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怒られるのが怖くなくなる呪文

怒られるのが苦手だ。

声を荒げて怒られるのはもちろん、ちょっとした指摘や注意をされただけでも萎縮してしまう。

多くの場合相手は自分が嫌いなわけではなく、特定のポイントを正して欲しいだけなのは頭では解っている。
でもいざ怒られると、人間性そのものを否定されているような気持ちになり、一人で勝手に深く傷ついた上に、「あの人は私のことをしょーもない人間だと思っている」といつまでも根に持つ。
あの人を私が怒らせてしまった。という罪悪感も上乗せされる。
もっと言うなら「怒られている自分」を人に見られていようものならまた「あの人も私のことを…」の思考に陥る。

ここまで書いていて、こんな人間面倒臭くて叱りたくないわと自分でも思う。
身近にいる同じような存在を見て、これはヤバいんじゃないかとより感じるようになった。

長男(7)が、バレたらおこられるであろう事案を隠蔽するようになった。
忘れ物、テストのミス、無くした持ち物、まだ手つかずの宿題などなど。
小学生ならではの可愛い事案ばかりだけど、怒られたくないあまり不都合な事を隠している「ワンチャン逃げ切れるんじゃね」な心の内が見え見えである。
私もそうするから。
ただ、これが習慣化してしまった時に、怒られたくない迷惑をかけたくない気持ちが先行して、本当に困った時や助けが必要な時にも打ち明けられなくなってしまうのではないかと親として心配している。
私もそうだったから。

つい最近夫とこの事について話した時、夫が昔の職場の先輩の話をしてくれた。

その先輩は、仕事でミスをしてしまった時、こう言う。

「あー…やってしまった…これヤバいやつや…。よし!怒られに行こう!!」


先輩のミスは、笑えるような軽いものだけではなかった。
当時仕事にモヤモヤを抱えていた夫にとって、そうだ京都に行くような感覚でミスの報告に行く先輩は衝撃だったらしい。


「よし!怒られに行こう!」

どんな失敗も笑い飛ばして前向きになれるエネルギーが、そこにはある。


そりゃ失敗しないのが一番いい。
でも、どこかでやらかしてしまう事はあるし、失敗して怒られるのを怖がるあまり大きくチャレンジできなかったり、誤魔化したり隠したりするのは自分にとってもよくない循環だと思っている。
隠していたものが見つかった時の方が数倍怒られる。


人を変えるには自分から。
次やらかしてしまったら、勇気を持って言ってみようと思う。
「よし!怒られに行こう!」


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