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<書評>『黄金伝説 1』

『黄金伝説 Legenda Aurea 1』ヤコブス・デ・ウォラギネ Jacobus de Voragine著 前田敬作 今村孝訳 人文書院1979年

『黄金伝説1』

 13世紀中頃、イタリア・ジェノバの大司教だったヤコブス・デ・ウォラギネが、キリスト教カソリックの聖人伝説を集大成したもの。日本における原文のラテン語からの翻訳は簡単なものではなく、1979年にようやく第一巻が発行された。その後第四巻まで発行されて、本書『黄金伝説』は完結したが、私は第一巻を購入した後長く海外勤務したこともあり、全四巻を購入するタイミングを逸してしまった。そして、今から全巻を揃えるのも高額なため(1979年当時で2800円)諦めた。もし第二巻以降を読むのであれば、図書館から借りて読むことにしたい。

 もちろん「ありがたい御本」だから、全巻揃えた方が「ご利益は増す」とも思うが、自分の経済事情を考慮すれば、全巻揃えるご利益よりも現世の生活の方が重要なため、購入・蔵書とすることは願わない。また、自らの寿命を考えれば、この程度で良いと思っているから、実は私自身としては、「ありがたい御本」とは思っていないということだ。

 なお、巻末の解説を読むと、ウォラギネはドミニコ会の修道士であり、同じドミニコ会出身の同世代の有名なキリスト教関係者として、トマス・アクイナスがいる。インドへ布教した他、大著『神学大全』の著者である。そう考えると『黄金伝説』は、中世末期という時代が生んだ「歴史の結晶」のようでもある。・・・やはり「ありがたい御本」なのだろう。

 ところで、書名である『黄金伝説』は、まさに黄金のようにありがたいキリスト教聖人たちの物語を集めたものという意味なのだが、インターネットで「黄金伝説」と検索すると、コンピューターゲームやアニメ関係のものが続々と表示されて来る。まるで13世紀に作成された本書の存在などまったく関係なく、むしろ「黄金伝説」という言葉を使用した最初の事例が、20世紀のゲームやアニメであるかのように錯覚してしまうくらいだ。したがって、『黄金伝説』と聞いて、キリスト教の聖人伝説を思い浮かべるひとは、少なくともこの日本では皆無に近いだろう。

 そして、そうしたゲームやアニメにとっての「黄金伝説」とは、まさに「伝説」にある「黄金」を探し求めるロールプレーイング=冒険物語として使用されている。しかし、この「冒険物語」という解釈が、原典となる『黄金伝説』からまったく遠い世界かと言えば、実は意外と近いのではないかと思えてくるから不思議だ。また、ポピュラー音楽の作品集の標題を「黄金伝説」と称して、最高傑作であるかのように喧伝するのも、あながち原典の意味から遠い世界ではない。

 なぜなら、キリスト教聖人の伝説を紹介するということは、それらの聖人が生きた歴史=物語を伝える内容であるため、そこには苦難や受難、さらに奇跡といった事柄が次々と紹介されていく。そして、聖人たちは、そうした苦難・受難を自らの奇跡を起こす力によって乗り越えていき、最後は殉教するとしても、この世の黄金である天上世界へ赴く権利を獲得することで話は終わる。それはそのまま、実は冒険物語でありまた輝かしい創造行為の結果である。そして、ゲームやアニメ同様に大団円を迎える予定調和の世界でもある。結末は、常に(殉教する場合であっても)ハッピーエンドあるいは大成功となる。

 つまり、21世紀の(特に若い)人々は、13世紀のヨーロッパ人が聖人たちの物語によって味わった「冒険物語」同様に、ゲームやアニメの「冒険物語」を味わっているのだと言える。つまり、13世紀ヨーロッパ人が『黄金物語』の聖人伝説にエンターテイメントとしての喜びを味わったのと同様に、21世紀の人たちは、ゲームやアニメの世界の「冒険物語」にエンターテイメントとしての喜びを同じように味わっている。そこにある相違は、司祭が読み上げるキリスト教の聖人伝説物語と、営利企業が作り上げた架空のゲーム・アニメとの違いだけだ。

 本当は、本書をありがたく読み進めていくうちに、キリスト教カソリックの教えに目覚め、そして聖人たちの起こした奇跡に驚き、殉教に涙し、イエスの栄光に感動すべきなのだろうが、天邪鬼の私には、どうもキリスト教という一神教の負の面ばかりが目についてしまう。それは、とりわけ奇跡と殉教の背景となる、異端派や異教徒に対する「神の裁き」に強く感じるのだ。それらは、いずれも古代という現代の倫理観とは遠い時代であることを考慮しても、皆残虐な殺戮という言葉が相応しい「裁き」を受けたと「楽し気に」かつ「唯一の正論として」書かれている。これは、イエスの教えである「汝の隣人を愛せ」とか「寛容」や「許し」などという概念からは程遠く、むしろ「私怨」、「復讐」、「非情」、「錯乱」、「陶酔」といった感情に基づく、「執着」、「狂信」、「闘争」、「支配」、「征服」、「不寛容」、「独善」といったネガティヴな概念を、ひたすら絶賛し、そうして信者を洗脳・教養するものとしか思えなかった。

 その背景は何かと考えれば、たまたま同時にマックス・ウェーバーの『古代ユダヤ教』とジョルジュ・バタイユの『呪われた部分』を読んでいることから想起したのだが、まずユダヤ教成立の歴史が、パレスティナにおける都市と農民との戦争及び各都市(国家)間の戦争という、支配と占領(戦争に勝った者が総取りし、負けた者は勝者に全てのことにおいて奴隷的に従う)ということにあるのだと思う。そして、そうした戦争とは、バタイユによれば「最適な剰余の浪費」として人類が営む経済行為の根幹であるため、必然であったということ理解されている。この観点から考えれば、キリスト教(特にカルヴィン派)が、資本主義の発展に大きく寄与し、またその延長上に二回の世界大戦が起きたのも当然の結果であると頷くしかない。

 また、キリスト教がヨーロッパ思想の根底にあることは、誰もが認めることであるが、この根底を出発点として、フランス革命後の内ゲバ(異端排除)の延長であるテロルによるロベスピエールらのギロチンによる恐怖政治が出現し、やがてヒットラーやスターリンの強権的独裁政治(不寛容を徹底した異端派・異教徒・異民族の徹底した虐殺)へとつながっていくのだろう。それは東洋の端にある小さな島国でも同様で、元首相の暗殺行為を称える論説が、平然とメディアに掲載されることに現れているのではないだろうか。どんな理由であれ、虐殺や暗殺は許されないものであるが、一方、宗教・思想・政治などの理由によってそれが許容されてしまうことは、真のヒューマニズムからは程遠い考え方であり、アンチ・ヒューマニズムとしての不寛容な行為と言わざるを得ない。従って、そうした考え方が人類を救済する宗教・思想・政治にはならないのは当然だと思う。

 というわけで、この『黄金伝説』を読むことで、私の心は宗教的な黄金の光を得られることはなく、ひたすら人類の持つ暗い部分(まさにバタイユの述べる「呪われた部分」そのものだ)をより一層気づくことになってしまったのは、原作者としてはさぞ心外なことだろう。もしかすると私の心には、彼らが言うところの「悪魔」が潜んでいるのかもしれない。ブラボー!

 一方、私の「悪魔的視点」からになるが、本書の中で関心を呼んだ箇所があったので、それを紹介したい。また、原文を引用した箇所では、地の文章または(注)として私の関心のありかを付記したので、参考にされたい。

P.57
 「聖ニコラス Nicolaus」つまり、日本でも著名なサンタクロース(セイント・ニコラス、あるいはオランダ語のシント・クラウス)である。冒頭の名前(ラテン語)の由来が面白い。Nikosは「勝利」、Laosは「民衆」だそうだ。そして、「通俗にして低劣なあらゆる悪徳の、克服者を意味する。あるいは、多くの民衆の勝利を意味する。・・・この聖人には人々を浄化し、光りかがやかせる力があった。」と本文で説明されている。

 また、翻訳者による注釈の後半には、クリスマスの由来が説明されている。「ニコラスの祝日12月6日の前夜に訪問と贈物をかわす習慣に北欧の伝説がくわわり、八頭のトナカイが引くそりに子供のおもちゃをつんで北極から訪れてくることになり、これがニュー・アムステルダム⦅のちのニュー・ヨーク⦆のオランダ系移民からアメリカじゅうにひろまり、クリスマス・プレゼントの風習とむすびついて、赤服赤帽に長靴をはいた<サンタじいさん>が贈物いっぱいつめた大きな袋を肩にかついでくるようになった。」とある。

<参考:私が、このサンタクロース伝説をもとに作った、短編集です。キンドルと紙バージョンの両方で販売しています。ご関心あればどうぞ宜しくお願いします。>

P.182
 大帝と称されるコンスタンティヌスを授洗したとされる、聖シルウェステエルの項目の終わりの箇所について。「死期が近づいていたのを感じたとき、自分の司祭たちに三つのことをたのんだ。彼らがたがいに愛しあうこと、熱心に教会を運営すること、羊たちを狼から守ることの三つである。」と本文にあるが、この「羊たちを狼から守る」というところが面白い。羊=人間、狼=悪霊ということなのだろうが、そのほかの意味にも取れそうな気がした。つまり、羊=財産・教会・キリスト教・自分たちの食料と解釈できるし、狼=異教徒・異端派・皇帝や王・泥棒と解釈できる。この第33代のローマ教皇は、かなりの吝嗇家だったのではないか。

P.235
 優れた隠修士であった聖マカリオスに関する奇蹟の話について。悪魔が他の修道士に対して酒を飲ませていたのに対して、聖マカリオスは酒を飲まぬように修道士たちを説教したという本文のくだりがある。なんのこともないエピソードかも知れないが、私はこれをネタに短編小説『悪魔と酒と修道僧たち』というのを作った。そうした創作意欲を刺激してくれるものを含んでいると思う。

P.331
 聖ユリアヌスというのは何人もいるのだが、ここに紹介されているローマ皇帝になった背教者ユリアヌスのエピソードは、辻邦生という作家が『背教者ユリアヌス』という小説にしている。

 このユリアヌス皇帝は、キリスト教を棄てローマにもともとある宗教の復活を試みたので、そのため「背教者」とされたのだが、ペルシア戦役で討ち死にしたときの描写が、無理矢理悲惨な最後になったように書かれていて、ちょっと面白い。

「・・・手に自分の血をいっぱいつかんで宙に投げ、『ガリレア人(びと)よ、なんじの勝ちだ』と叫んだ。と同時に、あわれにもこと切れた。以上は『三部教会史』に出ている話である。彼の部下たちは、遺体を埋葬もしないで棄てておいた。そこへペルシア兵たちがやってきて、彼の皮を剥ぎ、彼らの王のために座ぶとんをつくった。」

P.421
 「聖ペテロの教座制定」の項目について。聖ペテロとは、英語でセント・ピータース(サン・ピエトロ)で、バチカンにある大聖堂の名になっている聖人であり、また初代のローマ教皇である。そこにある、ペテロが教座を定めた日とされる2月22日についての記述が面白い。なお、理解を助けるための(注)を入れてある。

 「ヨハネス・ベレトが書いている由来記によれば、異教徒たちは、二月の一定の日に祖先の墓に食物をそなえるのが昔からの習慣であった(注:古代ユダヤ時代のバール神だと思われる)。そなえられたご馳走は、その夜のうちに悪霊たち(注:古代ユダヤ時代では神または精霊)が腹におさめてしまうのだが、異教徒たちは、墓のまわりをうろついている人魂(ひとだま)が食べるのだと信じていた。もっとも、彼らは、人魂のことを影とよんでいた。というのは、昔の人びとの習慣によれば、まだ身体にやどっているたましいだけがたましいとよばれ、地獄に行ったたましいは亡霊、天国に行ったたましいは霊とよばれ、死んでから日が浅く、まだ墓のあたりをうろついているたましいが影とよばれたのである。・・・かつては死者にご馳走をそなえる日として祝われた今日の祝日をいまでもペテロ供膳の日とよぶ人びとがいるのである。」

(注:マックス・ウェーバー『古代ユダヤ教』によれば、古代ユダヤ人は、あまり死後の世界についての明確な概念がなかったようである。従って、天国や地獄という概念も薄かったらしい。そういう観点から、死者の魂が墓の周辺を漂っているというイメージが出てきたように思う。)

P.485
 聖パトリキウス(英語ではセント・パトリックとなり、アイルランドに最初にキリスト教を布教したアイルランドの守護聖人)の項目について。

 「(聖パトリキウスは布教のために)人びとがそれを見ておどろき、悔い改めるようなしるしを神に乞うた。すると、主なる神は、彼にある場所をしめし、そこに杖で円を描くように言われた。すると、おどろくなかれ、大地がその円の形にぽっかりと口をあけ、深い穴があらわれた。そして、神は、聖パトリキウスに教示された――これは、煉獄のひとつであって、このなかに入る者は、罪をきよめるためにほかのどんな贖罪の行もほかのどんな煉獄も必要としない、そして、大部分の者は、二度とここから出てこれないが、出てくることのできる者は、朝から翌日の朝までのあいだしかそこにとどまらないで出てくるであろう、と。」

 翻訳者による解説によれば、「アイルランド北西部ドニゴール県にロック・ダーグという小さい湖があり、十二世紀ごろからこの湖中の小島にある洞窟が、<聖パトリックの煉獄>としてこの伝説とむすびつけられ、『黄金伝説』の普及とともに十三世紀にはアイルランドの国民的巡礼地となった。巡礼者は、二十四時間洞窟に入れられ、来世を瞥見できるとされた。現在は洞窟をとりこわし、教会が建てられているが、巡礼者はたえないと言う。」とある。
<参考:現在のロック・ダールについての案内>

P.521
 「主のご受難」、つまりイエス・キリストが磔刑に至るエピソードの項目にある、アダムが犯した人類最初の罪に関する記述が、イエスの人類に代わって罰を受けた「原罪」の概念をよく説明していて面白い。

 「最初の人間(注:アダム)は、高慢と不従順と貪欲とによって堕落した。知恵によって神と同等になろうとし、神の命令をやぶり、りんごの甘さを味わおうとした。治療というものは、正反対の手段によってなされるものである。だから、キリストが謙虚と神の命令にたいする恭順と苛酷な苦難とによってこれをつぐなわれたのは、まったく当然のことであった。」

(注:「原罪」についてはわかったつもりでいたが、具体的に何が罪であったのか認識できていなかった。そしてこの説明によって、「アダムがリンゴを食べたこと」そのものが原罪になったと明確にしてもらった。しかし、知恵を付けることが罪だとされてしまうと、人類の進化はすべて罪になってしまうのではないだろうか、という疑問が残る。)

P.534
 同じ「主のご受難」の翻訳者の注釈にあるもので、二つある。

 一つ目は「イエスが十字架につけられたあと、兵士たちは、その衣服をわけあったが、下着は、『縫い目がなく、上のほうから全部ひとつに縫ったものであった』『ヨハネの福音書』」とあるものは、これは明らかに人類が作った衣服でない、いうなれば宇宙服の一種ではなかったかと私は考えている。イエスはやはり宇宙人だったのだ。

 二つ目は、イエスを磔刑に処したローマのユダヤ総督ピラトが皇帝に憎まれて自殺した後、その遺体を悪霊たちが空中や水中に投げ上げたため、最後はスイスのローザンヌにある大きな山々に囲まれた深淵に投げこんだという本文で、「ある人たちの語るところによると、そこでは今日でもこの地獄の遊びの音が聞こえるという。」(P.530)とあり、これに対する翻訳者の注釈では、「スイスのルツェルン湖の西にそびえるピラトゥス山(2132m)は、この伝説から名を得ている。」とある。なお、以下に引用した現代の観光案内には、「竜が住んでいたという伝説もある」と記載されているので、もともとかなり神秘的な山なのだろう。そこに、後からピラトと悪霊との因縁が付け加えられたのだと思う。

 また、一つ目のイエスが宇宙人であったという私の推論から演繹すれば、イエスを殺した責任者であるピラトの遺体が、竜伝説(竜は、古代人が見たUFOのイメージだと理解できる)のある山奥に移されたということは、そこがイエスの属する宇宙人とは対立する別の宇宙人がいる場所(つまり基地)だったのではないかと、私はさらに推論できると考えている。

 以上のようなことを考えると、様々な想像やイメージを増幅させてくれるネタが沢山ある『黄金伝説』という本は、やはり創作者にとっては「黄金の集まり」なのかも知れない、というのが私の結論である。

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