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<閑話休題>探し求める旅の終わりに

 もう48年前の昔になる。中学3年の3学期。私立高校を受験する友達2人とともに、受験する高校へ願書を出しに行った。当時は午前中だけ授業のある土曜だったが、僕らは授業を早めに終えて、電車に乗り込んだ。3人のうちの最後の1人が板橋の高校へ向かったときは、もう冬の早い夕暮れ時に近かった。そいつが無事願書を出した後、板橋駅に向かう途中、ちょっとした坂道の上で、向こう側に大きな美しい夕陽と夕焼けを見た。友達の2人は、どれほど感動していたかわからないが、僕は無言でこの美しさをかみしめて、感動していた。

 中学までの、隣近所と徒歩で行かれる生活圏内から卒業して、4月からは、電車で移動する、まるでサラリーマン予備軍のような生活が始まる。自分の生活している範囲が、生まれてからよく知っているところから、初めて見る・知るところへと一気に拡大していくのだ。もちろん、友人関係も一変する。中学までのぬるま湯のような環境に別れを告げて、予想もつかない新しい社会と新しい環境に移動するのだ。

 そうしたセンチメンタルな気分が充満していた関係もあって、その時の夕陽と夕焼けは、私にとって生涯一番美しいものとして脳裏に刻みこまれ、このような夕陽と夕焼けを同じ気分で見られるのは、次はいつの日になるのか。また、このような夕陽と夕焼けを見る気分を、「再び見出す」ためには、再現するためには、どうすれば良いのか。再現される時がいつになったら来るのか。そうしたことを、高校入学後から、ずっと考えるようになっていた。あの感動を取り戻したかったのだ。

 もちろん、それは高校時代に得られることはなかった。大学時代もなかった。社会人になってからは、なおさら見つけづらくなっていた。そうしていつの間にか、もう、あんな感動を二度と得られることはないと、自分に納得させていることに気づくようになった。過ぎ去った過去が、戻ることはないし、同じことが再現されることもないのだ、と自分自身に言い聞かせているのに、ある時気づいたのだ。

 ところが、今ようやく定年退職を迎え、社会的責任から解放されたとき、ふと同じ気持ちになれるような気がしてきた。長い間探していた、あの美しく素晴らしい瞬間を、再発見できるような気がしてきたのだ。

 それは、今にして初めて具体的な言葉にできるのだが(中3の冬の時点では、言語化できなかった)、「四季の美しさを感じ、味わいながら、時が過ぎていくのを楽しめること」なのだと、気づくことができた。

 なぜなら、ゲーテがいうように「時は止まってほしいほどに、美しい」から。

 自然とともに、自然の時の流れとともに、暑さも寒さも、暖かさも涼しさも、全て自然の恵みとして、ありがたく受け入れて、それを楽しむこと。

 それが答えではないかと、ようやく気づいた。それは、自分がじっと待っているものではなく、また自分から探しに行って見つけられるものでもなく、ただ自分の心が、自然に対して開いたときに、いつでもどこでも得られるものなのだ。

 これを探すのに(理解するのに)、私は40年かかってしまったのだ。

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