SNSが奪うものはなにか、家族が与えてくれるものはなにか
数年ぶりに家族旅行をした。両親は共働きだし、私も社会人。弟はあまり家族旅行などが好きなタイプではないので、4人とも揃ったのは本当に久しぶりだった。
端からはあまり仲の良さそうな家族には見えないかもしれない。みんな口数が少ないし、エンターテイメント的要素に対してみんなで盛り上がるようなタイプの家族でもないからだ。
けれど、今回の旅行ではほとんど4人で行動していたし、撮った写真の数も少なくなかったから、なんだかんだ仲のいい家族なのかな、とか思ったりもした。旅行先の原風景的景色もあいまって、とてもリフレッシュできた旅行だった。
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旅行中、個人的に真っ先にいらないな、と思ったのが「SNS」だった。普段東京で仕事をしているときは、通勤中も帰宅中もまず真っ先に見るものだけれど、今回の旅行中では、なによりも先に自分の人生から除外したいものだと思った。
ふと開いたページに広がる、人間の欲望や思惑がしんどくて、見ていて気持ち悪くなってしまったからだ。かたや旅行先に広がっていたのは、まさに原風景とも言えるような山や川や歴史的な建造物で、家族との時間は自分の存在を疑わなくていい時間だった。そうした人間の根元欲求が満たされていた環境で、必要ないものはなによりSNSだと思った。
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けれども、いまの時代を生きる上でSNSとの付き合いは不可避だ。その上で、今回の旅行を経て決めたことが2つある。
ひとつ目は、情報の一次収集源を信頼性を担保できるメディアにすること。
具体的には、記事の中身を確認・修正する編集部がきちんといるもの、そして記事の作成にあたってライターや編集部双方にお金が発生しているもの。
私も副業で翻訳のお仕事をさせていただいているが、お金が発生する以上、記事は最大限正確さに注意を払って作成するし、最後の最後まで読者の方により伝わるような表現を意識している。
そうやって、複数レイヤーの注意や確認を通った情報をまずは一次情報源としたい。その上で、twitterやfacebookで情報発信している個人的な情報を追うことは構わない。
ふたつ目は、SNSばかりに頼らずに人と会話すること。
今回の旅行で、車の中や食事中に家族と会話する機会が多かった。普段であれば、まずSNSを見るような状況かもしれないけれど、会話をすることでこれまでSNSを見ているだけでは気づかなかった視点を得ることができた。
そして、なによりも自分の思考が活性化された。SNSだと、ただ見ているだけでなにかを知った気になったり考えた気になってしまうけれど、人間同士の会話から生まれるものは、「問い」であり思考の活性だった。すぐに答えを出さなくてもいい、ただたくさんの問いを生みだすために人との会話を大切にしたい。
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すでに双方を実施しはじめて数日経つけれど、twitterやInstagramがなくても全然やっていけているし、本を読む時間や本当に欲しい情報を求めようとする時間や自分の心と向き合う時間が増えたように思う。
情報が溢れる社会で脅かされるのは、自分の存在への信頼感である。少なくとも私の場合は、自分と他人を比べて焦りを感じたり、人より劣っている自分の存在を疑ってしまったりする。
けれど、本来人間はどんな状態でも存在していていいはずであり、SNSはそのことすら思い出せなくさせてしまうほどの威力を持っていると思う。だから、まだ、自分の存在がしっかりしていない人は、SNSとの距離を気をつけた方がいい。これが私の今回の気づきである。
そして家族旅行楽しかった。
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今日もありがとうございます。
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