コミュニケーションってなんだろう

ピンポン(家の呼び鈴)が鳴った。

無反応でいると、扉越しに外から大きな声が聞こえた。普段はアポなしの訪問には対応しないのだが、電力会社の人のようだったので扉を開けた。

「お休みのところすみません。」

平日の15:00頃だった。テレワークだなんだと騒がれている現在であっても「デイタイムに自宅にいること = お休み」というのが、まだまだ一般常識なようだ

適当に話を合わせながら、ふと自分の髪が坊主頭であることに思い至る。

美容師さんとの会話がどうにも好きになれず、今夏、外出を控える社会になったことを良い機会にと、バリカンを購入したのだった。

私は、コミュニケーションとは常識の共有であると捉えている。

美容師さんは毎日多数接客をしており、私は数ヶ月に一度訪れるだけだ。当然、会話は初対面時とほぼ同レベルなものにならざるを得ない。それがなんとも煩わしい。

初対面の人との会話において、お互いの常識を共有する事は、非常に大事な作業であると同時に、とてもめんどくさい作業でもあるからだ。

常識に触れることは繊細な行為

人には皆、バックグラウンドがある。過去、現在において、どのような環境で、どのような人たちと関係を持ってきたかによって、それぞれの常識は異なる。

その常識は、年代や出身地などで単純に測れるものではない上に、地雷も数多く存在し、非常に繊細だ

特に初対面のような、相手の常識について全く触れていない状態におけるコミュニケーションは、非常に神経を使う。

そのため、毎日のように新しい人と出会い、コミュニケーションが取れる人の精神力は、本当に感心する。精神力もさることながら、技術力もすごいのであろう。かなりの場数を踏んできたはずだ。私は場数を踏むこと自体、精神力がもたない。美容院からも逃げる有様だ。

もちろん、中には無神経な人も一定数いるだろう。冒頭の電力会社の人のような。一日に何件も訪問するのであれば、いちいち神経を使っていられないことは理解できるが、だからこそ、必要最小限かつ無難なコミュニケーションを追求する必要があるのではないだろうか。

共通感覚の醸成

そもそもコミュニケーションという言葉自体は外来語である。

意思疎通だの伝達だのといった言葉で説明がされてはいるが、その使われ方は非常に曖昧に感じる。就活における「コミュ力」の定義がどうにも曖昧なのが良い例である。

感覚値で恐縮だが、前述の通り、常識を共有するという作業がコミュニケーションをとるという事ではないか、と私は捉えている。

もう少し深堀りすべく、常識という言葉の意味について、Google先生からいただいた回答を以下に示す。

① ある社会で、人々の間に広く承認され、当然もっているはずの知識や判断力。 「 -では考えられない奇行」 「 -に欠ける」
② 「共通感覚」に同じ。
(三省堂 大辞林 第三版)

(参照:常識(じょうしき)とは - 常識の読み方 Weblio辞書

要するに、常識とは「ある社会」で「人々」がもつ「共通感覚」という事だろう。

ただ、人はそれぞれ多くの「社会」に属している。国といった大きなものから、家族といった小さなものまで、それぞれに微妙に共通感覚が異なるため、様々な「社会」に属していると言えるだろう。

そのため、他者とコミュニケーションをとる時には、互いが多数の「社会」に属しているという複雑な状況にならざるを得ない。その際、それぞれの「人」が別々の「社会」に属したままでは、たとえ互いの常識を知ることができても、「共通感覚」を得るには至らない

つまり、他者とコミュニケーションをとるという事は、互いがコミュニケーションをとる場を「ある社会」と見立て、その社会における「人々(自分と相手)」の「共通感覚」を醸成するという事であると言えるのではないか。

たしかに、「常識を共有する」という定義よりも「共通感覚を醸成する」という定義の方がしっくりくる気がする。

相手が変われば共通感覚も変わる

共通感覚というものについて、もう少し深堀りすべく、冒頭の話と同様のシチュエーションを例にとって、具体的に考えてみる。

平日の15:00頃、テレワーク中、ある人から訪問、あるいは電話があり、以下のように話しかけられたとしよう。

「お休みのところすみません。」

この時、受け取ったその言葉への感じ方は、相手との共通感覚によって違うはずだ。

【共通感覚あり】
 ・15:00頃に休憩を挟む事が共通感覚の相手(同僚、取引先)
   →恐縮、労い
 ・仕事はサボってなんぼが共通感覚の相手(同僚、友人)
   →冗談、軽口
【共通感覚なし】
 ・初対面の相手(冒頭の電力会社の人、訪問営業)
   →不信、不快
 ・勤務時間中に休憩を挟む事は知っているが、非常識だと考えている相手(上司、同僚)
   →皮肉、嫌み

共通感覚を持つ相手、つまりコミュニケーションがきちんととれている相手との会話であれば、意識しなくても良好な会話が成立しやすいと考えられる。

逆に、共通感覚を持たない相手と会話をする際は、不快感を与えたり、嫌みに捉えられないように意識して表現を選ぶ必要があるだろう。

また、どういう共通感覚を醸成するかによって、同じシチュエーション、同じ言葉でも感じ方が変わってくるところが面白い。

・・・

「コミュニケーション = 共通感覚の醸成」  

そう考えると、多くの人々と関わり合いを持ち、それぞれとうまくコミュニケーションをとって生きている人たちの処理能力の高さには脱帽する。相手によって異なる共通感覚を養うことも、それを相手毎に保持し続けることも多大な負荷であるということを改めて認識させられた。

私自身、一人の時間が好きな理由について、少し分かった気がする。


※追記

本テーマについて、ポッドキャスト『雑々談々』にて naokey さんと語らっております。(本編は 04:30 頃から)


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