<閑話休題>男を磨かなくては・・・
(これは、1999年頃に書いたものの採録⦅一部修文・改変⦆ですが、今の時代でも十分に面白く案外古びない話題だと思います。)
2月上旬の大手新聞の特集欄に、みんな結婚しなくなって独身男女が増加していることを問題にするレポートが掲載されていた。
先進諸国の男女、とりわけ急激な風俗の進化をしたように見える今の日本の男女が結婚しなくなったことの理由は、私自身としては、ダーウィン進化論に基づく、個体数の増加と性質の改善の限界からくる種の削減と、種の変異への生物学的な本能によるものだと理解している。つまり、現在の日本人は既に消滅に向かっており、その証拠が非婚として目に見えているのだと思う。そして、私自身は日本人が消滅することに対して、決して悲観するようなことではないと考えているし、それが人類種としての進化の必然であれば、抗いようもない自然の摂理だと思っているからだ。
ところが、前述の大手新聞の特集には、なぜ結婚しないのかと34歳の女性にインタビューした項目があって、要点としては「いい男がいない」ということが主要な理由に挙げられていた。また一方の理由では、自分たち女は自分自身を磨いて、どんどんいい女になっているのに対して、一方の男たちは自分自身をいっこうに磨こうとしない、と強く批判していたが、この主張はとても面白く感じられた。(注:2022年の今、こうした「自分磨き」というのは、一種のトレンドワードになっており、老若男女問わず、日本人のほとんどが意識して行っていることになっている。あるいは、社会から賞賛される自己の行為に変化している。15年で日本人男性の意識は確実に進化しているようだ。)
これを読んで、決して言葉尻をとらえるようなことをするつもりはないが、「自分自身を磨く」とは一体どういうことなのかと疑問に感じたので、私なりに考察してみることにした。
私が推測するには、先の大手新聞に載った女性の言わんとする「自分を磨く」とは、おそらく高価なエステティックサロンに通って肌をきれいにし、高価なフィットネスジムで肥満を防ぎ(かつファッションモデルのような痩身を目指し)、高価なカルチャースクールで資格や教養を身に着け、さらに高価な海外語学(英語、フランス語などを想定している)留学をして外国語に堪能とみられることだろうか。
私個人の女性趣味をここで述べても意味ないので避けるが、世の一般男性とみられる人たちの女性への好みは、こうした「磨かれた女」にあるとするのならば、逆に彼女ら「磨かれた女」のイメージする「磨かれた男」とはどういうものになるのだろうか。それは「磨かれた女」たちと同じようなことをして、さらに一般的に相応しいといわれる条件(高身長、高学歴、高収入、高い社会的地位、さらにひと昔前なら高級外車)を付け加えれば、まさに結婚しても良いと思うような、金持ち芸能人のようなかっこいい男のイメージになるのだろうか。
こう考えてみると、けっこう今どきの男たちも(1996年においてすでに)エステティックサロンやフィットネスジムに通っているし、カルチャースクールで学んでもいる。さらに語学留学をして流ちょうに外国語を使う男も多い。年収や容姿については個人差があるので、特に容姿は整形でもしない限り厳しいものがあるが、けっこう一般的な女性同様に自分を磨いているのではないかと思えてくる。
そして、こうした具体例を一つ一つ見ていくと、結局くだんの大手新聞のインタビューに答えていた女性は、単に自分好みの年齢・身長・容姿・経済的条件等に合う男に出会っていないだけではないかと思えてくる。そして、それを他者に責任転嫁するための「自分を磨いていない」という言葉に表現したのではないだろうか、と想像する。
しかし、そんなインタビューの背景を掘り下げることもよりも、そもそも本当に「男を磨く」ということは、いったいどういうことなのだろうか、と私はさらに悩んでしまうのだ。
前置きが長くなってしまった。私は「男を磨く」ということの答えは、司馬遼太郎『竜馬が往く』を中心に見ることで、案外わかるように思っている。なぜなら、そこには男女ともに感動するような坂本龍馬を筆頭にした、多くの「磨かれた男」たちが躍動しているからだ。
例えば坂本龍馬を見てみよう。彼自身は、当然のことだが生まれてすぐに磨かれていたわけではない。まず、姉の乙女、次に友人の武市、幕府方の勝らによって、みるみる磨かれていく。またそうした中で、朋友らと競い合い、敵と戦い、あらゆる艱難辛苦を乗り越えることで、益々磨かれていく。
読者は、龍馬が磨かれていく過程そのものに感動し、物語の最後に歴史上空前な大人物(まさに「よく磨かれた男」そのものだ)になったとたんに、刺客に襲われて夭折する人生に、大きな感動を覚える。この過程を別の言葉で表現すれば、そこには「物語・神話」のみが持つ特別な力がある。つまり、竜馬の事例から考えれば、男を磨くには、竜馬のような「物語・神話」を経験することが一つの条件となる。
そうすると、困ったことになる。古代から現代にいたるまで、竜馬が生きた時代と同じ時代(環境)はそうそう発生していない。またそれを現代に再現しようとしても、「物語・神話」の世界に限定してしまうことに陥るだろう。なぜなら、何よりも情報が発達した現代では、竜馬の時代のような「物語・神話」を作ることがほとんど不可能になっているからだ。
そうした中であえて「物語・神話」を求めるのであれば、海外の非常に治安の悪い地域にわざわざ赴いて自分の命を無防備に危険にさらす、コンピューターゲームの作る仮想空間に入り込み、英雄の疑似体験をするといったことがあげられる。しかし、これらは所詮「物語・神話」の代役でしかないから、「男を磨く」ための効能をそこから十分に得ることは無理だ。
こう考えていくと、現代には「男を磨く」ための「物語・神話」がない世の中だから、そもそも男たちは自分を磨けるものを見つけられないという、絶望的な結論に至ってしまう。
では、今の男たちは自分を磨くことを諦めねばならないのだろうか。私は、逆説的ではあるが、男たちを磨いてくれる存在があると思っている、
それは女たちだ。龍馬も実は多くの女たちに磨いてもらっている。とは言っても、くだんの大手新聞のインタビューに答えた女性は、あらかじめ磨かれた男を求めているので、これから磨かれるのを待つ男は対象ではないし、そもそもそんな男を磨くようなボランティアをするわけがない。そうすると、男たちはなかなか女たちに磨いてもらう機会すら得られないという、厳しいジレンマに陥ることになってしまう。
それでも女たちに磨いてもらいたいと思う男が、唯一相手にしてもらえるとすれば、それは高い授業料を払うことになるが、いわゆる水商売の女性たちになるのではないか。世間の酸いも甘いも全て経験済みの彼女たちから、特に若い男はいろいろと磨いてもらうのが良いと思う。
でも、とさらに考える。くだんの大手新聞のインタビューに答えた女性は、こうした水商売に磨かれた男がいても、やはり「対象じゃない」と言って拒絶することだろう。つまり、非婚の女たちはさらに進化していくのに対して、進化が遅れた男たちは、ずっと未婚のまま取り残されてしまうようだ。
*シジュウカラ(この原稿を書いた1999年に、私は40歳だった・・・)
体調15cmの鳥。自分の人生は40歳(しじゅう)からだと思い込んでいる。40年も生きられない鳥なのだが、そのことに本人は気づいていない。
(「わしらの生き様よう見とけ」 スパニッシュ伊藤作 ビックコミック1999年2月25日号より、引用)
(付記)
以上が1999年当時に考えたことの再録(一部加筆修正)である。この作業を行った後、ふと気づいたのだが、この「男を磨く」ために女性を必要とするという考え方は、まさに、ダンテ『神曲』のベアトリーチェ、ゲーテ『ファウスト』のグレートヒェンに共通する、キリスト教的な罪を数々犯した主人公の男を、最後に救済する「女性原理」であることに気づいた。
もっとキリスト教的に言えば、まさにマリア信仰である。聖母として、息子イエスに次いで悩める人類を救済する偉大な力を持つマリアのイメージは、キリスト教以前のデメーテール(大地母神)やウェヌス(ビーナス、愛と豊穣の神)のような女性原理とつながり、大きな影響力を持ち続けている。また、実際マリア像には、人を癒す力があると思う(例えば、サンピエトロにあるミケランジェロの「ピエタ」像)。
したがって、この論考の結論は、「アベマリア」という一言に尽きるようだ。
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