<閑話休題>「天邪鬼」と「教祖様」、そして「敵前逃亡」
このnoteに書いているラグビー記事を、あるSNSのラグビー関係のグループにリンク貼りしたことがある。そして、既に何回か書いたが、オールブラックスに関する記事の一部を「間違いだ!」とクレームされ、さらに「日本でも人気のあるチームなので、誤ったことを広めるのは許せない」と中傷された。
そのグループを少し調べてみたら、最初にクレームした人はそのグループの「教祖」のような存在で、あとから中傷した「巫女」のような人から「ラグビーの神様」扱いされていた。そのため、さっさと「敵前逃亡」させてもらったのだが、これを奥様に話したら、「あなたが教祖になればいいじゃない」、「そして巫女から、XXさま~、教祖さまの言うことはなんでも正しいです~」って言われればいいじゃない」と言われた。
しかし、もしそうなったら(絶対になるわけはないが)、天邪鬼の私はすぐに「敵前逃亡」してしまうだろう。なぜかと言えば、多くの人から期待される存在になることが耐えられないからだ。自分一人さえ生きるのに苦労しているというのに、別の人、それも多くの別の人たちの「生きがい」とか「生きるためのネタ」にされて、その「期待」という重荷を背負って、いつもそれに応えようとして苦労するなんて、そんなことに私は耐えられるようには作られていないのだ。
だから、私は誰からも期待されず、また誰からもクレームされない程度の範囲で、悠々と大海に浮かぶクラゲのように漂っているのが一番心地よい、と思って生きている。
でも考えてみたら、世の中の芸能人とかスポーツ選手とかは、こうした多くの人たちから「生きがい」にされる生活を送っているのだから、つくづく大変な仕事だと思う。そうしたことが、その人の生活の糧を稼ぐ手段だと言ってしまえばそれまでだが、芸能人のように自らの私生活ネタまでを販売して営利を得るというのは、精神的に相当割り切らないとできないものだと、ちょっと尊敬してしまう。
結局、私は小市民だから、そうした精神的プレッシャーに耐えられないし、耐えようとも思わないので、小市民としての普通の生活を送るのが精一杯で、芸能人やスポーツ選手のような豪勢な生活を送ることとは縁遠いなのだと、改めて実感した(そもそも、そんな仕事や生活ができるわけでもないので、真剣に心配する必要は、もとからさらさらないが・・・)。
しかし、こうした群衆のファナティックな心理は、青春メロドラマの世界に通じていて、いささか気色悪い。「青春だ」、「純愛だ」と叫んだところで、そこに真理は存在しない。あるのは、TVショッピングでどろどろした購買欲を煽る虚言に似た、瞬間的に沸騰した心理状態だ。スポーツの世界でも同様だ。スポーツで語るべき対象は、グランド(それが行われる場所の意)の上だけのものだ。そこに個々人のプライベートな物語を導入して、まるで青春メロドラマのように劣情を盛り上げるやり方には、嘘という概念がまっさきに浮かんでしまう。
だから、特に日本の高校野球に関するメディア報道には、いつもうんざりしている。野球というスポーツ以外のところで、その価値を評価するような扱い方は、例えば100m走をタイムでなく、フォームで勝敗を決めるのと同じだと、なんで気づかないのだろう。
さらに、芸術作品、文学作品についての解説も同様だ。作家のプライベートは作品の解釈とは関係ない。作品はそれ自体として鑑賞・読み込まれるべきだ。なぜなら、作者と鑑賞者・読者は全く違う環境にいるからだ。そして、優れた作品は作者の背景から独立して鑑賞され・読み込まれ、見る側・読む側の個々の体験を通して多様に読み込まれることによって、優れたものとなる。
A.アインシュタインが相対性理論を作った背景として、本人を取り巻く複雑な女性関係が影響したという解説者は、さすがにいないだろう。物理学の理論も、芸術の理論も、文学の理論も、みな同じ土俵に立っている。力士が愛人問題のために土俵で酷い相撲をとったら、日本の八百万の神々は、さぞお怒りになることだろう。