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〈短編小説〉ある平凡なラガーマンの話

(はじめに)

 昔競馬好きの作家山口瞳は、いつものように府中競馬場でダービーを見たとき、スタンドにあふれる若い観客が、優勝した騎手の名を、まるで芸能人のコンサートのように大声で連呼しているのを聞き、「僕たちの競馬はもうなくなってしまった」と「男性自身」に書いた。

 競馬と競馬場は、忌避される賭博場として、反社会性と非日常の場所であった時期が長く続いた。寺山修司の競馬関係の著作を見れば、それは一目瞭然だろう。しかし、戦後の日本の経済成長とともに、次第に社会性を持った場所として大衆に認識されていく。そしてある一時期は、余暇を持て余す老人たちの居場所となったこともあった。週末の中央競馬には、昔から来ている中年男性の他に、品の良い老夫婦が憩いを求めてきている姿が多く見られたこともあったのだ。

 しかし、そうした静かな時間はあっというまに終わってしまった。芸能人と結婚するような若い騎手の出現に伴って、競走馬と騎手のアイドル化が急激に進み、競馬場は若い人達が占拠する場所となり、まるでアイドルのコンサート会場のような喧騒に包まれる場所に変貌してしまったのだ。

 そうした中でダービーを見た山口瞳は、「僕たちの競馬はもうなくなってしまった」と思わず感慨を漏らした。そして、今や私の知っているラグビーも、競馬のようになくなってしまう予感がしている。なによりも、ラグビーの応援がサッカーや野球のようになっていくのを見ると、なくなってしまうまでにはあまり時間がかからないだろう。

 そのため、「僕たちのラグビー」というささやかな記憶を、ここに記すことにした。


序 章 あるラガーマンの昔語り

 神宮の銀杏並木が美しい黄色に変わると、少し早いかなと思って衣替えした上着の、その暖かさを実感する季節になる。そして神宮のラグビー場では、気温が下がっていくのと反比例して、ラグビーへの情熱が日々沸騰していく。週末ごとに廻ってくるささやかな刺激と酒宴のイベントが、やがて迎える新年の大イベントに向けて、木々たちが自然の準備をするように、私の心の中へ少しずつ心の準備を始めろと刺激している。こうして、私は退屈な世の中を、年々退屈することもなく生きながらえてきた。なぜなら、そこにラグビーがあったからだ。

 2019年秋、日本で初めて開催された第10回ラグビーワールドカップは、この国でラグビーが世界基準で認知された瞬間だった。しかし、それは文字通りに瞬間で終わってしまった。翌年から数年も継続した新型コロナウイルス騒動で、ラグビーが満足にできなかったことも影響し、古老そのものである昔からのコアなファンと、少しだけ増えた新たなファン(彼らは自らを「にわか」と自称した)による、2018年までのラグビーが安住していたような、元のマイナーで閉鎖的なスポーツの世界に戻ってしまったのだ。

 でも私は、そうした少数の人たちの愉しみにラグビーが留まり続けることを、密かに心の底で願っている。そう、それは安堵とか、ぬるま湯とか、鎖国とか、内向とかのネガティヴな感情だと非難されることは承知の上だ。もし今の私の気持ちに一番相応しい言葉を敢えて探せば、大切な恋人を奪われたことから生ずる、一種の「嫉妬」かも知れない。

 これから紹介する話は、日本ラグビーにとって重要な2019年より、かなり前の時代のことになる。当時、私がまだ会社勤めをしていた頃、週末には、自宅近くにある高校ラグビー部の練習を良く見に行っていた。そして、いつしかそのラグビー部員の特徴などを覚えていくうちに、ひそかに応援するようになり、またラグビー部に通う子弟の親が、ちょくちょくグランドに来ていたので、自然と顔なじみの関係にもなった。とうとう数年後には、父母たちに誘われて、夏合宿や練習試合まで見に行くようになっていた。

 こうして私は、部員の父母たちと親しくなる一方、ある一人のOBの方とも知り合いになった。そして、ある時私は、OBたちの酒席の会話を聞いているうちに、その高校ラグビー部の昔話をむしょうに聞きたくなっていた。私のように外から見るだけでなく、現場を経験した人の経験を直接聞きたかったのだ。また、そうすることで、私もあのグランドで実際にラグビーボールを追いかける経験を共有したOBの一人であったかのように、自分で錯覚したかったのだと思う。

 そうしているうちに、ようやくチャンスが訪れた。あるOBの方が私につきあってくれることになった。ちょうどラグビーが佳境に入る時期、つまり神宮の銀杏並木が色づく秋の日の夕方、有楽町ガード下の居酒屋で待ち合わせをした。私は、そこで安酒を酌み交わしながら、OBの方が訥々と思い出しながら話す言葉を聞くことができた。酔いが進むうちに、途中から私の記憶があいまいになったところもあるが、是非この話を記録しておきたいと思った。なによりも、この話をOBの方だけの思い出に止めておくのは、とてももったいないと思ったのだ。

 ところで、この昔話をそのまま実名で書くといろいろと多方面に影響するので、登場人物は、基本的に仮名で書かせてもらった。また、OBその人の名前をここに記すのも控えるが、話をする都合上、Oさんとする。もう孫のいる年になっているOさんは、一緒にプレーした同級生のある選手の思い出話を私にしてくれたのだ。それを、とっくに酔いも冷めた今、思い出せる限り、ここに書してみよう。

第一章 高校時代

 Oさんは、私に向かって、ちびりちびりとホッピーを飲みながら、ひとつひとつ思い出すように話しだした。

 たぶん一回くらいは名前を聞いたことがあるかも知れないけど、高山慎太郎っていうのがいてね。ちょうど、巨人の王がホームラン世界記録を作ったころだったな。そういうわけで、相変わらず野球人気は凄かったが、ラグビーもまあまあ人気だった。

 その高山は、中学時代にスポーツ万能だったらしく、野球部に入る約束で俺がいた高校に入ってきたそうだけど、何分野球を子供時代からやっているわけではないし、坊主頭とかいろいろと嫌なことがあって、すぐに辞めてしまった。その後、やっぱり力を持て余しているもんだから、ラグビー部に誘われて、俺より少し後から入ってきたわけさ。でもいったん入ったら、身体はデカいし、50mも6秒ぐらいで走ったから、ルールも知らないうちから活躍したよ。ポジションはNO.8だった。

 その時同学年の俺はまだ一年だったから、もちろん試合には出られなかったし、少しばかり身体が大きかったからFLをやったけど、不器用だったな。毎日毎日練習ばかりして、それで少しずつラグビーがわかってくる時期だった。

 監督の中田健司は、高山にぞっこんさ。一年の時から「高校代表になれるぞ!」っていつも叫んでいた。実際に三年のときに候補に入ったよ。誰もが目を付けるような特別に凄いプレーはあまりなかったけど、とにかく、その身体機能が目立っていた。だから、たとえスキルが未熟でも、すぐにチームに入れたくなるタイプだったね。

 俺たちのいた高校は、二年のときに花園に行けた。もちろん高山もNO.8でメンバー入りしていた。花園では、さすがに上手い奴が沢山いるから、高山だけが注目されたわけではなかったけど、すでに大学関係者は目を付けていたね。だから、三年のときは花園に行けなかったけど、余裕で大学入学が決まっていたよ。

 そんな高校生活の中で、俺と高山は、あまり話すこともなかったけど、ある時こんなことがあったのさ。

 俺のいたクラスに山下由美子って女がいてね、実は高山がちょっと気にかけていたんだ。高山は、あんなふうに一年からラグビーで活躍してたから、もちろん学校の女の子たちからは注目されていた。でも、なんというか、すぐに寄ってくるような女たちには興味がなくて、むしろ寄ってこない方に惹かれるんだね。

 ある時、あれは二年の一学期の期末試験に備えて部員が集まって勉強していたときだった。高山が俺のところに来て、何か話しかけてきた。俺は、こういっては何だけど、ラグビーがそれほどではない分、他の部員よりは少しは勉強ができたから、こうやって試験勉強を聞きに来る奴がポチポチといたんだ。俺は高山がその一人かと思ったよ。

 ところが、いきなり「山下って、いるよね?」って俺に聞いてきたんだ。俺は「俺のクラスの山下か?」ってオウム返しに聞いたら、「そうだ」って言う。で俺は、「・・・つきあいたいのか?」って聞いたら、高山は黙って頷いた。

 でも俺は言ってやったんだ、「山下はオヤジが厳しくて、部活もやらないし、友達と遊びにも行けないらしいから、誘えないと思うよ」てね。そうしたら高山は、ラグビーやっているときには絶対に見せない、凄く悲しそうな顔をした。そして、「来週の練習試合さぼろうかな・・・」とかつぶやいている。

 俺は、こんなことで高山が練習をサボるのを監督の中田に知られたら、俺たちもシゴキのとばっちりを受けると思って、ちょっと焦ったね。それで、「わかったよ・・・。俺が話してみるから」って、できもしない約束をしちまったんだ。俺は、後から後悔したよ。大変なお荷物を背負い込んだってね。

 それで俺はいろいろと考えた挙句、本好きの山下は図書館係をやっていたので、俺が本を借りて、それを返すことが事情があってできないから、山下に渡して代わりに返してもらうというシナリオを考えた。そして、そのタイミングに「なぜか」高山が俺といて、また「偶然」高山も借りたい本があると言って、二人が話すきっかけを作ってやった。俺がやったのはそれだけさ。それから後のことはどうなったかわからない。それでも、秋になってから、全国大会予選会場に山下の姿を見かけたから、きっとうまくいったのだろうね。後で知ったけど、山下のうるさいオヤジは実は大のラグビー好きだそうで、ラグビー部で活躍している高山とつきあうことは、ラグビーに免じて特別に許可されたらしい。

 俺と高山とは、高山がAチーム、俺がBチームで、よく部内マッチをやっていた。それに、高山はNO.8、俺はFLだったから、マッチアップする場面が多くあった。ある高校二年の初夏のことだった。その日三試合目になる練習試合の後半、Aチームが俺たちBチームのゴール前まで攻め込んでいて、ゴール前10mくらいのところでAチームボールのスクラムになった。高山はNO.8だから、スクラムから出たボールを持ってすぐに右サイドをアタックしてきた。俺は、それが読めていたから、左FLに入っていたけど、奴がサイドを走ってくるのを正面からタックルにいった。しかし、さすが高山だな。俺が必死に足首にしがみつくのを振りほどいて、そのまま三歩くらい前進して、インゴールにボールを余裕で置いた。絵に描いたようなトライだった。

 高山は、監督から「よし!」って言われていたけど、俺は「おまえ、ちゃんとタックルしたのか?」って叱られたよ。まあ、あれは誰がタックルしても止められなかったと思うけど、そんなこと言っても仕方ないから、俺はただ黙って唇をかみしめていたけどね。そして、こんな場面は他にもたくさんあったね。そのたびに、ああこれが才能の差かって、俺は諦めたもんだ。

 そうやって高校三年間はあっという間に過ぎて、俺たちは最後の全国大会予選でベスト8にまでいったけど、もっと強いチームがいて、そこから上には行けずに高校の部活は終わった。高山はラグビー推薦でD大学に進学し、山下もD大を受験して受かったそうだ。上手くカップルで同じ大学に進学だね。・・・俺は、家から授業料を出してもらえる余裕がなかったし、ラグビー推薦なんかとても無理だから、就職を選択した。でも、ラグビー部のあるところにしたよ。そこは関東社会人二部のチームで、ラグビーよりも仕事が優先されて当然というチームだった。

 俺としてはそれで良かったと思う。いや、ラグビーをやるのは趣味でいいと思っていたし、仕事をして金を稼ぎたかったから、それが唯一の選択だったと思ったよ。そして、高山と会うことはもうないとも思っていた。実際、ラグビー部の卒業試合の後で、俺は高山に「大学でもがんばれよ!」と言ったのが、最後の言葉だと信じていたね。

第二章 大学時代

 俺は高校を卒業してから、ラグビーをやれる社会人チームを持つ会社に就職した。高山は、ラグビー推薦でD大学に行った。もちろん、高山は一年のときから大活躍していたよ。でもチームとしては、それほど強くなかったから、大学選手権に出場しても準々決勝あたりで負けていたね。それでも、高校時代からちょっと目立っていたから、ラグビーを扱っているマスコミには、結構記事にされていた。ラグビー部の合宿所でも、一年が担当する仕事からかなり免除してもらう特権を得ていたようだったね。

 俺の方は、社会人として仕事をすることが優先だったから、高山のように毎日練習することもなかった。とにかく、仕事、仕事だったよ。それにチームも関東社会人の二部だったから、試合自体はそんなに厳しくなかった。だけど俺は、仕事が空いている時間に走り込みをするなどして身体は鍛えていた。ラグビーやりたくてせっかく就職した会社だから、ラグビーができる間は、高校時代にできなかったことを納得するまでやってみたかったんだよね。

 そんな生活を送って三年ほどたったとき、チームの先輩たちが引退した。それで、俺はFLのレギュラーポジションを得て、秋のシーズンの公式戦ではかならず先発させてもらっていた。それでも、単純に若返っただけだから、まだまだチームは強くならなかったけどね。

 そんな時だった。高山は、高校時代から遠い存在だったけど、大学に行ってからは益々遠くなったと思っていたら、偶然に高山のチームと俺のチームとの練習試合があったんだ。そして高山はAチームなので、俺たちのチームとの試合には出ないと思っていたら、ちょうど怪我から復帰した直後らしくて、たまたま俺たちと試合するBチームのメンバーに入っていたんだ。

 俺は、ちょっと驚いたと同時に嬉しい気持ちもあった。だって、高校のときには全くかなわなかった高山と、あれから三年たってどのくらいの差になっているのかを、この身体で確かめられるからね、それがとっても楽しみになって、試合が始まるのをワクワクして待っていたよ。

 その試合は、高山のチームが俺たちのグランドに来てプレーすることになっていた。またその日は幸いに天気も良くて、少し暑いくらいだったかな。俺も高山も先発で出ていて、高山が何回か突進してくるのを俺は全部止められたよ。逆に、俺が最初突進したときに少しステップを切ったら、高山のやつ慌てたみたいで、タックルミスしてくれた。でも、その後はさすがに全て止められたけどね。

 その試合で高山は、ニュージーランド・オールブラックスのNO.8で、ミスワールドに選ばれた美人と結婚した、マリー・メクステッドみたいな凄いプレーを見せた。大学に行って、さらに上手くなっていることを実感したよ。

 それは、後半60分くらいかな。もう点差がついて高山のチームの勝ちが決まっていたけど、練習試合なのでお互いに自由にメンバー交代しながら、自分たちのプレーをしようとしていた。その時、高山はそのオールブラックスのメクステッドがよくやっていたように、自陣のマイボールラインアウトからつないだボールをもらうと、一回外にパスダミーをしてから、猛然と右タッチライン際を走り出した。俺たちFWとHBは、皆唖然として後ろ姿を追いかけるだけだった。それでも、味方のCTB、WTB、FBの5人は、高山が走っていくタッチラインに向かって、猛然とバッキングアップしていく。しかし高山は、近くのCTBとWTBはスピードで置き去りにしたうえ、FBをハンドオフ一発でぶちかました後、オープンサイドのWTBの手が腰にかかってきたのを、あっさりと振り切った。

 その後、もう誰もタックルする奴はいないと思った時、必死に戻った俺が、味方のWTBとFBが絡んで少し時間ができたので、ゴールライン直前で高山の足首に左手指先をかけることができた。おかげで、俺の左手中指は骨折して赤黒くなったけど、高山は倒れたよ。そこで、俺はすぐに立ち上がって、高山からボールをもぎ取った。そして、戻ってきた味方のSHに渡して、今度は俺たちがカウンターアタックをつないだ。

 そうやって相手陣右タッチライン近くのゴール前3mまでいったとき、味方のWTBが相手のFBに捕まったので、どうにかサポートに追いついた俺が、「こっちだ!」って大声を振り絞りながら、WTBからオフロードパスをもらった。このまま走り切ればトライだ!と思った瞬間、左からもの凄いタックルの衝撃を受けて、あっさりとタッチに押し出された。一瞬、頭の中が白くなった数秒後、ボールを落としているのに気づいた俺は、俺の左側で悠然と立ち上がる高山の姿を見た。

 やっぱり、高山は凄いな、と改めて思ったね。

 試合は、たしか2トライ対8トライで俺たちが負けた。試合が終わってから、グランドで水を飲んでいるときに、ちょっと自信が付いた俺は、高山に話しかけてみたよ。高山は、相変わらずそっけなかったけど、一言だけポツンと言っていた。

「大学を卒業したら、山下と結婚するよ」

 俺はその言葉を聞いて、まだ続いていたのかとびっくりしたのと、高校の同級生の結婚ということで、そのうち仲間から連絡がきて同期でお祝いをするのだろうな、ということが頭の中に浮かんだ。そして、自分でも驚くくらいに冷静な口調で、「おめでとう!」と言ったら、高山は、ただにっこりとしていた。

 このあと高山は大学選手権にも出場して、相変わらずTV中継されるような選手として活躍していた。ただ、日本代表候補には呼ばれても、最終選考で代表にまでは選ばれなかった。あるとき高山から聞いた話だけど、「派閥があってね、俺の大学じゃあ難しいよ」と諦めたように言っていた。真相はわからないけどね。

 当時の日本ラグビーは、代表は現役の学生を含めて早稲田が中心で、そこに明治、慶應、同志社らのOBが入り、ほとんど珍しいくらいに、日体、東海、専修らのOBが入るくらいだった。つまり、日本ラグビーは早稲田が横綱で明治が大関であり、この二校の定期戦である12月の試合は、日本選手権、社会人選手権、大学選手権よりも重要な試合として、毎年大観衆を国立競技場に集めていた。そしてこれに次ぐのは、同じく大学の定期戦である早稲田と慶應の秩父宮での試合だった。つまり、日本ララグビー=大学ラグビーだったのさ。

 だから、俺がプレーしていた関東社会人二部リーグなんていうのは、勤め人が趣味としてやるラグビーの延長上であって、そこから日本代表が選ばれるとか、スポーツマスコミから注目されるなんて、まったく関係ない世界だったね。でも、今考えてみると、そういう長閑な環境も悪くなかったな、とふと思うよ。

第三章 社会人時代

 高山は、大学を卒業すると、そのOBが沢山いる社会人チームに入った。昔はプロ契約なんてなかったから、当然仕事をしながらのプレーだった。そして、以前俺に話していたとおり、高校時代からつきあっている山下と結婚したよ。22歳同士だし、高山はこれから10年ぐらいはラグビーのトップ選手としてプレーするわけだから、少し早いような気もしたけど、高山には良かったと思うよ。その盛大な結婚式は、シーズンが終わった翌年の2月にあったけど、大学や社会人の関係者も集まった上に、マスコミも沢山取材に来ていて凄かったね。

 俺も結婚式に呼んでくれたんだけど、高校の時の監督やOBが沢山来ていて、俺が高山や山下と話すチャンスはなかったな。ところが驚いたことに、どこかのマスコミが誰から聞いたのか知らないけど、俺と高山がちょっとばかり親しいという理由で、俺に対して「結婚式の感想と高山さんの高校時代のエピソードを教えてください」と聞いてきた。

 俺は面食らったね。そもそもそんなことはまったく準備していなかったから、最初の言葉が出るまでに、頭の中がぐるぐると回転して、たぶん1分以上黙っていたと思うよ。そうしたら、せっかちのマスコミ野郎は、「じゃあ、お祝いの言葉をひとこと」と聞き返してきたので、俺はもごもごしながら「大変におめでとうございます。山下さんを幸せにしてください。ラグビーでの益々の活躍を楽しみにしています」って、とおり一辺倒の答えをしたら、途中まで言い終わらないうちに、そのマスコミ野郎はいなくなったよ。

 その頃の俺のチームは、相変わらず関東社会人二部だったから、とにかく毎日の仕事と練習に俺は追われていた。とにかく時間が足りないくらいだったから、結婚生活まで想像することはできなくて、まあ30歳になってから考えればいいやくらいに思っていた。第一に、身体が動くうちは、もう少しラグビーに打ち込みたかったという気持ちがあったからね。まだまだ、高校でやり残したことができていないと感じていたんだ。

 一方、高山が大学の時に高山のチームと練習試合をしたことがあったけど、今度は高山が社会人リーグの一部チームに入ったから、なかなか俺のチームとの接点はなかった。むしろ高山のチームは、大学の強豪チームと練習試合を多く組んでいて、俺たちのような二部のチームには、感心なかったと思うよ。練習しても参考にならないと思ったのだろうね。

 でもあるとき、あれは高山の社会人三年目だったかな。菅平の夏合宿に行ったとき、ちょうど合宿のタイミングが同じで、しかも高山のチームが予定していた練習試合が、相手の都合で中止になった。それで、偶然マネージャー同士が話をして、練習試合を組むことになったんだ。もちろん、相手は一本目よりも二本目を中心にしたチーム編成だったけど、俺は久しぶりに高山の顔を見られたよ。元気そうだったけど、試合にはでなかったな。なにしろ、高山は一本目だったから。

 俺はチームのプレーできる選手が少ないこともあって、当然試合には出た。グランド脇で高山が見ているのがわかったよ。二本目が中心といっても、高山のチームは一部の上位だから、俺たちのチームより良い選手が揃っていた。それこそ、その年の3月まで大学で活躍していた選手も数人いて、マスコミは俺たちのチームよりも高山のチームの新人を追っていたよ。俺はそんなことには慣れっこだから、いつも通りにFLでプレーして、相手の大学出の若造に、少しは社会人の厳しさを教えるタックルをしてやったよ。でも、相手の方がスキルは上で、外されたことの方が多かったけどね。

 一番思い出に残っているのは、前半終わりごろのプレーかな。俺たちのチームがゴール前に押し込まれていて、相手ボールの5mスクラムになった。もちろん、相手はスクラムに自信を持っていたから、最初はスクラムトライを狙って押してきた。でも、俺たちも踏ん張ってトライさせなかった。

 次に相手はスクラムからボールを右に回してきた。ボールは右タッチライン近くの相手WTBにまで回って、俺たちのWTBと1対1になると難なくタックルを外して、ゴールライン近くに迫ってきた。俺はパスの後を必死に追っていき、どうにか相手のWTBにタックルできそうなところまで来た。それを気づいた相手のWTBは、インゴールへダイブしたんだ。俺は、そのダイブした身体に向かって自分の右肩を思い切り当てた。すると、相手は俺より軽かったせいもあって、ゴールポストにぶつかってタッチに出たよ。

 俺は、その後タッチに出たボールをすぐにインゴールにいる味方SHにパスした。SHは、とりあえずという感じで左タッチラインの22mライン付近へキックした。ところがこれがノータッチになって、しかも相手の逆サイドのWTBがキャッチした。俺は焦ったね。とにかくディフェンスしなくちゃと思って、前に思い切り走った。もう肺が悲鳴を上げていたよ。

 でも、必死に走ってそのWTBの足首をどうにか捕まえたよ。そのうちに味方のFWが上がってきてくれて、俺たちがラックでターンオーバーできた。それから、逆襲ってんで、右サイドに回したけど、俺が気づいた時は50mラインの真ん中で味方CTBが派手にノッコンしていた。まあ、長くプレーが途切れなかったので疲れていたんだと思うよ。俺は、やっと少し休めると思いながら、ゆっくりとそこの相手ボールのスクラムまで歩いていったな。

 そのプレーを見ていたのかな、試合が終わってから、俺のところに近寄ってきて、「さっきのタックルは良かったな」と言ってくれた。山下と約束どおりに結婚したし、この偶然の出会いでも話しかけてきたことから、俺は高山が、高校時代から見るとずいぶんと大人になったなと思ったし、けっこう信頼できる奴じゃないかと見直したよ。

でも、これが俺と高山との最後の出会いになった。ちょっと寂しいけどね。

第四章 社会人選手権と入れ替え戦

 俺が高山と菅平で偶然会ってから数年たった年だ。高山のチームは、1980年末の社会人選手権を順調に勝ち進んでいた。一方俺のチームはというと、珍しくリーグ戦を勝ち続けてきて、関東社会人一部チームとの入れ替え戦をできることになった。ここでもし勝てば、俺は高山のチームと毎年戦うことになる。それは俺が高校時代からずっと願っていたことだったが、いざ実現が近づいてみると、ちょっと怖くなってきた。むしろ、このままどこかで偶然に出会うくらいがちょうど良いと思う自分がいたよ。

 そんなことで俺は、自分のチームでレギュラーとして必死に戦ったが、結局入れ替え戦には負けてしまった。これでまた一年、二部での戦いが決まった。この試合で俺は、前半25分だったかな、相手選手がトライする直前、ぎりぎりに間に合って頭からタックルに入ったんだ。どうにかトライを防いだけど、その時に脳震盪になった。さらに、相手と味方の選手が足の上にのしかかってきて、右足首から嫌な音が聞こえたんだ。俺はもう歩けなくなって、すぐに交代した。脳震盪で頭も朦朧だったしね。後から診断したら、骨折していて全治6ヶ月になった。

 こうして俺のチームの二部残留が決まった後だった、上位チームによる社会人選手権が始まり、高山のチームは、準決勝まで勝ち進んだ。

 その試合は、大勢の人の記憶に残っていると思うけど、凄い試合だったよ。高山の後半42分のトライは特に凄かったな。高山は、得意としている自陣スクラムからのサイドアタックを仕掛けた。そして、オープンサイドの方へ回り込むようにして突っ走っていった。もちろん、相手BKのディフェンスが揃っていたけど、スピードとハンドオフで置き去りさ。ゲインラインのど真ん中を突き破って、ゴールラインに向かった。

 そのとき、さすがに相手のFBが、高山へのタックルポイントを調整するように戻ってきた。高山は、FBの前で一瞬スピードを落とすと、FBの頭を越すショートパントをした。まるでSOのように絶秒なキックだったね。そして、FBの後ろ5mくらいのところで自分でキャッチすると、もうディフェンスは誰もいなかった。悠然とゴールポスト下に回り込んでタッチダウンしたよ。観客からはまるで芸能人みたいな盛大な拍手をもらっていた。スターって、こういう奴のことを言うのかと、つくづく思ったね。

 その試合に、俺は自分のチームがオフに入ったこともあり、高山のチームを応援しに行っていた。しかし、高山の凄いトライがあったけど、残念ながらチームは負けてしまった。試合が終わった時、俺はグランドに近いスタンド前方に松葉杖で立っていたんだ。高山は、そこからは遠いところのスタンドにいて、自分の会社から応援に来ている人たちに対して丁寧にお辞儀をしていたが、なぜかその時一瞬、俺と目が合ったような気がしたよ。

 高山の顔は、試合をやりきった晴れ晴れとした表情だった。しかし、俺の顔を見た後は、ちょっと寂しげになったような気がした。実は、俺はもうラグビーを引退するつもりだったんだ。足首の怪我が想像以上に酷かったし、何かもうやりきった気持ちになっていたからなんだ。その時点では、辞めることは誰にも話していなかったけど、どこか同じラグビーをやる者として、何かテレパシーのようなものがつながったのかも知れないな。

 その後は高山と個人的に会うことはなかった。そして、春が来る前に俺は、会社にラグビー部を辞めて、仕事に専念することを伝えた。所詮二部のチームだから、どこかに正式報告することでもなかったから、高山が俺の辞めたことを知ったのは、次のシーズンが始まった頃だったと思うね。・・・そして、これが俺と高山とのこれまでのつきあいの全てさ。これからどこかで、例えば高校のOB会とかで会うかも知れないけど、ラグビーということではもう接点がなくなった。俺も、仕事に専念しているから、ラグビーを見るのも当分お預けだなと、その時思ったね。

 ここまでOさんが一気に話したころ、もう終電近い時間になっていた。私とOさんは、あわてて支払いを済ませて、お互いの家に向かった。少し酔っぱらっていたOさんだが、おそらく誰かに話したくで仕方なかったことを、私相手にようやく話せたので、とてもすっきりとした顔をしていた。

 Oさんと別れてから私は、家に帰る途中、少し寒かったけど公園のベンチに座って、Oさんのこと、高山さんのことをしばらく考えていた。ある時、偶然に同じ高校でラグビーをやって、その後は人生の進路が違いながら、どこかで再会することがある。また、特に親しいわけでもないけど、人生の転機となるようなときに思い出に残るような交流を持ったりする。どちらかが一方的に助けたり、支配したりするわけではなくて、ごく普通にあるような出会いと会話の時間だけど、ずっと後まで覚えているような、そんな時間を一緒に過ごしていたのが、このラガーマンの二人だった。

 Oさんのラグビー人生は、高山さんに比べたら、もちろん恵まれたものではないし、どこにでもあるような普通のスポーツ経験かも知れない。良いプレーをしたこともあれば、後悔するようなプレーをしたこともある。その割合は、圧倒的に後悔が多いだろうけど、ラグビーをプレーすることで得たものはたくさんあったと思う。もっとOさんがラグビーで得たことを聞いておけば良かったなと、この時私は強く思った。また別の機会を早く持てることを願っていた。

 次に会う時が訪れたら、Oさんのプレーや高山さんのプレーだけではなくて、ラグビーをすることによって、自分の生き方がどう影響されたのかを聞いてみたいと思った。でも、そこまで聞いてしまうと、Oさんのかなり個人的な話になってしまうから、今すぐに聞くことはできないだろう。もっと、例えばガード下の安酒を酌み交わすことを重ねていけば、いつかは私が一番聞きたかったことを聞くチャンスが訪れるのではないか?そうだ、その時までは、定期的にOさんと飲む機会を作ろう。こうして、なんとなく次の考えがまとまったので、私はベンチから立ち上がって家路を急いだ。冬の北風が冷たく吹き付けてくるけど、夜空の星はよく光っている、そんな晩だった。

 次の日の夕方、たまたまTVのニュースを付けたら派手なバス事故が起きたことを知らせていた。事故があった場所は、Oさんが住んでいるところの近くだったので、ふと気になってニュースで流れてくる死亡した方の名前のテロップを追った。すると、そこにOさんの名前があった。私は、その名前とOさんの名前を思わず口に出しながら、同じ人じゃないと自分に言い聞かせるように、何度も繰り返していた。でも、時間が経つにつれて、私の願いはむなしいことがわかってきた。冷酷な現実を伝えるTVの前で、私は静かに涙を流し続けた。そして、Oさんの引退後の幸せを願っていた私は、神様はやっぱり不公平じゃないかと、心の底で少し怒っていた。

 どのくらい時間が経ったのだろう。暗い家の窓から見える外の街灯の輝きを眺めながら、私の脳裏にふとこんな言葉が浮かんだ。

「Oさんは、私にパスを、それもとても良いパスをくれたのかも知れない」。

 たぶん私は、「ラグビー」という小さくて、でも大きくもある、そんなパスをもらったのだろう。そして私は、そのパスを良いパスにするべく、ゴールに向かって疾走しなければならないのだ。

 もしかするとノッコンするかも知れない。もしかするとタックルされるかも知れない。

 そんなときは、そこでスクラムを組めば良いのさ。それがラグビーなのだから。

 冬の夜空の向こうに、Oさんの少し酔っぱらって微笑んでいる顔が、見えた気がした。

 翌1981年の正月は、ラグビー界にとって数々の物語があった年初となった。大学は同志社が明治に11対6で勝利して、三連覇の幕を開けた。高校は、TVドラマの題材になった伏見工業が7対3で大阪工大高に勝って悲願の初優勝をした。社会人は新日鉄釜石が東京三洋に31対5で圧勝して日本選手権に臨み、同志社と10対3の接戦で三連覇を達成した。ラグビー人気が、一時的にせよ盛り上がった時だった。


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