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<短編小説>スコールの後で

 熱帯地方の雨は温かい。そして、スコールになると熱い空気が冷えて時が止まる。街の汚れをシャワーで洗い流した後に、何も残らないことで時が止まるのだ。次に気づいたときには、もうスコールは止んでいる。そして、天然のサウナだ。地面の雨水が、高温により一気に蒸発して、身体を取り巻く空気が猛烈な蒸し風呂に変わる。空気が冷えた喜びの次には、強烈な蒸し風呂のお返しが待っていた。自然は、やっぱり優しくはない。

 それでも、スコールは人に恩恵をもたらす。一気に天から落ちる水の塊は、雨樋を伝って桶に貴重な水を溜めてくれる。雨が多い熱帯地方でも利用できる水は限られている。スコールは、自然のクーラーであるとともにサウナ、そして天からの恵みでもあった。

 タイ東北地方の一面に畑が広がるある日の午後、何も動かない空気の中に、突然スコールは来て、すぐに止んだ。農家の軒先に佇んでいた一宮和夫は、スコールの大きな雨粒を眺めていたが、スコールが止むと、今度は軒先から滴り落ちる水滴をずっと見ていた。この暑い日中に戸外で活動する人は少ない。畑を取り巻く辺りには、ポツン、ポツンと農家が見えたが、そこからは昼寝をする人たちの寝息が聞こえてくるだけだった。その寝息の中をかき分けるように、果樹園のあぜ道を土煙とともに走る古びたオートバイが見えた。

 和夫は、自分あてに二週間毎にくる郵便と小包だとわかっている。こんな鄙びた田舎の農家へ、滅多に郵便が届くことはないからだ。和夫は何も考えずに、そのオートバイがゆっくりと近寄ってくるのを眺めていた。オートバイの配達夫は、いくらかタイ語を理解する和夫に向かって、小さな手紙とそれよりは少し大きい小包を微笑とともに差し出してきた。和夫は、いつものように1バーツ紙幣を手渡しつつ、「コップンカップ(ありがとう)」と言って受け取った。

 手紙は、日本の実家からのものだった。年老いた母が、慣れぬアルファベットで宛先を書きながら、実家に送られてきた和夫宛ての郵便とわずかな日本食材、そして日本の週刊誌などを送ってきたのだ。和夫は、郵便の転送はお願いしたものの、日本食材や週刊誌までは、お金もかかることから依頼していなかったが、母親は、遠くタイの田舎に行ってしまった一人息子を心配して、二週間毎にこうして送ってくれる。

 和夫は、小包を開けて日本食材を取り出し、タイ語で簡単な説明をしてから、農家の女主人に渡した。それから一冊の古びた週刊誌をぱらぱらと見たあと、週刊誌の表紙にある女性タレントの顔が何かとても薄汚く感じてしまい、無造作に脇へほうりなげた。すぐに農家にいる若い連中がやってきて、その週刊誌にある写真をむさぼるように見ることだろう。和夫には、そんなことを何も考えずにできる彼らが、どこか羨ましかった。

 次に和夫は、ゆっくりと封書や葉書の束をひもといて、ひとつひとつ几帳面に中身を確認しながら、「不要」と「要処理」と書いてある紙箱に仕分けした。これは、この無為なタイ暮らしの中で、二週間に一回、和夫が自らに課している作業であり、この作業をしていることでかなりの時間がつぶれるのが嬉しかった。また和夫にとって、この短調な作業をしている時間はとても貴重だったが、ときおりどうしようもない無聊感に襲われることまでは、止められなかった。それは、たとえ「要処理」とあっても、このタイの片田舎ではどう処理しようもないということから来ていた。それでも、ただ郵便物を仕分けしただけで、何か意味あることをしているという満足感は残った。

 そうして数か月が過ぎた日だった。和夫がいつものようにスコールの雨粒と軒先から落ちる雫を眺めていたとき、もうすっかり顔なじみになった郵便配達夫から受け取った手紙の中に、気になるものがひとつあった。いや、正確に言えば、その差出人の女の名を見たとき、和夫は機械的に何も考えずに、いや考えることを停止して「不要」の紙箱に入れた。そう、確かに入れたが、次にその手紙は、「不要」の箱から「要処理」の箱へ移動していた。まるで手紙が自分で勝手に移動したような後、その手紙は和夫に対して得体の知れない視線を長く送っているように感じた。なにか、誰かに背中の手の届かないところを刺激されているような、そんな嫌な感じだった。

 そうした「嫌な刺激」に押されるように、スコールの止んだ後の蒸し暑くべとつく空気の中で、和夫は手紙の差出人を改めて見た。知っている名というのは、最初からわかっていた。そして、その名から浮かんでくる情景が勝手に和夫の頭の中に次々と見えてきた。そうだった。昔日本にいたとき、いちどだけ相手の家に泊まったことがある女の名だ。なんでその女の家に泊まったのかは、もう忘れた。いや、たぶん忘れたいような嫌なことがあったから、わざと和夫は忘れたのかも知れない。その記憶をほじくり返すことはしたくなかったし、もしやったらサウナでのぼせる以上に、和夫の頭が混乱することはわかっていた。和夫にとって、その名と家の記憶は、遠い過去の暗闇の中にある厳重な金庫に閉じ込めねばならない、そういう類のものだった。

 こうして、和夫がタイに「逃亡」してしまった後は、絶対に自ら連絡をとることはしないし、向こうからも連絡してくることはできなくなった。そのため、自分の友人たちにもタイの住所を教えることはしなかった。しかし、誰か共通の友人(しかし、そいつは一体誰だ?共通の友人なんていただろうか?)に実家の住所を聞いたのだろう。そして、実家の母親は、息子の「女」かも知れないという親切心から、タイの住所を教えたのだろう。たぶん、そうだ。そこは「女と女」という、自分たち「男」にはうかがいしれない、何か秘密の関係があるのかも知れない。

 そこまで想像をめぐらせた和夫は、そこから先に進むことをためらった。いや、自ら拒否したのだ。タイに今いるのは、自分をなにもかもリセットしたかったからだ。そのリセットを台無しにするような、過去の記憶には触れてはならないのだ。過去は、ファウストが言うように「過ぎ去った」のだ。メフィストフェレスがいかに反論しようとも、「過去は戻ってきてはいけないのだ」。たとえそれがどんな理由であっても、またこれからの自分の利益になるのであっても、絶対に過去には触れてはならないのだ。特に和夫が抱え込んでいる「過去」には。

 和夫は、その手紙を取り上げ、その封を開けず、また「不要」と「要処理」のどちらの箱にも入れず、軒下の地面に置いた。蟻が数匹通っているのが見えた。とても黒い土だが、連日のスコールでかなり湿っていた。和夫は立ち上がって、台所にあるマッチを持ってきた。その手紙の端に火を付けた。スコールの雨粒は、手紙に小さな飛沫となって押し寄せていたが、その火は、まるで強い感情が飛び散るように燃えた。またその火は、紙が単純に燃えているようには見えなかった。まるで、そこにある言葉が怒りを発して、雨の中で激しく燃えているようだった。そして、わずかばかりの黒い灰が残った。

 その黒い灰を、わざとサンダルで踏みつけてこなごなにしながら、和夫は、そのままいっそう激しくなったスコールの下へ、ゆっくりと歩き出した。まるで熱いシャワーを浴びているようなスコールだったが、和夫はその雨粒のひとつひとつを、自分の身体にわざと打ち付けるように、そこでしばらく佇んでいた。ふと気づくと、この農家に住み着いている野良猫が、軒下から和夫の姿をじっと見ていた。何か言いたそうな感じがしたが、和夫はわざと野良猫の視線を無視した。スコールの雨粒が、自分の身体の中の細胞ひとつひとつを、わしづかみにして洗っているような、そんな気分に和夫はなっていた。そして、「これで帰れるかも知れない」と、さっきの野良猫に向かって小さく囁いた。野良猫は、ぷいっとそっぽを向いた。

 農家の女主人は、外の畑が見渡せる台所で、大勢の夕餉の支度を忙しなくしながら、スコールに打たれる和夫の姿を黙って眺めていた。そして、今降っているスコールは、いつもより少しだけ長く降り続いているように感じた。もしかすると今のスコールは、和夫のために長く振り続いているのかも知れない、と女主人は思いながら、夕餉のための香辛料をすり鉢ですりつぶし続けた。タイ特有の香辛料の強い香りが、あたり一面に漂い、スコールの蒸気がもたらす匂いと混ざっていった。

 やがて、スコールは止んだ。ずぶぬれになった和夫は、身体からしたたり落ちる雨粒を拭くこともせずに、女主人にタイ語で一言だけ伝えた。「明日、日本へ帰ります。コップンカップ」。それを聞きながら、女主人は夕餉の支度をする手を休めず、また和夫の方を見ることもなく、ただ顎を少しだけ下げた。まるで、和夫の言葉を聞く前に全てをわかっているような、そんな顔をしていた。いったい誰が彼女に和夫の気持ちを伝えたのだろう。ふと黒土の土間を見てみると、彼女の足元には、さっきの移り気な野良猫が眠そうにうずくまっていた。

 スコールが止んだ後の畑には、いつものように遠くに虹が出ているのが見えた。最近では大きくて、美しい虹だった。そして、虹の方角をまっすぐ歩いて行けば、そのうちに日本に辿り着く。


<私が、アマゾンのキンドル及び紙バージョンで販売している、世界各都市についてのエッセイ及び短編小説集です。宜しくお願いします。>



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