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小説「海に溶けていく。」

 おお、懐かしい海よ。お前の音が、匂いが、肌に滲みいる潮の湿気が、ゆっくりと濃くなっていくのが私には分かる。懐かしき、江津は嘉久志の陰気な海だ。
「お客さん、どこから来んさった。ん? 東京からですか。えらい遠くから何しにこんなところに、いえ、いいんですけ。あ、ほらもう着きますよ。えー、八百六十円です」
 私は小銭をじゃらりと手の上に出した。もたついているのが癪に障るのか、運転手は出した手を上下に動かしている。もうあまり目は見えないが、歳のせいか人の感情はよく分かる。鞄の奥からノソっと財布を取り出し、手に触れた札を取りあえずさし出した。
「釣りはいらん」
 こんな田舎で何を急ぐのか、運転手は揚々と砂利道を戻っていった。残された私の目の先およそ五十メートルには、波がいきり立ち、曇天の陰りが濃く深い青を広げていた。
 もう少し、詳細を記しておこうか。
 私は車から降りると、遠距離用のメガネをかけ、辺りをざっと見まわした。
 右斜め前には燻った茶色と灰色のひび割れたコンクリートの建物が一棟。その向こうに整備されていない砂利道が、海と建物を別つように東へ、つまり右手に伸びている。その道に沿うように、少年の背丈ほどの防波堤も同じく東へ。それを超えると、貧弱な松の木が二、三本、今にも枯れそうなほど細く小さく斜めに生えている。松をすり抜けると、貧相な砂浜がゴミとともに風に吹かれている。そして、ようやく海だ。青いことは青い、海なのは確かに海だが、昔よりやけに暗い印象を受ける。沖の手前にテトラポッドがあるせいだろうか、昔はあんなものは一切なかった。海を正面に左手には小さな川。名は忘れた。その川と、海の交わる場所にひっそりと建っているアパートメント。はじめに記した、ひび割れたコンクリートの建物だ。潮風に晒され、誰にも見向きされず、時代に取り残された奇妙な遺物だ。住人はいないのだろう、気配も生活感も一切感じさせない。私は独りだ。当時はたくさんの人で賑わっていたこの海辺も、まるで潮風によって遠くに流されたかのように静かで、波の音だけが鳴り響いている。
 五十年ぶりに降り立つこの場所は、忘れるはずもない、私の青春そのものだった。

 西日が目に染みる。――しまった。カーテンを用意させておけば良かった。私は今にも倒壊しそうなアパートの二階の一室で、いつの間にか眠っていたようだ。
 六畳の和室に二畳ほどのキッチン。トイレ、お風呂、冷暖房は完備されているが、しばらく放置されていたのだろう。畳は日に焦がされ茶色く固い。エアコンからは湿った嫌な匂いが鼻につく。キッチンは、所々にサビが付着しており、トイレの水は腐っていた。
 だが、当時よりははるかに近代的だ。昔は、本当に何もなかったのだから。
 あの頃は、これと同じアパートが海辺に二棟、小さな公園と畑を挟んで反対側にもう二棟建っていた。その畑の横に、共同の手洗い場があった。朝の混雑時には、三十分も待たされたもんだ。今は、もう、なくなっている。このアパートだけが、ぽつねんと取り残されていた。
 部屋を借りる時、不動産の人は大変驚いていた。もう取り壊す予定だったのか、果たして人が住める状態なのか、おそらく後者だと思うのだが、とにもかくにも驚いていた。
「二0C号室」。私は二階を希望した。昔と同じ部屋に住みたかったのだ。東京から飛行機、電車を乗り継ぎ、ようやくこの部屋に帰ってきた。およそ五十年ぶり。当時は新築だったこのアパートも、私同様、醜く老いていた。
 手荷物を広げ、私は老眼鏡と、一冊の日記を手に取り、そして気がつけば眠りに落ちていた。西日は老体に堪える。私は日の当たらない部屋の隅に腰を下ろし、ぼんやりと昔を思い出していた。

 一九五九年の秋、私は国会に乱入した。――六十年安保闘争。全学連。デモクラシー。強行採決。警官隊との衝突。私が二十歳の時、日本は目まぐるしく動いていた。人々はエネルギーに溢れ、怒号に満ち、未来を夢見ていた。淡いクリーム色のカーディガンに白のブラウス、濃紺のスラックス姿だったあの子は、夏を迎えることなく、この世を去った。
 私は疲れていた。傷を負い、仲間に追われ、精神も病み、逃げる様に療養の地を探してここに流れ着いた
 初めて見た山陰の海は、なんと美しかったことか。昨日のことの様に思い出す。私はこの部屋を借りると、一日中海を眺めていたものだ。夕日の時分は特に胸が熱くなった。真っ赤な夕日の輪郭はぼんやりと滲み、空はこの世のものとは思えないほど紅に染まった。徐々に沈む夕日が海に反射し、一本の光輝く道が現れる。私はそれをずっと眺めていた。辺りがうっすらと暗くなっていき、夕日が水平線に落ちていく。はじめは雫が落ちるかのようにピタッと海にくっつくと、そこから海と交わるように境目が広がっていく。そしてゆっくりと、夕日は海に溶けていくのだった。
 ああ、懐かしい。あの時の夕日は、その後の人生の中でもそう見られたものじゃなかった。特に東京では、まず拝めない。
 気がつくと、辺りがうっすらと暗くなっていた。私は慌てて遠距離用のメガネをかけると、窓から海に目をやった。さっきまでの西日は嘘のように消え、雲が光を遮っていた。
 この日私は、夕日を拝むことができなかった。空には少しばかりの赤い名残が雲に漂っており、数羽の鳥がその中に消えて行った。私はメガネを外し、ただ色が混じりあう輪郭も境界線もない世界を眺めていた。ゆっくりと暗くなるまで、海の音を聞きながら、潮の風を感じながら、昔を懐かしみながら。

 泥のような眠りから覚めると、体の節々の痛みが私を襲った。こんな畳の上だと、布団を敷いたとてあまり意味がないのかも知れない。昨晩は移動の疲れか、食事をとるのも、星空を眺めることも、うねりを上げる海の喧しさに気が散ることもなく眠りについた。
 朝日がようやく海に差し掛かったころ、私はコンビニで買っておいたパンを食し、コーヒーを飲んでいた。今日は引っ越し業者がくる手はずになっている。それまで、何をしようか。昔は毎日浜辺を散歩していた。それが私の、私たちの日課だった。久しぶりに、いや、時間はもうあまりないんだ。やるべきことをやらないと、私はまた後悔するだろう。取りあえず、しばらくの生活の為の必需品をそろえるべきか。私はタクシー会社に電話をかけ、車の手配をし、買い出しの準備に取り掛かった。
 部屋にもどり、ぼんやりと海を眺めながら、私は自身の老いを感じていた。今日は雲ひとつなく、澄んだ空が広がり、海もさぞきれいに輝いているだろう。はじめてここに来た日も、確かに晴れていた。しかし、今の私には見えやしない。メガネをかけていても、昔のようにピントが合わないのか、景色がすべて不自然に見える。外すのが自然なら、私にはもう色合いしか分からない。嘆かわしいことだ。実に、嘆かわしいことだった。
 時間は確実に流れていく。デモに参加していようが、海をただ眺めていようが。誰にでも平等とは、なんとも儚く辛いことなのだろう。時間は、決して立ち止まることはない。
 ふと、外の方からなにやら人の声が聞こえてきた。業者が来たのか、と思ったが、どうも様子がおかしい。若い男の声だが、口調から業者でないことは分かった。どこかよそ者の口調だ。階段を上ってくる。部屋のチャイムが鳴り響いた。
 ドアを開けると、そこには青年が立っていた。
「どうも、おはようございます。本日より隣に引っ越してきたM村です。ご迷惑をおかけすることもあろうかと思いますが、しばらくの間宜しくお願いします」
 ハキハキとした口調、さわやかな笑顔、凛々しい姿勢、そしてついぞ今先ほどまで何かと戦ってきたかのような鋭い眼光。私は驚きのあまり、開いた口がふさがらなかった。
 M村と名乗るその青年は、昔の私に瓜二つだった。いや、同一人物だろうか。名前まで同じとは、もはや偶然ではないだろう。そうか、幻覚か幻の類か。私はかなりの高齢だ。致し方ない。横になって、頭を冷やし、しばらく目をつぶろう。そう考えていた時、青年ははっきりと私に向かって口を開いた。
「ご老人、顔色が悪いようですが、大丈夫ですか。突然の訪問に申し訳ありませんでした。何か飲み物でもいりますか」
 そう言うと青年は、荷物を広げ水筒を取り出した。私はなすがままにお茶を口に含んだ。冷たく澄んだ味が、私に現実を突きつけた。
「横になってください。私は隣にいますから、なにかあったらすぐに呼んでください。同じ下宿ですから、家族も同然です。遠慮なさらずに、では失礼します」
 私は瞬きをするのも忘れていた。茫然と立ち尽くし、頭が混乱していた。不思議と意識は正常なのだが、なにがなんやら訳が分からない。先ほどの青年は、間違いなく、昔の私そのものだった。
 布団に戻り、少し冷静になった頭で考えてみた。一体どういうことなのだろうか。とうとう幻覚が見えるようになったのか、それとも霊魂の類か、または偶然の一致で、すべては現実なのだろうか。いや、しかし、物音が聞こえない。このアパートの壁はそんなに厚くはないはずだ。引っ越してきたのなら、荷解きや足音で人がいるかどうかは分かるはずだ。だとしたら、やはり幻覚か。
 ふいにチャイムがなり、私の体に緊張がはしった。
 ドアを開けると、業者の人がたっていた。
「すいません、遅れてしまいまして。今すぐ、取り掛かりますけん」
 私は安心し、お願いしますというと、作業の邪魔になると思い部屋を出た。やはり、現実な訳がない。
 荷物は必要最低限のものしかない。家具や家電などは持ってこなかったので、作業もすぐに終わるだろう。私は海の前の堤防に腰を掛け、首を左右に傾けると、大きく深呼吸をした。海が穏やかに広がっている。水面が光を乱反射し、きらきらと輝いている。波の音も緩やかに、心地のいい音を奏でている。
 二、三十分経っただろうか、私はアパートに戻ることにした。振り返り、アパートを見てみると、二階の窓に業者の人の影が見える。まだ終わらないのか、と思っていたが、何かが妙だ。私の部屋は、あそこだっただろうか。いや、しかし私の部屋でないとすると、あの人影は一体……。
 私はアパートに戻り、階段を駆け上がった。二0C号室の隣り、二0D号室。恐る恐る、ドアをノックした。
「あ、すいませーん」
 隣りの、私の部屋から業者の人が出てきた。
「遅くなりました。もう終わりましたので」
 勘違いだったのだろうか。まあ、いい。実際に20D号室からは誰も出てこなかったのだから。
 その晩、私は送られてきた荷物の中に入れておいた古い日記を手に取り、一頁目を静かにめくった。

 一九六〇年、六月二五日。
  私は本日、島根県は江津市、嘉久志町の海辺のアパートメントに越して来た。
  私は、疲れていた。もう何もかもが嫌になってしまった。安保なんて、本当はどうだ
  っていいんだ。ただ、私は力を試したかった。それだけかも知れない。
  この地を選んだのは、正解だった。目の前に広がる広大な海。自然豊かな山々の緑。
  新しいこの建物は、人々のエネルギーに満ち溢れ、素晴らしく快適だ。
  今日は隣人にしか挨拶に行けなかったが、明日は全室を回ろうと思う。
  それはさておき、隣の女の子には驚いた。まさか、あんなにかわいい子がこの世にい
  るなんて。私はまるで雷に打たれたように固まってしまった。
  反対側の隣人には、違う意味で驚かされた。かなり年配の老人だったが、私を見るな
  り口をポカーンと開けて、固まってしまったのだ。東京もんが珍しかったのかも知れ
  ない。私はお茶をさし出したほどだ。
  さあ、明日から私には新しい人生が待っている。
  これから、何が起こるのだろうか。

 私はゆっくりと日記を閉じた。布団にもぐり、遠い日のことを思い出そうと、静かに目をつぶった。
 ――そうだ。確かに私は、あの日、老人に出会っていた。今日の私のように、驚いた顔に私自身も驚いたものだ。思い出した。あれは、私だったのかも知れない。あれから数ヵ月、私はこのアパートに身を寄せて、隣りの女性に恋をした。
 彼女のことは今でもはっきりと覚えている。短くてくりんとした髪の毛に、つぶらな瞳。田舎くさくない清楚な出で立ちで、私の目を真っ直ぐ覗くように話をしてくれた。名前はA美さん。字のごとく、美しかった。私は次第に彼女に惹かれていくのだが、彼女も私と同じ気持ちだったのだろう。年も同じで、ともに独り暮らし。彼女は学生で、薬学を専攻していた。私たちの気持ちは、若さのせいではきっとなかったはずだ。
 ある晩、私は意を決して、老人の部屋をノックした。
 トントン。トントン。
 ああそうだ。こんな感じだったな。トントン。トントン。
 ――違う、夢じゃない。私の部屋が今まさにノックされている!
 私は飛び上がり、ドアの前に駆け寄った。
「誰だ」
「あ、夜分遅くにすみません。隣りのM村ですけど」
 さすがにぶったまげた。今度は幻聴か、はたまたこれはもう夢の中か。一体どういうことなんだ。
「こんな時間に失礼なのは重々承知しています。折り入ってお願いがあるのです。あの、どうかお酒を少し分けては頂きませんか。どうしても、今夜飲みたいのです。あなたの部屋の前に空の酒瓶が置いてあったので、もしかしてと思い、恥を忍んでのお願いです。どうしても今夜、飲みたいのです」
 さて、どうしたものか。念仏でも唱えてみるか、ドアを開けて現実かどうかを確かめてみるか。いや、思い出そう。昔、私はどうしてもらったのかを。
 私は一旦部屋に戻ると、バックをひっくり返した。中からゴロンとウイスキーの瓶。それを手に取り、玄関を少し開け、外に置いた。
「これは、洋酒じゃないですか! いいんですか、こんな高価なものを。あの、もし宜しかったら一緒にどうでしょうか」
 私は返事をしなかった。これでいいのだ。私はあの日、酒の力を借りて、彼女をデートに誘ったのだったから。
 明くる日、ドアを開けると、そこにウイスキーはなかった。鞄の中も見てみたが、やはりない。夢ではない。私は自然とすべてを受け入れた。

 二、三日経ち、大分体も慣れてきた。あの青年はあれから姿を現さない。私は日記を開くこともなく、ただぼんやりと海を眺めていた。天候が良くならず、未だに夕日を拝むことはできていない。
 さて、そろそろ埋めるとするか。
 私がここに来た理由は、青春の後片付けだ。老人の戯言だと思ってもいい。私の思い出を、私自身の手で供養したかったのだ。
 日記を手に取り、私は海へ向かった。

 この貧相な砂浜で、私は彼女にプロポーズした。彼女は静かに首を縦に振った。
 お互いに、大学を卒業したら、また会おう。必ず迎えに来るから、待っていておくれ。約束だ。
 私たちは唇を合わせた。波が静かに揺れていた。
 しかし、約束は守られなかった。ある日とつぜん、手紙も電話も届かなくなったのだ。私はひどく心配になり、田舎の友人に訪ねたところ、彼女は急に消えたそうだった。
 私は落ち込んだ。一体、何があったのだろうか? 知る由もなく、私は怒りと悲しみの中に沈んでいった。残ったのは、当時の日記と、思い出だけ。あの時、本当は分かっていたのかも知れない。もしかして、私が来るのを待っていたのかも知れない。何かどうしようもない理由で、少しの間里に戻っていたのかも知れない。ただ、私は動けなかった。自分を恨むには、遅すぎた。気がつけば、うっぷんを晴らすように仕事にのめり込み、私は彼女を忘れるようにした。

 日記を、私は海に投げ入れた。
「さようなら」
 ぽちゃんと沈む、私の思い出。不思議と波に押し戻されることもなく、日記は徐々に沖へと流れて行った。
 この日、雲は一欠けらもなく、きれいな青空が広がっていた。私は、遠距離用のメガネをかけると、浜辺に沿って歩き出した。どこまでも、どこまでも。
 大きな川に突き当たるまで、私は浜辺を歩き続けた。さて、戻るか。帰り道は、砂利道を歩くことにした。もうすぐ夕暮れだ。犬の散歩をしている人、釣りを終えた人など、意外と多くの人が散歩を楽しんでいた。その中に、同じぐらいの年だろうか。老女の姿もあった。防波堤に腰をかけ、缶ビールを飲んでいた。手には、一輪の花。田舎は、いいところだ。きっとあの人にも、たくさんの思い出がこの海にあるのだろう。
 老女はすっと立ち上がり、夕日を拝む前に去っていた。私はそこに、同じように腰を掛けた。ふと、足元を見ると、一輪の花が、汚い瓶に刺さっていた。先ほどの人だろうか。私はそれを手に取ろうとした瞬間、「あっ!」と声を出してしまった。
 この瓶は、私が青年にあげたウイスキーの瓶じゃないか。いや、正しくは、私があの老人からもらったものか。ということは、先ほどの老女は――。

 今日は素晴らしい天気だ。夕日を前に、私の胸は熱くなっていた。真っ赤な夕日の輪郭はぼんやりと滲み、空はこの世のものとは思えないほど紅に染まっている。徐々に沈む夕日が海に反射し、一本の光輝く道が現れる。私はそれを眺めていた。ピントなど、問題ではない。辺りがうっすらと暗くなっていき、夕日が水平線に落ちていく。はじめは雫が落ちるかのようにピタッと海にくっつくと、そこから海と交わるように境目が広がっていった。昔と変わらない景色。そしてゆっくりと、夕日は海に溶けていった。



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※2015年の島根県民文化祭で銅賞を受賞した作品です。


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