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諦めなければ、すべては伏線となる~望まない出来事と向き合うための一つの考え方~

人生において、私たちは数多くの「望まない出来事」に直面します。失敗、挫折、人間関係の断絶。その瞬間、私たちは深い苦悩を感じ、時として前に進む希望さえ見失うことがあります。

しかし、それらの出来事も、私たちが諦めない限り、必ず物語の中の「伏線」となる可能性を秘めています。私がこの真理に気づいたのは、スポーツ指導の現場での経験を通してでした。

物語としての人生

小説を読むとき、私たちは途中の苦難や失敗を「伏線」として自然に受け止めることができます。主人公が経験する挫折や、大切な人との別れ。読者である私たちは、それらの出来事が後の展開で意味を持つことを知っているからです。

しかし、自分自身の人生においては、同じように捉えることが難しい。それは、私たちが自分の物語の「途中」にいるからです。まだ見ぬ展開を知ることができない以上、目の前の困難を「伏線」として捉える確信が持てません。

だからこそ「諦めない」ことが重要になります。諦めてしまえば、その時点で物語は終わり、望まない状態は単なる「失敗」として固定されてしまうからです。

伏線は多様な形で回収される

「伏線」が意味を持つ瞬間は、必ずしも「成功」や「勝利」という形だけではありません。時として、その経験自体が私たちの人生に深みを与え、新しい可能性を開く鍵となります。

失敗から学んだ謙虚さ、挫折を通じて得た共感力、断絶を経験したからこそ分かる関係の大切さ。これらも、望まない状態がもたらす「伏線」の回収と言えるでしょう。

例えば、仕事での失敗。その瞬間は耐え難い苦しみかもしれません。しかし、その経験が新しい視点や、より深い理解をもたらすこともあります。人間関係の断絶も同様です。その時は深い喪失感を感じても、その経験が自己理解を深め、新しい関係性を築く力となることもあります。

伏線は他者の物語の中でも回収される

さらに興味深いのは、私たちの経験が、他者の物語の中で「伏線」として意味を持つ可能性があることです。

厳しい判断を下し、誰かとの関係が断絶してしまったとしても、その経験は思いがけない形で意味を持つことがあります。例えば、その人が後年、同じような状況に直面したとき、かつての経験から学びを得ることができるかもしれません。私たちの「失敗」や「挫折」が、誰かの人生における重要な「伏線」となるのです。

物語における伏線と人生における伏線

物語を読むとき、私たちは「伏線」の存在に深い満足感を覚えます。作者が巧みに仕込んだ伏線が回収される瞬間、物語は一層の深みを増し、読者の心を捉えます。確かに、優れた物語には多くの困難と伏線が存在します。それらが有機的につながり、意味のある展開を生み出すことで、物語は「面白く」なるのです。

しかし、人生という「物語」は、創作された物語とは大きく異なります。作者が不在の人生において、困難や出来事は意図的に配置されるわけではありません。私たちには、何が伏線となり、それがどのように回収されるのかを、事前に知ることはできません。

さらに、創作物語では、困難や伏線は必ず何らかの形で意味を持つように設計されています。しかし、現実の人生では、すべての困難が意味のある伏線として回収されるわけではありません。時には、取るに足らない出来事が重要な意味を持つこともあれば、大きな困難がそのまま痛みとして残ることもあるのです。

ただし、これは人生における「伏線」の価値を否定するものではありません。むしろ、創作物語と人生の違いを理解することで、私たちは「伏線」についての新しい視点を得ることができます。それは、伏線を「見出す」という営みについての洞察です。

人生において、私たちは過去の出来事の中に「伏線」を見出していきます。それは物語を「面白く」するためではなく、自分の人生を理解し、受け入れていくための自然な営みです。この過程で、かつての困難が新しい意味を帯びることもあれば、些細だと思っていた出来事が重要な転機として立ち現れることもあります。

つまり、人生における「伏線」とは、発見されるものなのです。それは意図的に仕組まれたものではなく、生きていく中で、私たち自身が見出し、意味を与えていくものなのかもしれません。

諦めないことの本質

「諦めない」とは、ただ前を向いて頑張り続けることではありません。時に立ち止まり、深く悩み、時には後ずさりすることもあるでしょう。それでも生き続けること。それ自体が、諦めないことの本質なのかもしれません。

人生という物語には、ご都合主義は通用しません。私たちは誰しも、最後には死というデッドエンドを迎えます。その意味で、人生に完璧なハッピーエンドは存在しないのかもしれません。

私たちは苦しいとき、「なぜ」と問います。幸せなとき、夢中になれるときには考えもしなかった「意味」を、必死で探そうとします。そして、その答えが見つからないことに、さらに苦しむのです。

しかし、その苦しみの中でも、私たちは生き続けます。それは「意味」を見出したからではないかもしれません。むしろ、「意味」を見出せないままに、それでも息をし、食べ、眠り、そして目覚めるのです。

そうして積み重ねられた日々の中で、時として思いがけない形で、過去の出来事が新しい意味を帯びることがあります。それは、意図して見出した「意味」ではなく, ふと気づいたときには既にそこにあった「伏線」なのかもしれません。


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