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また息しような、一緒に。

どうも、ゆいぴです。
今回は「死生観」の話。苦手な人はブラウザバックしてね。


10年以上の付き合いがある男友達がいるんですよ。高校の同級生なんですけど。卒業してからもずっと仲良くしてて、今でもくだらないこと何時間も話したり、どっか遊びに行ったりする。私は親友だと思ってるんだけどね。

超楽観的な私とは裏腹に、彼はいろいろと抱えている人で。優しすぎるが故に、とでも言いましょうか。死にたくなっちゃう時があるんですよね。自分は生きていてはいけないと、そう思い詰める時が頻繁にあるんですよ。

そのたびに私に連絡をくれるんです。もう死にたい、生きるのに疲れた、もう俺はダメだと思う、死のうと思う、今までありがとう、とかね。

これがまあ慣れないもんで連絡くるたび心配になるね~。当たり前だけど。

ただ、私は彼に対して「死なないで」と言ったことは一度もないんですよ。なんで?と聞かれたら、これは私の死生観の話になるんですけど。

結論から言うと、自ら死を選ぶことも生きることだと思っています。

…いや、哲学的すぎるだろ!

って自分でも思うんだけど本当にそう思っています。でも、この世からあなたという存在がいなくなることは、とてもとても寂しく思います。

私は「死にたい」と言われても、肯定も否定もしないです。それもひとつの生き方だと思うよ、と。自ら死ぬことを、”生き方”だと位置付けるのは、不謹慎でしょうか?…よくわかりません。私は結果よりも、あなたがその道を選んだということが、その決断が何よりも尊いと思っているから。

昔から理解できないことが一つあって。たまにニュースで見るけど、飛び降りようとした人とか線路に立つ人とかを助けて表彰されてる人いるじゃないですか。意味がわからないんですよね。何が立派で表彰されてんの?

彼らの今後の人生に責任持てないくせに勝手に助けた気になってんじゃねえよ、何様だよ、って思ったり。まあそれが救いになったって人も中にはいると思うので、あくまで私個人の意見ってことで大目に見てください。

ってのもね、生きることに苦しんでる奴が身近にいるから。生とか死とかについて真剣に深く考えるわけですよ。彼だけじゃなく、ウチは家族もいろいろ難ありってやつで。実際に首吊って亡くなった同僚もいるしさ。

最近思うんだけど、私はあまり死ぬことを大きなことだと思ってないね。もちろん理不尽な命の奪われ方をしたら心痛むよ。でもさ、みんな死ぬから。死ぬんだもん、結局。そりゃ悲しいし寂しいしつらいことだとは思うよ。でも仕方ないじゃん、逃れられないじゃん、不老不死じゃないもん。

だからって死にたいわけじゃないですからね。それとこれとはまた別の話で。”生きること”をみんな美化しすぎなんじゃないかなって思うの。生きることしか選択肢のない世の中が生きにくいよって思っちゃった。

選択肢は逃げ道でもあり、逃げ道が増えれば、前を向いて歩くことが今よりもっと容易くなるような気がしています。あんまり好きな言葉ではないけどね、自分の覚悟を”逃げ道”だなんて他人に言われたくないもんね。

と、こんなことをふとnoteに書こうと思ったのも、また彼から連絡がきたからなんですけど。また、死にたかったらしいですね。そんで、今はどうにか落ち着いたようです。どうか彼が穏やかな夜を過ごせますように。

また息しような、一緒に。ってLINEしておきました。

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