルトハ! どちらかといえばこれまで冷静に見てきたはずのぼくの方が、今やひどい動揺に苛まれつつあるとは。しかし、忽然と現れた〈恋敵〉は、ぼくの焦燥になど頓着する様子もなく、いやそれどころか、煽動者のわずかな仕草に敏感に反応してヒステリーの嬌声を発しはじめる群衆の熱狂を想わせる仕草で、彼の気を引くあからさまな身のくねらせ方を始めたのだ。しかし、今までにない窮地に陥っていた彼は、さすがに女の派手なアピール に対しても、軽薄な同調者を無視するとでも言わんばかりに、自分の内界の〈仕事〉に没頭し続けた。が、女の彼に迫る勢いも相当なもので、彼に無視されるほど積極的になり、なりふりかまわず窮屈に躰を捻らせ、彼の震えに合わせて全身を戦かせた。
今や眩しい陽光に堂々と晒されたまばゆいばかりの女の身体が作る奇異な動きを見るうち、ぼくは思いがけない符合に目を瞠った。・・・なんということだろう! 例えばこの動き、天に向かって躰全体で伸び上がり、両腕を悠然と開花のように広げつつ徐々に優雅にも垂れ下がらせていく仕草は、どこか彼が強い憧れを込めて語っていたベンガル菩提樹の聖らかな雄大さを表してはいないか・・・そして腕をすぼめつつ前屈みになり、頭を思いきり胸に付けるよう
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にし、徐々に上体を捻り、斜め下方に突出しようとする動きは、彼が苦難の末到達した産道から正規の回旋に従って娩出されるときの捻転を想わせもする・・・さらにいったん地べたに蹲り、ゆるやかに狭い管の中でも這い上がるように起き上がり、微妙に躰をくねらす巧妙さは、彼があれほど羨望さえ抱いている、絶滅してもなお不朽の完璧な形を誇示しているマンモスの牙を暗示していると読み取れはしないだろうか? ・・・そんなふうにこれまでの彼の暗中模索をたちどころに翻訳できそうなほど、女の身のこなしは適確のようでも、また洗練されているふうにも見えた。ここに至ると、さすがの彼も、女を無視し続けるわけにはいかずーーいや、髙ぶった女の激しい動きが、逆に彼に影響を及ぼしはじめたといった方がいいかもしれないーーひたすら苦悶するばかりの痛々しい躰の震えが、何やらリズムに乘って規則正しく律動しはじめるようだった。傍らで身を震わす女の動きとそれは調和しているふうにも窺え、がらんと静まり返ったプールサイドで信じ難い眺めを作り出した。ぼくはこんな光景に出会ったのを幸運と思うべきかどうか覚束なかったが、おそらく語ったところで誰も信じな いであろうこの光景に秘められた深い事情を知っているぼくは、また一 つとてつもない秘密を彼と共有することになるのは確かだった。
彼は、女の挑発的な身振りに強い閃きを得たとばかりに今まで見せなかった姿勢に身を捩り、確信めいた仕草で次々と強いポーズに躰を硬直させた。一見険しくも見える彼の横顔も、最初の恐いほどの硬直した表情からは隔たって、どこか恍惚となった精神ののびやかな伸展さえ窺えそうでもある。ぼくにそんな新たな予感の戦きさえ呼び起こすところからして、彼の内面には、長年の苦渋に充ちた問題に対する共感者を得た喜びが、さぞ溢れ返っているにちがいないと勘繰りたくなったほどだった。彼の振り上げた脚の爪先が宙を叩くその軽やかさ、俯き加減の姿勢から捻り起こされたその胸、肩先、そして目をカッと見開いたその姿は、今までになく自信に充ちて凜々しくさえあった。するとぼくの中に、熱い鮮血が溢れる勢いで期待が込み上げてきた。ーー見ヨ、彼ノ全身二回復ノ兆シガ溢レテイル ノガ窺エハシナイカ? あらゆる病の兆候(長く不快な沈鬱、苦しみ、当てのない閉塞感、救いのない不安)が急速に薄らぎ、閉鎖病棟の重い扉がパラパラ赤錆のこぼれるきしり音を立てながら開かれ、執拗な拘束から解き放たれていく感じ、あの治癒を告げられて退院を迎えたときの何ものにも換え難い生きているという躍動感が、彼の周りには 溢れてはいないか?
ぼくは、彼がこれからいっきょにどのような変身を遂げるのか、眩しい陽光の中にその無数の可能性の断片がきらめきだすのに浮き足立ちはじめた。思えば彼は、長い陰湿なトンネルの中で、十五年以上も(あるいは彼にとってはもっと長い年月だったかもしれない)煩悶し続けてきたの
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ではなかったか。それが、いよいよ向こうに小さな点の光が射す脱出ロを見いだし、自由の中に踊りだそうとしているのかもしれない・・・。ここまで必死で彼にしがみついてきたぼくも、危惧の念から解放され、いよいよぼく自身の暗い腹の底に蟠っていたものまで癒される時が間近に迫っているのではないか? そう、あの包丁の刃先がぼくをも巻き込んで、深くどこまでもチーズの中にめり込んでいく ようだったのが、ついにスパッと切り抜けて鮮やかな切りロを見せてくれる機会が訪れたのではないか? ・・・ところ で、その脱出路を潜り抜け、甦った彼の姿とはどんなふうになるのだろうか? そして、ぼくとの友情は? 躍り上がった心の中を、たちまち一抹の不安が駆け抜けた。 ・・・超新星の危うい、しかし他には類を見ない輝きを放っ てきた彼が、もし、本来の〈回転〉を手に入れ、取り逃がしたはずの自分の鋳型にぴたりと収まることができたら ・・・? その瞬間、彼は、満面に笑顔を溢れ返らすのだろうか? いや、むしろ、皮肉なことにもたちどころに輝きを失い、それこそ生きながらの破滅を迎えるという思ってもみなかった苦境に立たされることになりはしないか、まさに〈超新星〉の運命そのままに? ・・・ぼくは、彼のあまりにもの変化をどう捉えていいのか戸惑う一方で、その底には、いつの間にかなくてはならない存在になってしまった彼を喪うのではないか、というぼく個人の惧れがあることも打ち消すことはできなかった。すると、〈ナラバオマエハ、実ハ彼ガ甦ルコトヲ望ンデハイナカッタノカ?〉という鋭い疑問がぼく自身の胸を突き刺すのが耐え難かっ た。・・・しかしぼくは、そんなエゴ剝き出しの不安を極力殺し、彼に対する手放しの祝福を抱く寛さを身に付けなければならないのではないか? ぼくは、ぼく自身の道を歩む独りきりの作業に、いよいよ取りかからなければならない段階に直面させられているのではないか・・・?
ぼくの不安が濃い影とすれば、今や力の漲った全身で躍動的に捻転を連続させていく彼の存在は、眩しい光の前面だった。彼と女は、一瞬毎に危険な自分たちの存在に関わる暗号の上を綱渡りしているのだ、という高らかな気分さえ振り撒きながら、緊張した身振りを連続させていった。 彼は、あるときは女の上にのしかかるふうにし、すると女 はそれを受け止めるように仰向けの格好に大きくのけ反 り、そのまま二人の躰は斜めに捻転して、絶妙のバランスを保ち続けた。その後彼がプールサイドの舗石に頭を突き、たちまち安定を失って片脚を大きく振り上げ倒れそうになるのを、女は俊敏な反射神経で違和感なく追いかけ、ついに舗石の上を転がりはじめた彼の上に覆いかぶさると、お互いの片脚が揃えてピンと伸ばされ、見事なまでに硬直したきりぴくりとも動かなくなった。その姿は、翡翠の色に澄んだプールを飾る大理石の彫像そのものとなり、 生温かい風以外は動くもののない舗石の上で、誇らしいほど自信に充ち溢れた強度で保ち続けられた。
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5 柔軟ではるかな時の彼方に
驚くべき出会いを遂げた二人が、そこで別れるはずもなく、そのまま女は彼の部屋にまで来ることになってしまっ たのだ。やきもきしたところで、これは半ばぼく自身が撒いた種でもあり、とやかくいう術もなく、結局ぼくは彼と出会って以来の疎外された苦痛の夜を、輾転反側して過ごす羽目になった。翌朝、焦燥と不安に駆られ、堪えきれなくなったぼくは、忍び足で彼の部屋の前に行った。扉の内 側から漏れてくる仔猫の悲鳴のような女の奇妙な声に脅えながら、微かに扉を開けてみたが、その声が止む気配もなかった。気力を奮い起こし、部屋に一歩踏み込むと、二人が裸のままベッドの上で絡み合う姿が目に飛び込んできて、さらにそれが昨日のプールサイド以上に異様なのに、 ぼくは愕き呆然となった。しかも二人は、ぼくに一瞥もくれずに、ちょうど机に向かって真剣に難しい哲学書にでも沈潜しているとでもいった固い顔付きで、互いの仕掛ける愛撫の一挙手一投足に集中する様子なのがぼくの驚きを増幅させた。二人は、まさにこれが一期一会か、永遠の別離の前の抱擁とでもいうふうな不気味でもある真剣さで愛撫の感覚に全てを研ぎ澄ますようだった。彼のやや硬直した指が、女の項から胸元へ滑り降り、その小高く盛り上がった胸の膨らみへ達し、今度は機械の関節のぎこちなさで、その弾力を測るようにまさに突くところだった。彼は、地底探索の研究者が新発見を求めて胸をときめかすときの顔になって、あちこちの角度から似たような行為を繰り返した。ぼくは、彼に膨らみを押されるたびに、赤い頭の小鳥が求愛する姿そっくりに頭を傾ける女の小さな乳首の動きのおかしさに目を奪われていた。そうして女の乳房を探る彼の顔は、天真爛漫にさえ見えてきて、案外彼は、長年の苦しい模索を克服して、雲海を突き抜けた天上の自由を謳 歌しつつあるのではないか、という気さえしてきた。・・・しかしそう簡単に事が運ぶと考えるのは早計なことを、次の瞬間険しく引き締まった彼の顔に、ぼくは思い知らされることになった。ーー女の乳房を繰り返し突いていた硬直した彼の指が、まもなく女の肌の上を静かに滑りだし、何を思ったか、その指はちょうど子供がピストルの形を真似 て遊ぶときの形を作り、一番下の肋骨の縁を過ぎ、左脇腹の脾臓の下縁がのぞく辺りを目がけて強く突き立てられた。人差し指の先は、深く女の脇腹に食い込み、女は反射的に上体を大きく傾けて驚きと苦しみの呻きを思わず漏らした。が、そこに彼の突然の行為に抗議したりする意味合 いは感じられず、強く抑制された忍耐の気持が滲み出していた。彼は、人差し指を女の脇腹に深く突き立てたまま、さきほどの乳房のときよりもさらに貪欲に指の向きをあちこち変え、女の深部に秘められた何ものかを夢中になって探る様子だった。戯れめいたその仕草に、ぼくは吹き出しそうになるのを堪えながら、一方では、どうして彼だけに
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こんなふうに若い女を自在に自分のーつの目的だけに付き合わせることが許されているのかと、意地悪に問い詰めてみたい衝動にも駆られた。しかし、彼は一瞬の隙も見せるはずもなく、むしろ彼が繰り返すその細やかな仕草を見せつけられていると、女の奥深い闇の中から何やら燐光を放つ不思議な形態が浮かび上がってくるようにも見えるのが妙だった。するとぼくは、そこに彼の新たな光明を見たような気がした。ーー彼はかつて外科医まで受診して執拗なほど自分の内部に拘らざるを得なかった狭い檻から解放され、他人、しかも女の宇宙の中に自分を探る少し広い(いや、彼にとってはかなり広大な)活路を見いだしつつあるのではないか・・・
傍らのぼくのそんな興奮をよそに、彼は相変わらず引き締まった面持ちで、女の左脇腹に突き立てていた指を 、徐々に腹の真中に滑らせ、間もなく淡く光る産毛が疎らに周囲を覆った臍窩の近くに達した。するとその指先はさらに臆病になり、臍窩周辺のわずかな襞の盛り上がりに沿っていつまでも巡り続けた。その際限ない拘りを見ていると、ごくありふれた女の臍窩でさえ、何やら急に雄大なイオウの蒸気が立ちこめた火山の噴火口の陥凹のようにも想 われてきて、するとさらに彼の指先は、擂り鉢型の火口を下り、地獄の底を巡る長く苦しい旅に発とうかどうか逡巡している迷い人の気持を物語りだした。さらに彼の指先の細やかな動きは小鳥の柔毛を撫でるほどにも繊細になり、強い思い入れと執着が露になった。・・・いったい彼の中にはどれほどの新たな予感への戦きが惹起され、どんな思いが駆け巡っているのだろうか? 人生の最も始原の胎盤との唯一の重要な連結部分が惹き起こす想像は、果てしなく時を遡りながら、再び内臟の奥深くの柔軟ではるかな時の彼方にまで、途方もなく拡がりつつあるのではないか? ・・・それにしても普通、女ならば、自分の臍にこれほど思い入れたっぷりに拘泥されたら、強い拒絶を露にするか、 こそばゆそうに身を捩って笑い転げそうなものだが、この女は無言で口元を引き締め、彼の一いちの仕草をじっと見据えた。そんなふうに息のぴったり合った二人の姿に、改めてぼくは疎ましさを禁じ得なかったが、充血した眼差しで臍窩を窺う彼の横顔に圧されると、そんな湿った感情も消し飛ばされた。間もなく彼は、それまで躊躇いがちに臍窩の周りを巡らしていた指先を、意を決したように内側に進めた。が、たちまちその指先は静止し、彼はさらに深く考え込む様子だった。・・・その尋常でない瞑想の様子から、もしかしたら彼の思いはすでに皺しわに折れ曲がった臍の緒を辿り、胎盤の柔らかい絨毛からほの暗い胎児の夢の中にまで紛れ込むことに成功しているのではないか。久々にそんな胸をときめかす思いに誘われたせいもあったか、ぼくの目の前にいる裸の若い女が、御伽噺にでも出てきそうな白蛇が化身した妙な生き物に変わって見えもした。
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ーーシカシ、ナントイウコトダロウ! ぼくが勝手な想像を弄んでいる暇もなく、彼は聖らかな厳かさに圧倒し尽くされてひざまずく姿そのものに女の下腹、ちょうど子宮の上あたりに深く顔を埋めてしまったではないか! ・・・さ らに女の下腹に深く顔を埋め、親愛を抱くものに愛情を擦り付ける仕草で首を滑らかに何度も左右に動かした。それほど強く、熱く、顔を押し付けられた女は、のけ反り気味に天空を仰ぎ、頭をやはり左右に滑らかに振った。女は、愉楽の陶酔に浸っているようでもあるが、それよりむしろ 彼の思いが伝播して、同じ夢想の中を漂泊しているようでもあった。そうして彼が女の下腹に顔を埋め、ゆるやかに首を揺する時間のたゆたいは、思いの外長く単調に続くようにも感じられた。・・・ぼくも、少し緊張から解放されて 肘掛け椅子に深く腰を降ろして二人を眺めるゆとりを取り戻した。ーー遠い昔にむさぼった胎内での夢をしゃにむに取り戻そうとでもする彼の焦りを見ていると、ぼくはかつて幻想画の中に見た、生まれ落ちた仔犬を包んだ胎囊の皮膜(それは濡れたオブラートのようでもある)を想わせる薄膜に包まれた逢引する裸の男女の、周囲からは隔絶されたより濃密なエロスの情景を思い浮かべた。するとさらに、躰を丸めこんだ彼の姿に、かつて彼が透明なプールの 水中で逆さまになって皆を気味悪くさせたほどの生命の原初の生々しいイメージを抱かせた迫真の仕草が浮かぶようだった。執拗に女の下腹に顔を擦り付ける彼の仕草がもどかしそうに見えてきて、〈彼は、おそらくこのまま自分がいっそ胎児になって女の子宮の中に潜り込めたらと焦れているのではないか?〉という思いに飛躍するのに我ながら驚いた。・・・一方、彼のもどかしさに応えるように、さらに激しく首を左右に振り、懸命に歯を食いしばってシー ツを握り締めている女は、どこか陣痛の呻きを上げる姿を想わせもしたが、それも、本来胎児を娩出する喜びの混じった苦しみの姿であるはずが、胎児となった彼を飲み込みたがっている妙な足搔きのようにさえぼくの目には見えてきた。ーー陣痛トハ逆ノ、彼ヲ飲ミ込メナイコトニヨル苦 痛ノ呻キ! ーーもしそうだとしたら、なんと皮肉でもある 痛ましい苦しみだろう。それかあらぬか、彼の顔も上気して赧く染まり、ないものねだりでもするふうに彼女の下腹へ擦り付ける頭の動かし方が激しくなった。それは単なる時間を遡ろうとする悪足搔きではなく、あの彼の生まれる際の正しい回旋を獲得し直そうというとてつもなく困難な、しかしまるで天命とでもいうふうな強い衝動に裏打ちされた悪足搔きだった。まもなく、必然的に、彼の顔は女の最も奥深い闇に通じる敏感な領域に、今までにないくらい強く押し当てられ、必死でもがきはじめた。彼の激しさに、女も堪え切れなくなり、これまでにない悲痛な声を漏らした。彼の全身に脂汗が吹き出し、頭や躰全体の動きがさらに激烈になるにつれ(やはりあの産道での回旋を想定しているのは明らかなようだった)女の上げる声は極ま
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り、湿った部屋の空気を揺るがした。
ぼくは、今まで見たこともない彼の姿(いや、この光景全てが生まれて初めて出会った驚きに充ち溢れた光景といっていいかもしれない)に息を飲んだ。それでもさらに彼は、内側に長年鬱積した感情の発露を押さえきれないとばかりに身をよじらせ、女の上に覆いかぶさった。そのとき瞬間眼前を過った彼のペニスは、赤黒く充血してはち切れそうになるほど勃起しており、それで一個の独立した凶暴な動物の、毒液を滴らせる牙を剝き出した赤裸々な姿をぼくの目に叩きつけた。その突出した生き物を、さきほどあまりにも彼が顔を擦り付けて灼けただれたように靡爛している女の核心の器に向かって、彼は容赦なく突き立てた。そうしてぼくの眼前で実現した彼と女の交わりは、さらにぼくの想像の境界を突き崩し、網膜の奥深く脳髄までジワジワ熱く充血させた。彼は、女と交わったまま宙空に向かって斜めにせり上がった上体を、ひときわ激しくくねら せ、さきほど女の奥に遡れなかったもどかしさを解消しようとでもするふうに激しく悶えさせた。彼は、ついに 願っていた魂を呼び込み至福に達したとでもいわんばかりに首をくねらせ、上体を波打たせながら縦横に身を揺さぶり、その歪められた口唇からは発情した牡猪の奇妙な唸り声を発した。頭から全身に植物油を浴びせたほどに濡れ光ったその躰が夢中でくねらされる姿を見ていると、思わずさきほどの彼の凶暴でもあるペニスの姿を重ねて見ずにはいられなかった。いや、その姿はむしろ、破水したばかりの胎内の潮にまみれた新生児というべきか? ・・・すると彼が上げていた悲痛にも聞こえた叫びは、実は産声にも匹敵するものではなかったか? ああ、もしそうだとしたら、ぼくはなんという瞬間に立ち合っていることだろう! ・・・ぼくは彼を祝福すべきなのか、この場に立ち合ったことを幸運と感謝すべきなのか、いずれにせよ高まり過ぎた興奮を押さえる術も見いだせそうになかった。が、ぼくに 戸惑いの暇など与えず、彼はさらに熱く自分に引きこもり、複雑な仕方で上体をくねらせた。それは、彼がこれまで長年かけて模索してきた複雑な回転の仕方を、一つも間違えずに順に滑らかにこなしていく熟練された見事な舞いにさえ見えてきた。彼は、さらにさきほどよりも強く上体をたわめてのけ反らせ、辛苦の末にようやく掴んだ彼自身に固有の座標の手応えに至上の喜びを感じるといわんばかりに陶酔の滑らかな身の動かし方に浸りきった。そしてまもなくその極みで訪れた彼のオルガスムの激しさは、どんな狂騒の叫びにも劣らないほどの甲高い絶叫とともに部屋 一杯の空気に響き渡り、厚い壁をも震わせた。それから氷の海に鯨から噴き上げられた壮大な潮をも連想させる長く大きな叫びを発すると、彼は急速に萎えて女の上にくずおれていった。
・・・たった今まで部屋の空気の中に脂汗の熱気が充満し、傍らにいるぼくにも汗を噴き出させた緊迫感が噓のよ
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うに去り、冷えびえとした朝霧の冷たさがあたりを支配していった。思いがけないほどの彼の背の静まりを見ながら、ぼくは微かな安堵を抱き、かつまた徐々に不安が蘇る複雑な気持に陥っていった。・・・これでまがりなりにも (いや、彼にとってはそんなことではとても納得できないのだろうが)彼のライフサイクルはいったん原点に立ち返 り、再出発が可能になったのではないか・・・? いや、そ れはまたしてもぼくの楽観的に考えたくなる思いから生まれた壊れ易い産物にすぎないのだろうか・・・あるいは彼に対する強い祈りから生まれた錯覚か・・・さもなければ、ぼく自身が救済されることの身勝手な願望の表れという不純な代物だったのだろうか・・・。いずれにせよ、今度彼が躰を起こしたときには、今までからは見違えるほどの姿となって甦り、その前で小躍りして祝福を捧げるぼく自身の姿が目の前にちらついて仕方がないのだが・・・
6 思いもかけなかった処
翌日、彼の部屋の扉を開けたとき、あの女が消えた部屋の真中にくずおれている彼の姿に、ぼくはたじろいだ。昨日あれほど半欠けの茶碗や、古い木椅子や、朽ちかけた板壁まで彼と女の間に噴き出した瑞々しい汗を吸って甦るようだったのが、一転、何もかもが干からび、萎んでいた。とりわけその中心で捻り殺されたような無理な格好で逆さまに倒れている彼の姿は、長い間消毒液に漬けておいた屍ほどにも皮膚の色が変わり、肉がこそぎ落とされ、たった 一日の変化とは思われないほどの変わりようだった。あのあと女といったい何があり、どうして彼がこんなに変貌してしまったのか知る由もなかった。しかしこうなってみると、あの女は、やはりいかさまめいた韜晦の魔術を心得た食わせ物だったと悔しい思いに苛まれたり、さらにはあの女が実際存在したのかさえ心もとなくなってくる有様で、 強烈な幻覚剤でも飲まされて数日譫妄の中を漂っていたのではなかったかと疑われるほどの不快な眩暈がぼくを襲ってきた。そんな混乱に足元からぐらつかされると、ぼくが 強引に彼をプールサイドに連れていった以前よりも、さらに込み入ったところに彼は陥り、もうぼくの力ではどうにもなりそうにもないという手詰まりの気分が心を覆い尽く した。《シマッタ、コンナフウニ裏目二出ルナンテナ・・・もし彼が完璧に行き詰まり、あれほど長年かけてきた自分の根幹に関わる探究を放棄せざるを得ないところに追い込まれるのだとしたら・・・? 希望が微かにでもあるうちはまだよかったが、全てが喪われたとなっては・・・いや、そんな常識的な同情を受けつけないほど、彼は彼自身の見いだした隘路を極め、次元の異なった境地に身を潜め、外見とは隔たった内界の自由に至る一歩手前の深い思惟の中にいる、と読み取れなくもないのだが・・・》とはいうものの、単に身体の状況だけからしても、今度ばかりはぼくが楽観的に思い描いていた心身ともに〈健全〉な若者として
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甦った輝き渡る彼の姿からは今までになく遠く隔たってしまっているのではなかろうか・・・。
ぼくは、瘦せた彼の背側から肋骨の浮き出た胸の方に回り、投げ出された腕を引き上げて彼の顔を窺った。あの女と交わっていたときの赧く上気した顔が恍惚の頂点とすれば、今は迫害されどん底に追い詰められた殉教に身を投じる聖者の顔を想わせるほどの変わり様だった。さらに、落ち窪み、弱々しく脅えたような眸に合うと、思わず死顔に直面したときの不安を想起させられてしまった。彼は生きていながら(いや、彼ほど激しく生きている人を他に知らないといっていいくらいだ)、死顔の最も固有かつ強烈な性格といってもいい、目前にいながら果てしもなく隔たって感じられる絶対的な疎遠の印象を突きつけ、その乖離の 大きさでぼくを面食らわせた。・・・キミハ、超新星ノ最期 ノ華々シイ輝キヲ身二纏イナガラモ、実ハ甦ルコトヲ深ク望ンデイタノデハナカッタカ・・・? ぼくが彼の姿を訝しみ、なお再生の芽を探ろうとするのに、彼は一瞬眩しそうに目を細め、閉じてしまうと、瘦せ衰えた四肢をきつく縮こまらせ腐葉土の中の昆虫の幼虫ほどにも小さく丸まってしまった。ぼくは、無残なほどの姿の彼を荒っぽく揺すり、それでもいたたまれず、その瘦せた背を押すと、丸まった躰は床の上で半回転し、鈍い動きで横に倒れた。折り曲げられた腕の上膊部の隙間から、彼は、涙の滲んだ目をぼくの方に向けた。しかし、懸命にぼくに何かを訴えようとしていながら、ロからは苦しげな音が漏れるばかりだっ た。ぼくは耳を聳てたが、人生の終末に向かっていく人の口唇から漏れる唸りを想わせる虚しい音しか聞くことができなかった。そのとき、彼は白蠟のように変わってしまった指先を細かく震わせ、ぎこちない動きを繰り返した。その指にペンを握らせ、紙を近付けると、折れ曲がった拙い 文字で書きはじめた。
〈かつてぼくは、自分をばらばらにして組み替えていると言ったよな。・・・ようやく躰の捻り方を解き明かして、ぼくも本来のぼくにまとまれると期待を持った・・・ところが、そこは思いもかけなかったようなところだ・・・なんとも! まったくひどいところだ〉
力を振り絞って書いた彼の目からは、血の色が混じった涙が溢れ出した。「どうしたというんだい? きみはどんなところへ紛れ込んだというのだ?」ぼくは、懸命に彼の耳元で叫んだ。
〈殺伐としたところさ・・・灰色なんてもんじゃない。色と名のつくようなものは一つとしてありはしない・・・とんで
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もないところに嵌まり込んでしまったものだ。もう足搔こうが、躰を捻ろうがどうすることもできない・・・とりあえず長い沈黙を守って、脱出の糸口にでもなるようなものが沈殿してくるのを待つ外ないだろう・・・きみと言葉を交わすのも、これが最後・・・いや、長い時間が経った後にはまた・・・できるかもしれない〉
「おいおい、そんなことは言わないでくれ! ぼくはいったいどうしたらいいんだ?」
〈すまない・・・たしかに何もせず、死後硬直みたいに躰を 強張らせたまま時をやり過ごすだけで何になるだろう? ・・・しかし、今のぼくに確かに感じられるのは、時間の虚しさ以外にはない・・・いや、それすらも実感できない・・・なんということだ・・・しかし、ぼくをそっと一人にしてお いて〉
悲痛な文字をかろうじて書きつけた彼は涙を溢れさせ、 崩れた潰瘍のようになった眼を瞬かせた。《ヨウヤク捻転ニヨッテコジ開ケタ世界ガ、想像モツカナカッタ茫漠トシタトコロダッタナンテナ・・・ひどい! 何もかもを犠牲に して、抜け出せそうにもない最も複雑で苦しい落とし穴をわざわざ模索していたなんて》蹲る彼の姿は、途切れがちな文字がはからずも浮かび上がらせた荒寥とした原に一人で佇む彼の心象風景そのままだった。頰の落ち窪んだ横顔 は、濃い影が顔の半分を抉るように深い陰翳を刻んでいた。カーテンの隙間から漏れる淡い紫色の光が、さらに人間離れした原始生物の姿に染め上げるようだった。ーーああ、ぼくを独りにして置いていくなんてひどいじゃないか! 四方八方を、見えない膜に覆われ今まで吸ったこと もない嫌な気体に取り巻かれてしまったような息苦しさだ。どうやったらここから這い出すことができるんだ? ーー畜生、こんなことになるなんて! «サア、オマエモ イヨイヨノッピキナラナイトコロへ追イ詰メラレル羽目二 ナッタンダ》・・・どこか必死で嗤いを堪えているのがわかる低声が、ぼくの耳元に囁きかけた。ぼくは焦りを感じ、 夢中で彼に追いすがろうとした。しかし、足元に蹲る彼は、くすんだ灰色の岩そのものだった。《マッタク! かつてチーズにめり込んだ包丁の刃先が、すっぱり切り抜いて鮮やかな断面を見せてくれるかもしれないなどと思い描いていたこともあったなんてな》・・・ぼくは、ずぶずぶと無限にめり込んでいく包丁の刃先の不安な感覚に見舞われた。・・・ぼくは無我夢中で足搔き、なお懸命に彼にすがろうとした。すると、濃い宇宙の闇を思わせる漆黒の彼方へ 急速に遠ざかっていく〈彼〉の影とかろうじて重なり得たようにも感じた。が、ぼくの胸元から流星の閃きとも想われる淡い光の塊が勢いよく飛び出し、濃密な闇の彼方へ逃 げ去って眩しく輝きだした。原色の光が入り混じったその珍しい輝きは、やがて大きく膨らみ、眩しい白色光を放つとたちまちのうちに弾けて喪われていった。・・・藍色の闇に残されたぼくは、〈彼〉が消えた彼方の淡い残像を力な
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く眺めながら、拠り所をふいに喪った衝撃に飲まれていった。その場を右往左往するうち、ぼくの内には苦い悔みと入り混じった思いが湧いてきた。・・・今にして思えば、彼ほど一見奇異でありながら、傍目をはばからずに自分にと って親密であることのみに集中し、自分自身にとっての常識さえばらばらにパズルの断片にまで分解してみせ、その結果はるかに遠い境地にまで到達し、日常の気だるさを内界の高揚にさえ転化してみせてくれた彼が、ぼく自身の願 望、ぼくの似姿、ひいてはぼくそのものでなくていったい何であったろうか? ・・・凍りついたように足を止め、〈彼〉が消えてにわかに自分自身の鏡像と向き合わされたぼくの眼前に、淡く光る雄大な影が映った。それは、はるか天上の彼方を指し示し、大きくたわめられた象牙の柱を想わせた。根方の方は闇に飲み込まれ、徐々に稜線を張り出しながら大きな弧を描き、天頂の方向に吸われるように聳え立つ厳しくもある姿。その形に、ぼくは〈彼〉が最も強い輝きを放っていたあのプールサイドでの姿を想起させられ、 いまさらながら歯痒い思いに捕われた。しかし今はもう、そんな悔やみを言っていられるような状況ではなく、その象牙の柱が、いよいよぼくにとっては不可避の存在で あるかのような力強さで眼前に拡がっていた。・・・オマエハ、傍観者二留マル疾マシサヲ免レタハイイガ、イツノマ ニカ〈彼〉ニモ劣ラナイ険シイ崖ッ縁二立タサレテイタトハナ・・・瑞々しいほど滑らかな表面さえ見せた象牙の柱に正面から立ち向かおうと試みたが、その巨大な幻影は軽く身を翻し、濃密な闇の奥に静かに飲まれてゆき、跡には蛍火のような残像が漂った。たった一人、足元がかろうじて見える狭い場所に残されたぼくは、やむを得ず絶望的に自らを鼓舞し、冷たい床に手を突いて慣れない倒立を試み、 無器用に躰をたわめる悪戦苦闘にとりかかる。
(了)