「初めての人生の歩き方」(有原ときみとぼくの日記)第17房:過去の自分にサヨナラを
「この前、梅を見てきた」
大学の頃お世話になっていた先輩が言った。
「桜より梅。春は梅。月ヶ瀬の梅林は日本一だ」
春は梅。まだ間に合うかな。
有原くんはペーパードライバーだ。田舎にいるときはそこそこ運転していたけど、大阪に出てからは一切していない。おかげでストレートにゴールド免許を取得した。
☆ ☆ ☆
「今日は俺が運転する」
変わりたかった。もう今までの自分ではダメだと思っていた。まずは出来ることから。運転だってやればできる。そう思ってハンドルを握った。
大阪の道路は、田舎とは違って荒れ狂っている。割り込み、路駐、複雑な高速道路。
有原くんは手に汗を握りながら前方を見据える。助手席の彼女がナビゲーションをしてくれる。
目的地について、帰りも運転した。市内も、高速道路も、山道も、なんとか乗れた。美容院には遅れてしまったけど、それでも有原くんはやり遂げた。
他人にできて自分にできないことなどなにもない。
少しずつでいい。小さな成功体験を積み重ねていこう。
☆ ☆ ☆
月ヶ瀬に着いた瞬間、匂いが変わった。山の澄んだ空気に混じって甘い香りが漂っている。大きく息を吸うと、全身の血液が洗われる思いがする。旨い空気だ。辺りには梅の木が並んでいる。静寂。枝先に咲いている花は、己を主張しないように謙虚に咲いている。奥ゆかしい。桜より、梅。春は梅。先輩の言葉を思い出す。ふと、胸が苦しくなる。初めて来た土地なのに、なぜか昔から知っているような既視感。悲しくはない。切なくもない。それなのに、どうして涙が溢れてくるのだろうか。
三人で歩き、茶屋で休憩し、梅林で写真を撮る。目の前に広がる梅の花を前に、家族で笑いあうということは、それだけで生きてきた意味があるというものだ。ありきたりな言葉ではあるが、愛とか幸せとか、春になったら毎年咲く花のように、きっと普遍的な意味ではなくただそこに存在する、という喜びなのだろう。
愛は存在だ。
また来年、梅は咲く。
☆ ☆ ☆
有原くんは長髪だ。肩と腰の間ぐらいまで伸ばしている。もう二年ぐらい髪を切っていない。
あるとき、心理学の先生が言った。
「ぼくはね、髪を三十センチ伸ばしてから切って、寄付してるんだ」
つい最近だった。ヘアドネーションというボランティアがあることを知ったのは。
渋滞で遅れて飛び込んだ美容院にて、有原くんは決断を迫られていた。
「本当にいいんですか」
「はい、もう決めました」
本当は怖くて仕方なかった。ただ、このままではいけないと思っていた。手は震える。本当にこれでいいのだろうか。鏡越しに彼女と目が合う。彼女はなにも言わない。
「この長さだと坊主になりますよ」
「青光りますか」
「……光りますね」
小児がんの子供はいつも笑顔だと言う。
ベッドからは出られないし、いつ学校に行けるかも分からない。痛みと戦って、嫌な注射を我慢して、それでも親に心配をかけまいといつも笑顔を見せるそうだ。
抗がん剤の副作用で髪の毛は抜けて、それでも必死で今を生きている。
なぜ苦しみが存在しているのだろうか。
いや、もしかしたら、苦しみなんてものはなにひとつないのかもしれない。
ただ存在しているだけだ。だから人間は笑うんだ。
☆ ☆ ☆
過去の自分にサヨナラを。
青光りは免れたけど、有原くんは坊主になった。切った髪の毛は束ねられ、そこには確かに彼の温もりが残っていた。
初めての人生、道に迷うときだってある。そんなとき、少しだけ立ち止まって、またやり直せばいい。
過去の自分、ありがとう。
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