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<閑話休題>『明日に向かって撃て!』のことなど

 ジョージ・ロイ・ヒル監督の映画『明日に向かって撃て!』の原題名は、(誰もが知っていると思うが)『ブッチ・キャシディ アンド サンダース・キッド』というもので、主人公二人の名前を並べている。これは、アーサー・ペン監督の映画『俺たちに明日はない』の原題名『ボニー アンド クライド』という、主人公二人の名前を並べたものと同じであり、またアメリカでの公開時期も近いので、これが当時の流行だったのだろう。一方で、どちらも日本公開題名は、それぞれ映画の内容を上手く表現しており、この公開題名だけで、もうヒットが約束されていたように思う。洋画配給会社の成功例と言える。

 この二作品と同じように、日本公開題名が原題名と大きく異なる映画の代表として、ジャンリュック・ゴダール監督の出世作『勝手にしやがれ』がある。このフランス語の原題名は『息切れ』というもので、このままだとどうやってもヒットしそうにない。それで洋画配給会社の人たちが会議を重ねたが、いつまでたっても妙案が浮かばない。とうとうある人がしびれを切らして「勝手にしやがれ」と言ったところ、「おっ、それでいこう!」となったのは、有名な話だ。そして、この邦題は歌謡曲などにも利用されるなど、本家本元の映画を知らない人たちも良く知る言葉になっている。

 それはさておき(ちなみに、これを漢字にすると「閑話休題」となる)、『明日に向かって撃て!』に話題を戻す。この映画は日本公開時にオンタイムでは観ていないが、私が高校生の頃は、東京の各地の名画座でいつも上映されていて、『俺たちに明日はない』と同時上映の場合もあった。また私がこれらの作品を観た頃は、ジョージ・ロイ・ヒル監督がちょうど『スティング』でアカデミー賞をもらったので、余計に人気があった。

 そういうわけで、私は人気のある映画という前提でこの二作品を観に行ったのだが、その時の私は、少し年上の全共闘世代の人たちが「若者の反乱と挫折」という観点から酷く共感したような、そんな感想にはまったくならなかったのを覚えている。既に時代が大きく変わっていたのだ。そのため、私の最初の印象としては、「男二人と女一人というストーリーが流行しているのだな」という程度だった。

 その頃の私は、こうした流行のハリウッド映画ではなく、イングマル・ベルイマンやフェデリコ・フェリーニの作品に傾倒していたので、どこか冷めた気分だったのだ。なお、ゴダールも私の志向に合いそうだったが、当時のゴダールは共産主義運動にのめり込んで毛沢東礼賛映画等を作っていたので、完全に私の対象外であった(同じ頃、私は共産党員かつ職員組合幹部の高校教師に連れられて、北朝鮮映画を観に行かされたのだが、最低かつ最悪という感想を伝えたら、激怒された思い出がある)。そして、『勝手にしやがれ』は上映している名画座が少なかったため、ずっと未見だった(もちろん、ビデオ・DVD・インターネットなどは遠い未来のものだった)。

 ところが、さすがにヒットした良い映画だ。その魅力は、じわじわと私の中に溶け込んでいった。特に『明日に向かって撃て!』のいろいろな場面や音楽は、年月を重ねるにつれて徐々に強くなりながら、私の記憶に止まり続けた。そのうちに、何かのきっかけがあると、映画の場面やストーリー、そして音楽が浮かんでくるようになっていた。

 それを一番実感したのは、私が最初の海外勤務地であるNZのウェリントンで、ラグビーとビール三昧の楽しい三年間を過ごした後、パワハラ人事でバングラデシュに転勤させられた時のことだった(この時のことは、拙著『スワーブを切りながら』に細かく書いているので、ご関心がある方は参照願いたい)。

 旅立ちの日のウェリントンの空港には、誰も見送りに来る人はなく、また出発を手伝ってくれる人もいない。私は黙々と一人でチェックインし、乗り換えのオークランドに無言で向かった。飛行機の窓の下にある長閑なNZの牧場は、大きな感情なしでは見ることはできなかった。そして、オークランド空港の出発ロビーで、「これが最後だ」と思いながら、NZのビールをしみじみと味わった。

 翌日、海外送金用の銀行口座を開くためバンコクに立ち寄り、タイにいる知人と夕食をともにしたときは、まだ「塀の外にいる」という束の間の瞬間だった。しかし、ダッカに到着したとき私は、空港の外に見えた想像以上の光景に茫然とした。私の荷物の運搬を手伝うことで小銭をせびる乞食の群れに、私の心は言葉すら忘れていた。

 こうした一連の流れが、『明日に向かって撃て!』の場面とシンクロナイズしていた。主人公が西部を追われる場面は、NZを去るときと重なった。ニューヨークで遊んでいる場面は、バンコクでの享楽と同じだった。そして、ボリビアの何もない駅に降り立った場面は、私がダッカ空港に着いたときとまったく同じ風景に映っていた。

 そして、こうした場面に流れていたバート・バカラックの、時には楽しい、時には哀しい音楽は、私の頭の中で絶えることなく聴こえていた。ダッカに着いた私には、映画の主人公同様に「明日はなかった」。どうしようもない絶望感の中で、全てを喪失した私が、これからどうやって生き続けられるのか、それだけを考えてバングラデシュで自分の仕事をしていた。

 映画の主人公は、既に天国に逝っているが、私は今を生き続けなければならなかった。その答えを見つけられる映画は、どこにもなかった。そもそも、当時のバングラデシュで最新のハリウッド映画などを観られる環境はない。もちろん、ベイルマンやフェリーニは論外である。観られるものは、「能天気に歌って踊るだけ」のインド映画だった。私は、ただただNZの思い出に浸ることで、長い時間をやり過ごしていた。

 そう、私にとってNZの姿は、『明日に向かって撃て!』の最後のストップモーションのように、オークランドで最後のビールを飲んだところで、永遠に止まっている。

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