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村越としやさんの写真から考察する生き方と写真の強度の関係性
noteのビュー数って読んでもらった回数じゃなくてタイムラインに表示された回数も含まれるんですね。
ということは思った以上に読んでもらえていないのですが、その反面メンバーシップの加入率は悪くないと思って悲しいやら嬉しいやら。
では本編です。
村越としやさんは福島出身で、長年にわたり福島の風景を撮影し続けている写真家です。
2024年には木村伊兵衛賞の候補になっていました。
めちゃくちゃストイックに、その行為を通じて写真の「強度」を探求している生き様がかっこいいなと思っていて、
今回は生き方や思想と、写真の強度がどのように関係しているのか考察してみます。
作品や作風について
冒頭にも述べたように、村越としやさんは、一貫して同じ土地を撮り続けています。他の種類の写真ももしかしたら撮っているかもしれませんが、
世に出しているのはいわゆるモノクロの風景写真です。
福島という土地はどうしても震災に引っ張られがちですが、
村越としやさんは悲惨さも復興の様子も自然の美しさも映さず、ただただ当たり前の光景を淡々と撮っています。
ただ震災はテーマにはしないものの、福島だけ撮るようになったのは震災がきっかけとどこかのインタビューで言ってました。
同じ場所で同じように撮っているので、どの写真がいつ撮られたものなのかわからないのも面白いですね(震災の被害があった土地だからなおさら)
写真の強度はどこから来るのか
この派手さはなくても静かでどこか力強い、いや普遍的?そんな感覚を受ける写真はどのようにして生まれるのでしょうか?
通常は普通のものを撮ると技術面での特徴が目につき、技術面で印象的なものがなければ普通のつまらない写真と認識されます。
たぶん田舎で三脚を使ってモノクロで風景を撮ればぱっと見は似たような雰囲気の写真になります。作風としてはかなり真似しやすい部類です。
それでも村越さんの写真だとわかるし、ありきたりでつまらないどころか、見ていて飽きない(強度の持続性がある)写真になるのはなぜかと考えてみました。
一つは毎日撮り続けて大量にある写真の中から強度の高いものを選んでいるというのはあると思います。それに加えて現像やプリントなど技術レベルが非常に高いのでクオリティが高いため、販売しても文句なしの作品になるのでしょう。
それ以上に、
見つめ続けることで生まれる、撮影者の中に堆積した時間
が影響していると考えました。少し抽象的なので補足します。
村越としやさんは写真集『沈黙の中身は全て言葉だった』で以下のように語っています。
地元を写し撮ることが、経験や知識という後から身につけたもので、自分自身の生まれ持ったモノやコトを削りとり、最後に何が残るのかを追求することならば、それ以外の地域を撮ることは、生まれ持ったモノやコト、そして経験や知識からあらたな好奇心や興味を見つけだし、自分自身をどこまで膨らますことが出来るかを、試していることだと思っています
写真をやる前からいた場所と、時間を経て写真の技術や経験を積んだ上で戻ってきた場所、その膨大な時間の中で変化するもの、しないものを見つめ続け、かすかな心の動きを捉えています。
この行為により、村越さんならではの深い関係性がその土地と築かれ、写真に独特の「強度」が生まれているのではないでしょうか。
「〇〇ならではの」はどこから生まれるのか
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