<書評>『アラブ的思考様式』、『アラビア遊牧民』
『アラブ的思考様式』 牧野信也著 講談社学術文庫 1979年
『アラビア遊牧民』 本田勝一著 講談社文庫 1972年 初出は1965年の朝日新聞
『アラブ的思考様式』は、『アラビア遊牧民』と同じ講談社文庫でも「学術」と称している専門的なものであり、本田勝一のようなルポルタージュではないが、東京外語大教授の著者が実際にアラブで経験したこと及びアラビア語に関する研究成果をまとめたものである。従って、そこには本田勝一が得意とする政治的なメッセージは皆無であり、またルポルタージュという形体から、本を売りまくるということよりも、アラブについての研究成果を多くの人に知ってもらいたいという純粋な学術的視点で書かれたものだ。
『アラビア遊牧民』は、『カナダ・エスキモー』、『ニューギニア高地人』に次いで書かれたもので、朝日新聞社本田勝一記者の探検記三部作と称されて、いずれも出版当時はベストセラーになり、三部作をまとめてものも当時の日本社会で大評判となった。現在と違い、1960年代後半の日本は、海外旅行そのものが特別なものであり、また1964年の東京オリンピックで初めて多くの外国人を見る体験をしたこともあり、この種の旅行記は大衆の希望に応えるものであった(例えば、小田実『なんでもみてやろう』、北杜夫『ドクトルマンボウ航海記』、兼高かおるのTV番組等)。
その後本田は、朝日新聞社の社風に沿って、反米・親共産主義のいわゆる左翼文化人としての政治活動に向かい、アメリカ(の市民運動)、ベトナム(戦争)、中国(の文化大革命)のルポルタージュを次々に発表する。こうした左翼文化人の著作は極端かつ一方的な視点のものばかりであるため、私の趣味に合わない対象ではあったが、この探検記三部作を書いた頃の本田はまだ政治的に先鋭化する前であったため、アラブという日本人には馴染みのない民族に関する貴重な記録として読むことにした。
なお、エスキモー、パプアニューギニア、ベドウィンらの人たちを取材した記録を、「探検」と称することは、現在の倫理感からすれば、これらの人々を(親近感を持って叙述しているとはいえ)見下し、またサーカスの見世物のような感覚で表現しているという、差別そのものと言われても致し方ない部分がある。また、彼等と日本人を比較して、文化的な優劣を問うようなこともしている(一方、彼らの文化を尊重する視点も少しだけ見せているが)ため、左翼文化人の用語を借用すれば「帝国主義的植民地主義」の意識そのものである。しかし、これを「歴史的記録」という視点から見れば、当時の日本の新聞記者が、どのような視点を持っていたかの歴史的資料ともなるため、ここでそうした批判をすることに意味はないと思う。
ところで、この二冊を購入した時、私は大学生だったが、文化人類学を学ぶ中でアラブについては何も知らないことに歯がゆさを感じ、授業で参考書として教示してもらった後、早速お茶の水の本屋で購入した記憶がある。しかし、その当時は、約三十年後に自分がアラブの国であるヨルダンへ転勤することになるとは、まったく想像していなかった。今考えると、この時からご縁が始まったのかも知れない。
以下二冊に分けて、私が注目した箇所を紹介したい。ページ数の次の( )内は、該当する箇所の小章題である。また、<参考>として、私の意見を付けた。
『アラブ的思考様式』から、ピックアップした箇所は以下のとおり。
P.70-71(母音を表す文字はない)
アラビア語の文字はすべて子音であり、母音を表す文字というものは全く存在しない。そのため、子音のみを書きつらねていくのであるが、それを読むとき、文字として書かれた子音と子音の間に一定の母音を入れながら発音していく。(中略)
イスラームの経典クルアーンは、神について何かが述べられ、あるいは説明されている書物ではなく、預言者ムハンマドに啓示された神の言葉そのものの集成である。・・・文字として書かれていない母音のたとえ一つたりとも、間違って読むことは神をけがすことになり、これは絶対に許されない。
そこで、このような問題を避けるために、文字として書かれている子音の上下に符号をつけることによって、母音を表すことが考案された。
<参考>
私は、アンマンに三年間いたが、仕事や日常生活の大半は英語で通用してしまうため、アラビア語を習得することはなかった。しかし、市場やタクシーの運転手などにはアラビア語しか理解しない者が多いため、妻は基本的な数字や左右などの方向を覚えていた(さすがに今はもう忘れている)。その中で、私が覚えたアラビア語は、「シュクラン(ありがとう)」と「サラーム(平和)」あるいは「アッサラームアライクン(あなたに平和がありますように)」という挨拶の言葉だった。
意外とこれだけ知っているだけで、コミュニケーションが円滑になるのは、例えば日本に来ている外国人から「ありがとうございます」、「こんにちは」と言われると、なんとなく嬉しくなってしまうのと同様だと思う。なお、こうしたカタカナ表記したアラビア語の発音だが、引用文のとおり子音で構成されているため、日本人には英語やフランス語以上に良い発音は難しい言葉だと思う。
P.121(思考様式の個別主義と深く関連)
・・・アラブには古くから部族制度があったが、各部族の規模は、元来、部族という名称から想像されるほど大きいものではなかった。そして注目すべきことに、ここには、たとえば、古代イスラエルにおけるような諸々の部族全体の、しかもかなり恒常的な連合体といったものはみられず、個々の部族は相互に同盟を結ぶことはあるにしても、それは一時的かつ部分的なものであるにすぎない。そして多くの場合、それぞれの部族は互いに攻撃と復讐を繰り返して反目するか、あるいは休戦の状態にあっても、相違なる部族が互いに長期的に結びつくということはほとんどなく、全体としてみた場合、諸部族の関係は個々にばらばらである。
<参考>
アラブ人にとって、自分の所属する単位は家族あるいは親族だけだと思う。それはインド圏に住む人々と同じだった。自分と家族そして親族以外は全て敵対する人間なのだ。だから、国やxx人という概念はないし、生じることもない。従って、国境線を引くことや、国としての行政府を持つことには無理あると思う。
P.139(「移動も滞留も結局は同じこと」)
(人類学者片倉もと子氏の調査から)遊牧民にとっては、移動するか、あるいは定着する、ということは彼らの生活の根本にかかわる重大問題であるが、彼らの一連のアンケート調査の中で、ある機会に、移動すべきか、あるいは定着すべきか、という問いを出したところ、それに対する彼らの返事が曖昧であったばかりでなく、「移動することと留まることとは結局一つだ(wahid)」と彼らは答えた。(中略)
・・・アラビア語の状態動詞およびその他の動詞において(・・・である)という状態を表す要素と、(・・・になる)あるいは(・・・する)という変化ないしは運動の過程を表す要素の両方が、各動詞の基本的意味として含まれている・・・。(中略)
・・・遊牧アラブに関する人類学的調査のデータと、彼らの言語アラビア語の意味論的分析の結果との不思議な一致にあらためて驚いた。
<参考>
私の経験したアラブ人は、アンマン在住の人が中心なので、当然定着したアラブ人ということになる。しかも大半は、欧米に留学して現代風な生活に染まった人たちだが、彼らは心の底には、昔からのテント生活に親しみを感じているように思えた。それは、食事をする際に大勢集まって一つの皿から食べるとか、また親族に囲まれて暮らすことに大きな幸福感を持つなどに表れていたと思う。
P.153(われわれの探求でわかったこと)
われわれの視点からみた場合、彼らは物事を、まず、明確なコントラストをなす二者間の対立としてとらえるのであるが、これはたんなる二元的な対立に終始するのではなく、他面において、両者は一つである。ただし、その場合、対立する二つのものは、仲立ちをなすものの媒介によって結びついて一つとなるのではなく、そのような媒介者なしに、両者は互いに対立するそのままの状態において一つのまとまりとして統合される。(中略)・・・つまり、AとBとは、その間に断絶を含んで対立しつつ、しかも、他面では、その断絶からくる緊張の状態にありながら、両者は一つのまとまりをなす、という逆説的統合の関係がみられるわけである。
<参考>
この見方は大変に参考になった。またこれは、マックス・ウェバーの『古代ユダヤ教』においても言及されていた概念で、そのためこれはアラブ人に限定した思考ではなく、中近東一体に共通する世界観ではないかと思う。ここから演繹すれば、中東紛争を第三国の仲介あるいは媒介によって終始するという発想自体が、当事者の概念に馴染まない。もし紛争当事者同士が和解あるいは統合できる可能性があるとすれば、ゆるい連邦制あるいはEUのような形態で囲い込むしかないのではないか。
P.170(冬――沙漠の奥深い別天地へ)
(サウジアラビアの)ムッラ族の人々にとって、ルブ・アル・ハーリー沙漠の奥深くまで入る秋の遊牧は幸福と満足のときである。ここは騒がしい都会の影響や中央政府の監督も全く感じられない自由の別天地だからである。
<参考>
アンマンで暮らしていたとき、標高800mの高地であったこともあり、冬は寒く暗く(大理石の床は)冷たく、陰鬱とした嫌な季節だったが、雨や雪が降っていることがありがたい時期でもあった。そして、春になってあちこちで緑が一斉に芽吹くと、それはまるで天国のような新鮮で清々しい気分を味わせてくれた。だから、地元民にとっても春が一番良い季節だと思っていたが、ベドウィンにとっては秋が一番良いというの意外だった。もっとも、都会に暮らすアラブ人たちにとっては異なると思うが。
P.177-178(家族内の個人のあり方)
・・・彼らの間での夫婦のつながりは、それがいったん成立してしまえば不変なものとして固定的に存続するといった種類のものではなく、アラブにとって結婚は、徹頭徹尾、契約による関係なのであり、個人と個人が一定の、しかもきわめて具体的な種々の条件を出して協議し合い、その上に立ってはじめて成立する契約の関係である。そしてこれらの条件は結婚を成り立たせるための不可欠な要因をなす。
・・・(契約が)満たされない事態になると、結婚は解消されることになる。つまり、離婚は契約の解消にほかならない。その場合、夫が一方的に離婚を宣言するとはかぎらず、妻がイニシアティヴをとることもある。
このように、結婚による彼らの夫婦の関係は固定的、連続的なものではなく、個人個人がはっきりと自己主張しつつ、両者の間にたえず分離の可能性を含んだ状態において、一定の条件の下に成立する著しく流動的な、そしてある意味できわめて個人主義的なものである。したがって、離婚は非常にしばしば行われ、しかもそれには、夫の側にも、妻の側にも、恥の感情はともなわない。
<参考>
これは実に以外だった。私の知っているイスラム兼アラブの結婚とは、まず経典の民となる「ユダヤ・キリスト・イスラム」の信者同士であることを前提にする。しかし、これらの信者でない場合(例えば日本人のような仏教徒あるいは無宗教)、イスラムの妻と婚姻する夫は、イスラムに改宗することが必要だが、イスラムの夫と婚姻する妻は、経典の民のいずれかであれば良い。これを日本人女性は「イスラムに改宗することが必須」と理解して、皆イスラムに改宗し、厳しい戒律(特に飲酒と豚肉の禁止)に苦労している。
しかし、もっと戒律が厳しいユダヤは除外して、キリストに改宗すれば、(夫やその家族の前ではできないが)飲酒や豚肉を食することが自由になる。これは意外と知られていない。また、離婚については、夫の側から離婚を要求できるが、妻の側からの離婚請求権は例外を除いて基本的にないと理解していた。
一方、都会のアンマンに住んでいる女性は、スカーフすらしない人がいるくらいヨーロッパ化されているが、南のベドウィンの女性たちはそうではない。顔を隠すスカーフのみならず、女性が一人で家の外に出ることはできない。これは、イスラムよりもアラブの家父長制及び男性中心社会に起因すると理解していた。したがって、婚姻も離婚も女性の側が主導権を握ることはなく、すべて父・男の兄弟・夫によって、女性の行動や人生は縛られていることになる。
ところが、ベドウィンの社会で婚姻は平等な契約行為であり、従って妻の側から離婚請求することが、条件付きながら可能であり、実際にそうしたことが認めているというこの説明は、非常に参考になった。しかし、それでも実態としては、契約上可能であるとしても、妻の側からの離婚はかなり難しいのではないか。
P.201(神と人間との契約から人間同士の契約へ)
・・・ユダヤ教と同様、イスラームの場合も、神と人間との契約の思想ははっきりと認められるが、ここでは、さらにもう一歩進んで、「神と同じ契約を結んだ人間はみな、神の前で同等であり、その同等の人間同士が結ぶ契約は守られねばならない、と人間同士の契約のほうに重点が置かれる」。つまり、アラブにおいては、神と人間という、いわば垂直方向の契約関係のみでなく、人間対人間の水平レヴェルでの契約関係がきわめて重視される。
<参考>
これは、昔からアラブ社会を説明する際に繰り返し述べられることである。そして、この概念はマックス・ウェバー『古代ユダヤ教』でも言及されており、ユダヤ人にとってヤハウェの神との関係も契約行為であったと説明している。
私は、この「契約」という行為を媒介として、神と人間が対等の立場にいることに驚いている。つまり対等の立場であれば、神は絶対者ではないから、人間に幸福を与えるとともに不幸も与える。喜びもすれば怒りもするし、機嫌が悪いときもあれば、契約を履行しないこともあることが想定される。こうした極めて「人間的な神」とは、一般的な宗教でイメージされる彼岸的存在ではなく、此岸に実在した存在だったのではないか。そしてその存在とは、古代に地球を訪れた地球外生命体だったのだと思う。
P.207-208(契約の履行も解消=離婚も当事者間で)
・・・契約としての結婚にかんしてまず第一に重要なことは、契約の当事者は花婿と花嫁自身であり、家と家との約束ではないということである。・・・結婚の当事者としての花婿と花嫁とは、冷静に事を運ぶことができないため、契約を結ぶに当たっての個々の事項、たとえばマフル(花婿が支払う金)の前払いと後払い(夫の死亡時あるいは離婚時に渡す金)の額、および結婚後にどこに住むか、一夫一婦を守るかといった事柄について、花嫁花婿の近親者が、二人に代わって、きわめて現実的かつ具体的に協議する。(中略)
このような契約としての結婚のあり方というものは、それを支える根本的思想という点からみると、物事をまず二つのものの明確なコントラストにおいてとらえ、しかも、その両者を媒介者によって結びつけるのではなく、対立のままの緊張をはらんだ状態で、具体的なものに重点をかけつつ、ダイナミックに統合していくという、先に私が言語構造の分析によって意味論的に取り出した思考のパターンにぴったり一致するように思われる。
(注:婚姻の申し込みは、花婿の側から花嫁の父などに近親者を通じて行なう。女性はベールを被っているため、顔を見ることができないが、7―8歳までは素顔を見せており、また同じ部族として子供時代に共に暮らしているので、花嫁の顔を花婿は覚えている。)
<参考>
婚姻の契約行為を当事者同士で行わず、家族が代行するというのは、実質婚姻の家同士あるいは家族同士で決めることと変わらない。そこに当事者の意志を反映しつつ契約を冷静に運ぶためとしているが、これは名目だけであり、実質は当事者の意見を無視して家同士あるいは家族同士で婚姻を決めていることになると思う。
つまり、「建前と本音」、「理想と現実」ということなのではないか。また、子供時代の記憶だけを頼りにして、婚姻相手を決めるというのことにあまり意味はないと思う。一般に人の姿かたちは、成長するにしたがってかり変わる。実際に結婚していたら、まるで別人だったということは多いのではないか。
『アラビア遊牧民』から、ピックアップした箇所は以下のとおり。
なお、(50)という原文表記は年齢を表しているので、(50歳)のように変更した。また、「アラビア遊牧民」とはベドウィンのことであり、『アラビアンナイト』の時代から、「アラブ」といえば砂漠の遊牧民であるベドウィンを意味しており、同時に隊商を襲撃略奪する危険な部族の総称でもあった。
P.70(サバクの船)
一般にヤギよりラクダの乳の方が「強い」といい、ベドウィンたちはラクダの方が価値ある乳と見ている。淡泊な味だから、水がわりに大量に飲むこともできる。冬の間、緑の生き生きとした草があるときなら、ラクダと共にいるかぎり三ヵ月間水なしでも平気だと、フセイン(50歳)は言っていた。ラクダの乳を飲んでいられるからだ。ベドウィンは、ラクダと共にいる限り、食糧庫と水タンクを持ったガソリンのいらぬ車に乗っているようなものである。「サバクの船」ともいわれてきた。
<参考>
私はヨルダンのアンマンにいるとき、妻が外資系のスーパー(カルフール)で販売されていたラクダのペットボトル入りのミルクを飲んだことがある。それは、おそらくラクダのミルクそのままではなく、コーヒー風味が付けられていたもので、色も日本のコーヒー牛乳のようだった。試しに飲んでみたところ、コーヒーの風味がラクダ特有の臭みを消しているようで、違和感はほとんどなかった。
しかし、先入観から「臭い」という味覚が染みついているため、どこか頭の中で「ラクダ(獣)臭いな」という感覚を持ちつつ飲んだ。また、特に旨いという感じもしなかったので、二度と飲むことはなかった。ちなみに、興味本位で購入した本人である妻は、一口飲んだだけですぐに止めていたが、もし砂漠の中でこれしか飲料と食料がないと言われれば、違和感なく飲めたと思う。もちろん、コーヒー風味が付いているという前提だが。
P.127(サリムの歌)
公然たるドレイ制度の国は世界でサウジアラビアが最後となっていたが、三年前(注:1962年)から廃止されたため、今ではベドウィンも使っていないようだ。ドレイといっても、貧困な自由人より豊かな暮らしをしていた者が多かったので、解放されたときは行き場がなくて困ったそうだ。結局月給取りとなってもとの主人のところに残ることが多い。ドレイもサラリーマンも本質的に同じだという証明である。
<参考>
サラリーマンは奴隷労働であるという表現には、思わず笑ってしまった。しかもたいていのサラリーマンは、奴隷労働で得られる対価が十分とは言えないから、苛酷な奴隷労働・奴隷契約だということになるだろう。これは、名称が変わったというだけで、人類における主人と奴隷との関係は、太古の昔から現代まで続いていると言える。
冒頭に記したが、私は、仕事の関係でヨルダンのアンマンに、2016年9月から2019年9月までの三年間滞在した。その間に、ヨルダン国内では、紅海に面したアカバ、岩石砂漠のワディラム、ローマ時代の遺跡が残る町、そしてイスラエルとの国境となる死海へ行った。近隣国では、エジプトのナイル河クルーズで遺跡観光等をした。私の「アラブ体験」はこれだけである。そこには、研究や探検というものはない。また、体験した対象も、どれも易しいものだ。
一方、今回対象にした二冊のアラブ本では、主にサウジアラビアとベドウィンを題材にしているので、私が体験したアラブとは少し違っている。より正確に言えば、アンマンに在住するヨルダン人の半分以上は、度重なる中東戦争で逃げてきたパレスティナ人であるから、ベドウィンとは距離がある人たちだ。アンマンには、東に国境を接したイラクからも多くの人々がヨルダンに来ている。さらに北のシリアやレバノンからの難民が多数いて、ヨルダンに長期滞在した働く者もいる。そして、エジプトから出稼ぎに来て、「ハリス」というアパート(日本ではマンション)の門番兼用務員をしている者も多数いる。
もちろん、サウジアラビアと国境を接する南ヨルダンには、もともとベドウィンとして生活していた者がいるが、今は放牧生活よりも観光客相手の仕事が忙しい(特にアカバやワディラム)。さらに、アンマンなどに出て来て定住し、労働者となっている者も多数いる。従って、牧野や調査し、本田が取材した時とはかなり違っている。
特にヨルダンは、宗主国であった英国よりもアメリカとのつながりを(地政学的かつ軍事的理由から)強くしており、(現アブドラ国王は、アメリカの大学を卒業しておりアラビア語より英語に堪能である)、アンマンの街中の風景は、ハリウッド映画を上映するモール内の映画館や大手チェーンのハンバーガーショップなど、衣食に関するアメリカの影響が年々強くなっている。
さらに、欧米系のスーパーが進出しており、日本人が通常の買い物に困ることはまずない。ただし、イスラムによるアルコールの制限はあるので、酒類は(ワインやビールを製造しているが)高額であり、また販売している店も限定されている。一方レストランについては、高級店では違和感なく注文し、また無制限に飲めていたので、アルコールの欠乏感はなかった。ヨルダンのアンマンについては、かなり東南アジアのイスラム教国のようになっている気がした。
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