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クリスマスストーリー2020  神の代理人 PART1

 太陽系第3惑星の地球では、2万年にわたって地上世界を支配した人類が、自らの時間管理として2020年と称する年になっていた。しかしこの年、人類に対して、長年にわたる感染症の猛威がより強力に振るったように見えていた。

 いや実際には、そのCOVID19と名付けられたインフルエンザウイルスの一種に対する、人類の過剰なまでの反応が、自らの首を絞めたものとして歴史に記録されることになったというのが、より正しい歴史記述であろう。

 既に1,600年前に地上での役割を終えて、天上(宇宙)界へ旅立っていた聖ニコラス(サンタ・クロース)は、この地上のありさまを見て、何か自分にできることはないかと考えた。しかし、既に天上界の住人となっている聖ニコラスには、地上界に降りていって何かすることはできなかった。そのためには、地上にいる人類の誰かを自分の代理人に立てなければならなかったのだ。

 聖ニコラスは、誰を代理人にすべきかを長い間悩んだ。しかし、自分の名前が子供達への贈り物をする老人として使われている「クリスマス」が迫ったある日、漸く代理人に相応しい人類を見つけることができた。
 その栄誉ある代理人に指名されたのは、ルーマニア国ブカレスト市のドメニイ市場にいるヨハンと呼ばれている中年の男性で、彼は、市場の周辺にたむろしている狂人として知られていた人物だった。

 ヨハンの毎日は決まっている。狂人だから、勝手気ままに時間に関係なく暮らしていると思われがちだが、意外と規則正しい日々を過ごす。冬の厳しさもしのげる市場の屋台の下で夜は寝て、朝に市場が活動し始めるころには道端に出る。すると、いつものように出勤してきた市場の人や近くの店の人が、ヨハンに食べ物や飲み物をくれる。彼らは皆、敬虔なルーマニア正教徒だから、ヨハンのような狂人に親切にすることで、自分たちの功徳が増すと信じていたのだった。


 また、ヨハンはわけのわからないことを時折叫ぶ以外は、市場の人や買い物客の迷惑になるわけではなかったので、市場の人たちは、ヨハンを敢えて排除することをしなかった。ヨハンと市場の人たちは共存していたのだ。
 こうして、ヨハンは市場が活動している間は、近くの道端をウロウロし、市場の人たちが店仕舞いをすると、まるで夜間の警備員のごとく市場で眠りにつく毎日を過ごしていた。


 そういうヨハンの姿が、聖ニコラスの目に止まったのだろう。例えば、普通の生活をしている人に聖ニコラスが入った場合、その人の生活が一変してしまい、家族や勤務先の人に迷惑がかかる。ヨハンなら、そうした心配はなかった。また、ヨハンに対して市場の人たちが当然そこにあって良いものとして対応していることも、聖ニコラスにとっては「入る」ための好条件となった。もしも、市場の人たちから忌避されている存在であれば、いくら聖ニコラスであっても、自分の目的を果たすために多くの難題を解決しなければならなかったからだ。


 また、狂人と見られていることは、むしろ都合が良かった。ヨハンの人格が突然変わったとしても、誰もそれを怪しむことはしないだろう。むしろ、さらに狂人度が増したぐらいにしか思われずにいるから、誰も急に大騒ぎすることはないという安心があった。

 こうして、聖ニコラスは、クリスマスの前日にヨハンの心の中にそっと入っていた。その心の中には、彼が市場周辺の人たちから狂人と思われることになるまでの、様々な光景が記録されていた。
 ヨハンが狂人になった理由。それは、1989年のルーマニアにおける独裁者チャウセスクを殺害した革命時に遡る。その頃ヨハンは、まだ小学生だったが、革命の嵐の中、彼の両親は不幸にも惨殺されてしまったのだ。その両親が暴徒によって処刑される姿を遠目に見ていたヨハンは、それから自らの心を閉ざすことになった。
 

 そのため、ヨハンの心の中の風景は暗闇に包まれていたのだが、その中に暗闇自体が消えていく場所があることを聖ニコラスは見つけた。しかし、聖ニコラスは、決してヨハンを更生して普通の生活をさせようとか、狂人の状態から正常な精神にさせようとは考えなかった。もしかしたら、その暗闇に消えているところに一筋の聖なる光を当てれば、ヨハンの狂人という精神状態は正常な状態に戻ったかも知れない。しかし聖ニコラスは、ヨハンがヨハンそのものであることを尊重することが、自分として最善のことだと理解していたので、そこに敢えて光を当てることはしなかった。

 聖ニコラスが、最終的にヨハンを選んだ理由はこういうものだったが、もちろんヨハン以外にも候補となり得る人間はいた。例えば、ブカレストの旧市街を中心にたむろしている酔っ払いの乞食がいた。聖ニコラスが入り込んでも問題がないことでは、ヨハンと同じだったが、何よりも違っていたのは、この酔っ払いは人々から嫌われていたことだった。それは、彼が自分の現在の境遇に大きな不満を持つばかりでなく、自分がこうして酔っぱらわずにいられない理由は、全て社会が悪いからだと逆恨みしていたことだった。


 また、いつも公園のベンチやバス停のベンチで寝ている浮浪者も同じだった。彼らに共通しているのは、自分は自ら選んでこの生活をしているのではない、社会が自分の才能と努力を認めてくれないから、やむなくこうした生活を強いられているという考えだった。だから彼らは、そこいらじゅうを幸せそうに歩いている普通の生活をしている人々が、自分たちに金を恵むのは当然であり、そうすることが社会正義だとさえ信じていたのだ。
 だが実際は、彼らは皆自らの度重なる不摂生と、努力と忍耐の無さで、現在の悲惨な生活を招いていることに変わりはなかった。たしかに、数回の不幸なできごとはあった。しかし、不幸な出来事を乗り越えて、彼らは普通の生活を取り戻せるチャンスがあったのにも関わらず、敢えて自らそのチャンスを放棄していたのだった。


 他にも、聖ニコラスが目を付けた候補は数人いた、バスや電車に乗り込んで勝手に音楽を奏でて金をせびるジプシーたちだった。ジプシーたちは、中世の昔から、定住せずに放浪し、売春・音楽・踊り・大道芸などで金を稼いできたため、キリスト教の精神からは卑しい仕事をしている人々として、差別を受け続けていた。ナチスドイツのユダヤ人虐殺は歴史に有名だが、ナチスが虐殺したのはユダヤ人だけではなく、多くのジプシーがいたことはあまり知られていない事実だ。


 そのジプシーは、今もルーマニア内を浮遊して暮らし、音楽を演奏する者が多くいる。特に男は、売春ができる女とは異なるため、音楽を糧にすることになる。しかし、ひと口に音楽といっても、舞台に立てるほどの技術があるわけではなく、小学生が学芸会で演奏する程度の者が大半だった。


 こうしたジプシーの一人に、聖ニコラスが入り込むこともできただろう。そして、浮遊している者の人格が突然変わったとしても、周囲に与える影響は少ないので問題はない。しかし、聖ニコラスが躊躇したのは、キリスト教徒であるからではなかった。ジプシーが、自分の説教を代わりに行った場合、それは、一人のジプシーの問題ではなく、ジプシー全体の問題になってしまい、最悪の場合は、ルーマニアにいるジプシー全ての現在の生活を制限されることになってしまう恐れがあるからだった。聖ニコラスという天上界の住人であっても、ある特定民族の歴史と生活を勝手に変えることはできなかったのだ。

 そうして、聖ニコラスが最終的にヨハンを自分が入りこむ「器」に決めた頃、その年のクリスマスが近づいてきた。毎年クリスマスになると、子供達だけではなく、大人たちからも多くの祈りが聖ニコラスに届く。しかし、祈りとはいっても、そうした言葉の大半は、子供や大人の自分勝手な願望を一方的に述べるものばかりだった。


 子供が、特定のおもちゃを欲しがるのはまだ可愛いものだが、勉強もせずに良い成績を取らせろというのは無理な話だ。また、大人の願望はもっと酷い。自分の立場もわきまえず、恋愛を成就させろ、金持ちにさせろ、社長になりたい、芸能界でスターになりたいなど、身の程知らずとはこのことだというくらい、滅茶苦茶な言葉が聖ニコラスに毎日届いていた。
 そうしたことが長年続いてため、さすがの聖ニコラスも疲れてしまったようだ。もちろん、願望の全てを叶えるなんてことは元より無理だが、その願望に答えを与えることも無理なことだったからだ。今回、ヨハンの身体に入って人々に説教しようと思ったのも、そうした長年の勝手な願望を一方的に言ってくる人々に対する、聖ニコラスとしての最終回答という気持ちもどこかにあったのかも知れない。

 聖ニコラスは、クリスマス前日の太陽が西に沈んだ頃から、ヨハンの口を借りて、自分の伝えたいことを叫ばせることにした。しかも朝が来るまで何度も何度も繰り返して。
 その姿は、いつもの狂人特有の意味不明なわめき声やつぶやきとは異なり、しっかりと意味のある言葉であったが、周囲を歩く人々は、ヨハンの狂人状態がさらに悪化したように感じて、彼のいるところから逃げるようになっていた。

「みなさん、過度に病気を恐れることを止めましょう。もっとも恐れなくてはならないのは、自分たちで自分の首を絞めることです」
「人は一人だけではけっして生きられません。人と人は、話したり、抱き合ったりして、喜びや悲しみをともに分かち合うことで、本当に幸福に生きられるのです」
「病気が心配だからといって、人と人とを無理やりに引き離したり、人同士の交流を妨げたり、移動の自由を制限してはなりません」
「人は、神の愛よりも他人との愛によって生きているのです。そして、他人との愛は、お互いが言葉を交わし、お互いの身体が触れあうことでしか分かり合えないのです」

 常に意味不明なことをわめきたてる狂人として、市場周辺の人々から思われているヨハンの姿を借りた聖ニコラスの説教は、むなしく市場の夕闇に消え去っていくだけだった。その中でこの説教に反応したのは、この春先に市場で生まれた子猫たちや、市場の周辺をいつもたむろしている鳩たちだった。いや、近くにある動物病院で飼われている、後ろ足を義足(車)にしている犬も、真剣に耳を傾けていた一人(一匹)だった。

 そうして、冬の寒く暗い夜が訪れたときだった。聖ニコラスからの説教を伝えることに、いいかげん疲れてしまったヨハンは、聖ニコラスからの命令が停止した時を待って、落ちていた煙草をいつものように拾って吸いながら、小さな煙を口から吐き出した。
 すると、その白い煙の中からは、1人の大きな羽を広げた天使の姿が立ち現われた。ヨハンが、突然現れた天使の姿に茫然としていると、いつも市場周辺に鳴り響いていた救急車の音がピタリと止んだだけでなく、その姿も見えなくなった。


 マスクをして難しそうな顔で品定めをしている人々は、一瞬にしてとても嬉しそうに買い物をしている姿に変わった。市場にいる犬も猫も、皆嬉しそうに跳ね回り、市場で売られている野菜や果物は、皆生き生きと輝き、花はより一層その美しさをきらめかせた。それは、まるで地上に現れた楽園のように、ヨハンの目には映った。
 しかし、ヨハンの煙草の煙は、もともと落ちていたのを拾ったこともあって、長くは続かなかった。ほんの一瞬で白い煙は消え去ってしまい、煙が消えると同時に天使の姿は天上に舞い上がり、後にはいつもの騒々しい救急車の音と、マスクをしてうつむいて歩く人々の姿があるだけだった。


 その時、ヨハンは市場近くにある芝地に突然倒れ込んだ。ただ、急に目の前が暗くなり、自分でも気づかないうちに倒れていた。市場で、その様子に気づく人は誰もいなかった。騒々しい救急車のサイレン以外は、何の変哲もない時間がしばらく流れていくだけだった。
 ヨハンはそれから二度と目を醒ますことはなかった。芝地にずっとうつ伏せになったままでいた。もしも偶然その姿に気づいた人がいても、ただ浮浪者が寝ているだけにしか見えなかっただろう。幸い、その晩は雪も降っておらず、クリスマスイブにしては暖かい夜だった。

 時間は過ぎていき、クリスマスの夜明けが近づいていた。東の空が少しずつ明るくなり、鳥たちのさえずりが聞こえ始めた。クリスマスのミサに行く大勢の人々が道を埋めだした。
その時、横たわるヨハンのすぐ側の道路を、いつもより一層大きなサイレンを鳴らして救急車が通り過ぎた。まるで、この救急車に乗っているのはとても大事な人で、一刻も早く病院に連れていなかければならないと叫んでいるようだった。
 その救急車のライトが一瞬、ヨハンの身体を照らした。
そこには、白く長い髭と赤い服を着ている老人の姿があった。そして、天上界では、聖ニコラスが行方不明になったと大騒ぎになっていたのだった。



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