写真エッセイ〜2024年10月〜
時間が進のが遅くなったのかと思ってしまうほど、1週間の密度が濃く感じられる。まだ木曜日なのか、もうハロウィンなのか、明日から11月なのとボクだけ取り残されてしまっているかのように、今日も夜が訪れている。残業時間を気にしながら、「今日はさっさと切り上げて家でゆっくり休みなよ」と思う。10年前と比べたら、随分と帰りやすい環境になったと感じるが、ボクが周りを気にしなくなったと言われるとそうかもしれない。
真っ暗な部屋に帰り、流し台の前で小さな電灯をつけて、立ちながら食べる冷奴。醤油か、ポン酢のどちらをかけようか悩む僅か数秒が、晩御飯の些細な楽しみだ。隣の部屋で眠る家族を起こさないように、蛇口から水を優しく出しながら食器を洗う。ストレートにするか、シャワーにするか。寂しく、虚しい時間のはずなのに、1人でその時間を楽しもうとしている自分がいた。この流れだと、残業して夜遅くに帰ってきても楽しみ方はあると言えそうだけれど、やはり話せる家族がいるのに話せないのは辛い。
寝静まっている寝室に入り、普段は妻の布団で寝ている長男がボクの布団で眠っていたときは、遅くなってごめんよと思ってしまう。彼がボクのことを微塵も心配してなかったと口では言うかもしれないが、男の子なんてそういうものだし、ボク自身も父が遅く帰っても平気だと振る舞っていたから。そうボクは思い込んでいるから一緒にいられるときは、可能な限り触れ合おうとしている。叩かれたり、蹴られることもある。逆の立場だったら、そうしたい気持ちは理解できるくらい鬱陶しいこともあるだろう。それでも、あと5年もすれば相手にされなくなるかもしれないのだから、今を大事にして何が悪い。どこかかから黒木渚の声が聞こえてきそうだが、最近はライブ配信の案内を見てもスルーしてしまっている。音楽性の違いとか、武道館への思いはどうなったんだろうとか、ボクなんかが偉そうに言えることは何もないけれど、8年前に梅田のライブハウスで「ちくしょーちくしょーふざけんな!」と叫ぶあなたの姿と声は、今もまだぼんやりと覚えている。あれは夢や妄想じゃなくて現実だったんだ。あのときは1日があっという間に過ぎていたように思う。一つのことに集中できる環境だったからかもしれない。
「あたしが古くなるじゃない」と、写真を厭がる。椎名林檎が綴った世界に、今のボクが行けば、それなら撮らないと素直に思える。ファインダーの中に広がる世界は、瞬間であり永遠でもある。今日、SNSのタイムラインを久しぶりに追いかけていると、同じ持病で写真も好きな人が亡くなったことを知った。ご家族の投稿だった。いつか会って話ができたら良いなと思っていたけれど、もう叶わない。だから、思ったら即行動したら良いとか、簡単に言うつもりはない。でも、これを運命だと受け止めることも、ご縁がなかったと諦めるのも何かが違うように思う。名前も、顔も声も知らない人。ただ、写真を見て、見られて、ぼんやりと互いを認識しているような関係がSNSの一番好きなところなのかもしれない。
ボクがnoteで文章を公開しようと思う理由も、そういう関係性があるように感じるからだろう。今月も写真を載せることなく、写真エッセイを終えようとしている。今は、過去より未来を楽しみたいから。明日のこと、週末のこと、年末のこと、来年のこと、もっと先のこと。「20年前にもっと写真を撮っていれば良かった」と後悔するかもしれないけど、今を本気で生き続けていれば、後悔することなく過ごせるように思う。そんな生き様を写真に残したい。