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クリスマスストーリー2020  神の代理人PART2

 2020年末から2021年にかけて、聖ニコラスが死んだという噂が世界中を駆け巡っていた。


 ちょうど、紀元1年頃、地中海世界を牧神パーンが死んだという噂が駆け巡ったのと同じだった。この噂は、イエス・キリストが生まれ、人類の素朴な自然崇拝=動物神信仰が、キリスト=人間=一神教へと移ったことの象徴でもあったと理解されている。
 しかし一方では、パーンの属する半人半獣の一族の内、最も賢いといわれたシーレーヌースが、哀れな人類に語った、次の言葉を具現したとも言えるだろう。
「この世の最善なことは、生まれなかったことだ。次善は、直ちに死ぬことだ」
 こうして、パーンは紀元1年頃に地上からいなくなったのだが、それから2019年経った2020年末、今度は天上界の聖ニコラスがいなくなった。

 聖ニコラスは、一体どこに行ったのか?ヨハンの姿に同化したまま、地上界で心身ともに消滅してしまったのだろうか?
 実は、聖ニコラスは天上界に帰れなくなっていたのだ。ヨハンの身体から抜け出せなくなったため、聖ニコラスは地上界に留まらざるを得なくなり、またヨハンは心身ともに聖ニコラスそのものへと変身していたのだった。

 聖ニコラスは、ちょうどクリスマスということもあり、そのままの姿で地上界のサンタクロースの役割を演じ続けることにした。市場で、レストランで、大通りで、彼の姿は、実は本物そのものなのだが、サンタクロースのコスプレをした風変わりな老人として、その地域で知られるようになっていった。
 聖ニコラスも、初めのうちは、自らのサンタクロースとしての役割を演じ、またその役割に相応しい言葉を述べていた。しかし、クリスマスも終わり、年の瀬を迎える頃になると、天上界から地上界にわざわざ降りてきた本来の使命を改めて自覚することとなった。そして、街頭でかつてヨハンの姿を借りて話したことと同じものを、再び話しだした。

「みなさん、過度に病気を恐れることを止めましょう。もっとも恐れなくてはならないのは、自分たちで自分の首を絞めることです」
「人は一人だけではけっして生きられません。人と人は、話したり、抱き合ったりして、喜びや悲しみをともに分かち合うことで、本当に幸福に生きられるのです」
「病気が心配だからといって、人と人とを無理やりに引き離したり、人同士の交流を妨げたり、移動の自由を制限してはなりません」
「人は、神の愛よりも他人との愛によって生きているのです。そして、他人との愛は、お互いが言葉を交わし、お互いの身体が触れあうことでしか分かり合えないのです」

 今度は、そのサンタクロースの姿から、歩みを止めて聴いてくれる人も何人かいたが、それでも賛同を得られたのは、厳しい規制で職を失っているレストランのウェイターたちぐらいだった。そうして、数十人規模の失業したウェイターたちに聖ニコラスが囲まれて1時間程経ったとき、近くの警察署から警官がやって来て、聖ニコラスを精神病院に収容してしまった。聖ニコラスは、地上界の狂人にされてしまったのだった。

 聖ニコラスは、他人に危害を加える恐れはなかったので、大部屋に収容された。その最初の夜、患者が寝静まった頃、大部屋の窓に一条の鋭い光が差し込んできた。その光は、窓から室内に入ると、大きな光の輪となり、寝ている聖ニコラスをそのまま取り囲み、空中に持ち上げ、あろうことか、そのまま窓ガラスを通り抜けて外に運び出してしまった。
 この光景をたまたま見てしまった同部屋の患者ヨルゲは、翌日、事の次第を医師にできるだけ正確に報告した。医師は、ヨルゲの病状が悪化したと判断して、より強い向精神薬と鎮静剤を投与して、口を閉ざしてしまった。
病院では、警察に対する説明に困り、「自称ニコラスという収容患者は、夜半院外に逃亡した」ということのみを報告した。

 一方、聖ニコラスは、その光の輪に載せられ、地上界から天上界へ移送されていた。ところが、天上界に着いた時、その「光の輪」が何かの手違いで聖ニコラスの身体に作用してしまい、姿が変化してヨハンのものとなってしまったのだ。

 聖ニコラスは、自分の身体がヨハンの姿に留まったものの、天上界が自分を救出してくれたことに感謝していた。そして、天上界の支配人格である聖マイケルにお礼を述べる機会を得た。
「この度は、天上界へ救出いただきまして、誠にありがとうございます」
聖ニコラスは、聖マイケルに対して頭を下げながら、丁重にお礼を伝えた。
「君は、今回とんでもないことをしてくれたね。我々天上界としては、地上界の人間共が勝手に騒いでいることには、一切関与しないと決めていたのだ。それを君は、敢えて余計な関与をしてしまった。これだけでもルール違反であるのに、さらに同化した人間から抜け出せなくなってしまい、あげくには精神病院に入れられる始末だ。まったく、いい年して何を考えているんだね」


 聖マイケルは、聖ニコラスに対して、いかにも苦々しいという感情を前面に出しながら、まるで地上界の短気な人類のように聖ニコラスを叱責した。自分自身でも、「大天使らしくない言い方だな」とは気づいていたが、聖ニコラスがヨハンの姿をしているのを見ると、どうしようもない怒りが沸き起こってくるのだった。
「ハイ、私もそれは分かっていたのですが、人類のあまりにも酷い自縛行為を見ていられなくなってしまい、致し方なくやったものです。でも、ヨハンからこうして抜け出せなくなっていることが、自分でもわからずに困っています」
 聖ニコラスは、聖マイケルの叱責に嫌な気持ちになったが、しかし自らの窮状をこう訴えるしか弁解のしようがなかった。
聖マイケルは、さっきまでの怒りの感情が収まってきたのを自覚して、ようやく大天使らしいことを言う気持ちになった。


「結局、君が善意でやっても、人類は理解してくれなかった。天上界からの介入は結果的に無いものとなったので、この件は、とりあえず終わりとしよう。しかし、そのヨハンとやらの身体から抜け出せないのは、どうするのだね。・・・神に相談するしかないと思うが・・・。しかし、私も久しく神に会っていないから、果たして、神が簡単に君に会ってくれるだろか」
 聖ニコラスは、聖マイケルが大天使らしく落ち着いてくれたのを見て、少し安心した。そして、自分の問題を解決する方法をあれこれと考えてみた。数分後、やや不安そうにして、こう口を開いた。
「そうですね、恐らく聖ニコラスとしてでは、神はお会いにならないと思います。我々が神にお会いしても、神は恩寵を与えることができないので、お会いする理由がないからです。・・・しかし、ヨハンの姿を借りてお願いすれば、もしかするとお会いになってくれるかも知れません」


 聖マイケルは、一介の聖人レベルであるのに、聖ニコラスが意外と良い答えを見つけたことに驚いたが、あたかも自分でも同じことを考えていたように、したり顔で反応した。
「そうか。・・・そういうことであれば、ちょうど人類の姿に留まっていることでもあるので、また地上界に降りていってもらうことにしよう。そうすれば、人類からの祈りとして、君の願いが神に届くかも知れない」
「是非、そうさせてください。私を、再び地上界に行かせてください」
 聖ニコラスは、再び地上界に向かえることもあって、心の中では大いに喜んでいたが、聖マイケルに悟られてはまずいと思い、わざとしかめ面をして答えていた。

 それから3日後のことだった。しばらく姿を見なかった狂人のヨハンは、再びルーマニア国ブカレスト市のドメニイ市場の芝地に現れるようになった。
 そして、ヨハンの姿を借りた聖ニコラスは、近くにあるカシン教会で、毎日神への祈りを捧げ始めた。
 聖ニコラスがヨハンの姿になったクリスマスの日から、7日が過ぎた1月1日の朝、神はヨハンの前に出現した。


 神は、カシン教会のミサに集まる一人の信者の姿をして現れたため、そこにいる誰もが神が降臨したことには気づかなかった。しかし、ヨハンの身体の中にいる聖ニコラスは、神が持つその優れて大きな光彩を一目で感じて、神が来たことを理解した。
「君が、ヨハン、いやニコラスかね」
 聖ニコラスは、神からの問いにやや緊張しながら答えた。
「そうです」
 神は、今話かけている人間は見かけだけであり、中身は聖人であることを承知しながら、人間の姿を借りて地上に降臨していた。聖ニコラスが恐れていた、神は人間の言葉を聞いても聖人の言葉を聞かないということはないようだった。しかし、神の恩寵はどうなるのだろう。それが、聖ニコラスの心配な点だった。
「君の祈りに応えて、ここに来たのだが、君の願いをもう一度確かめたい。それに、君はそもそも人間ではないようだね」
「はい、私は天上界の住人であるニコラスです。理由あって、このヨハンの身体に入ったのですが、その後抜け出せなくなってしまいました。お願いですので、私ニコラスを、ヨハンの身体から出して天上界へ帰らせてください」
 聖ニコラスは、聖人としてではなく、ヨハンという人間に成り代わったようにして、神にこう懇願した。
「そうか、そういうことか。・・・君が余計なことをしでかしたということは、マイケルの天界通信でも聞いていたが、それで、こうなったのか。・・・そうであれば仕方ない。私も慈愛をモットーとする神だ。君の願いを叶えてやろう」

 神がそういった瞬間、聖ニコラスはヨハンの身体を離れ、一瞬にして再び天上界の住人となっていた。この仕事をし終わった後、神の姿もいつのまにか消えていた。ある信者は、カシン教会の前にあるバス停から、282番のバスに乗っていくうらぶれた老人から、妙に明るい光が出ているのを見たが、きっと朝日がバスの窓に反射したのだろうと理解した。しかし、そのバスに乗ったはずのうらぶれた老人を、他に見かけた乗客は一人もおらず、またバスの運転手の記憶によれば、誰もそのバス停からは乗ってこなかったということだった。

 カシン教会のミサを終えた祭壇前には、狂人ヨハンが神に跪いて祈りを捧げる姿が、神が去り、また聖ニコラスが天上界へ戻った後も続いていた。ヨハンの姿を見かけた信者や僧侶たちは、みすぼらしい風体にも関わらず、とても熱心な信者だなと思っていたが、その祈る姿が1時間以上も続いた頃には、さすがに変だなと気付いた。そして、屈強そうな若者の信者数名が、ヨハンが祈っているところに近寄り、一人の若者がその身体に触れた。


 すると、ヨハンの身体は、空中に散った水滴のように、バラバラになり、そこには、数滴の水が落ちているだけとなった。若者たちは、思わず顔を見合わせて、答えを求めるように僧侶たちの姿を凝視した。
 僧侶たちは、一瞬でこの現象を理解したようだった。それまでの立ち姿から直ちに跪き、神と聖霊と御子に向かってひたすら祈りを捧げた。この姿を見た信者の若者たちも、反射的に跪いて祈りを捧げた。彼らは、自分たちが納得いくまで、何度も何度もそうして祈りを捧げ続けた。


 その祈りを捧げている数分の間、カシン教会の中を一陣の爽やかな薫風が流れてきた。その薫風を、祈りを捧げている人たちは気付かなかったが、教会近くにいるグリーンの目をした黒猫は、それに気づき、ヨハンが祈っていたところへのそのそと歩いていった。
 黒猫は、そこにあった小さな水溜まりを見つけて、おいしそうになめだした。黒猫が小さく鳴く「ミャー」という声が、なぜか「アーメン」と聞こえていたのは、人々の錯覚だったのかも知れない。
 
 それから、カシン教会の人々は、神の奇跡が出現したことの驚異に暫く包まれていた。ヨハンが祈りを捧げていた場所に残された水溜まりは、すぐに蒸発していたのだが、その場所に教会は柵を巡らせ、奇跡があったことを記した文字盤を掲示した。


 この奇跡に関係した、ヨハンの遺体がどうなったのかについては、地球の人類による記録に残されているものは全くない。しかし、様々な歴史書には、神の恩寵により、人類の生活が大きく変化したということだけが書かれている。

やがて死ぬ けしきはみえず 蝉の声          松尾芭蕉

https://note.com/yujikino/n/n72bb6be8665a


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