【KYOTOGRAPHIE振り返り】主張ではなくただ伝えること【ジェームス・モリソン編】
KYOTOGRAPHIEの振り返り、3回目はジェームス・モリソンです。
作例などは載せないのでどちらかというと展示を見た人向けの考察ですが、
Xにたくさん上がってる写真を見ながらKYOTOGRAPHIEに行けなかった人にも楽しんでもらえたらと思います。
見た展示はシリーズ化して全部書くつもりなので、もしよければフォローしてください!
そして是非コメントやXでのDMでも良いので語りましょう。
人物などの概要
ケニア出身、イギリス育ちのフォトグラファーです。
撮るものは決まっていて、「世界中の子供達」になります。
被写体は子供達ですが、何を写しているかでいうと子供の権利、子供を取り巻く世界各国の状況を伝える作品が多いです。
展示の特徴
大きな空間に写真に強弱をつけずに、全て均等に展示されています。
部屋の写真と、その部屋の主(子ども)で1セットです。
写真に強弱や優劣はつけず、大きさや配置は等間隔なのですが、
隣り合う写真は真反対の状況のものでした。
イメージとしてはアメリカのスパイダーマンの子供の部屋の向かいに、
アフリカの貧しい子供の部屋の写真が設置されてる感じです。
作品の特徴としては
ではないかと思います。
同じものを撮ることで差分を強調する
まず鑑賞して感じたのが、「世界の子どもの状況を伝えるのにこんな方法があるのか」ということです。
貧しい子どもの状況を伝えるなら、ひたすら荒れ果てた地や労働している子供を撮れば良いと思いますし、実際にそういうドキュメンタリーフォトグラファーも多いです(良し悪しではないです)
ただジェームス・モリソンは一貫して「それぞれの国で同じものを同じように撮る」ということをやっています。
今回の展示は部屋とバストアップの顔写真で一貫しており、
嫌でも比較してしまいます。
同じものだからこそ違いがより浮き彫りになり、印象に残りました。
何かを目立たせるためにあえて同じものを同じように撮る、というのは改めての気づきでした。
ベッヒャー夫妻とも通じるものがあります。いやちょっと違うか
自分の思考や感情の表現ではなく客観的に提示する
もう一つ同じものを撮る効果として、淡々と客観的に伝える効果もあるなと思いました。
子どもの悲惨な状況をドラマチックに伝えるのではなく、
また「こんな可哀想な子どもたちを見てくれ」という主張もせず、
ただ事実が伝わってきます。
感情を動かすことではなく、思考させることが目的にも感じます。
表現主義とは対極にあるなと思いました。
写真家として風呂敷を広げる
もう一つ、KYOTOGRAPHIE全体を通して感じたことですが、
展示の凄さも相まってスケールの大きさ、やっていることの大きさが写真家としての一つの意義ではないかと思いました。
自分の周りだけ撮っている川内倫子さんも、種子だけを展示したティエリー・アルドゥアンも宇宙を感じさせるようなスケールの大きい写真です。
これをはっきりと意識し始めたのがジェームス・モリソンの展示を観てからでした。
もちろん写真に優劣はなく、スケールが大きい写真がえらい、という話ではありません。
ただ僕が目指したい写真家像です。
技術を感じさせない技術
ジェームス・モリソンは大きなテーマかつ「子ども」という共感を得られやすい被写体なだけでなく、
技術も高いです。
例えば部屋の写真は、露出やライティングのバランスが絶妙で部屋にあるものが全て均一に見えるように写されています。構図も整っています。
ポートレートは一発でプロだとわかるライティングがされています。
また、別のシリーズでは複数の写真の合成を駆使して校庭に散らばる子どもの配置バランスを取っていました。
ちゃんと見るととても上手いのですが、技術や機材の描写力に先に目がいかないように注意を払っているように感じます。
川田喜久治さんみたいに展示を見て「どうやって撮ったんだろう?」という写真はなく、
でもしっかり裏では伝えたいことを伝えるために技術を駆使していて、それを隠している、というのも「技術」だと思いました。
自分に取り入れるとしたら
実践はしにくいのですが、
自分の写真のスケールを大きくしようと思いました。
すごいものを撮らずとも、テーマやコンセプトの抽象度を上げ、規模を意識して大きくしてみるのは良い経験になりそうだと感じています。
そのためにはまず「写真をうまく見せよう」という邪念を捨てることだと考えています。
これは最近の自分のテーマで、
自分をすごく見せるために写真を撮りたくない、という悩みがあります。
その他の記事