人(ヒーロー)は世界を変えられるのか?

世界を変えられるのか?っていうのは物語や現実において語られるテーマだけども、まず自分という存在を変える事が自己の認識する世界を変えることであり≒世界を変えることだという言説もあるよね。

そしてそれとは関係ないかあるいはその延長線上に自己の外部にあるもの、外側の存在を『世界』としてそれを変えられるのか?というのを問う物語もあると思う。ヒーローものはこっちのイメージで、自己の内側の認識の話は古い言葉だとセカイ系とか私小説の範疇のイメージ。

思ったんだけどガンダムにおけるニュータイプ論ってきっとこの世界を変えられるか?というテーマに属してて、それはつまり人類の革新であるニュータイプは個人で世界を変えられるのよな。それ1stガンダムで示された人類の革新なのだが、それはシリーズを重ねるごとに否定されてゆく。つまり世界を変えるには地道に一歩一歩世代を重ねて一瞬にして塔を立てるんじゃなくて積み上げるようにしか変えられない。そしてそれに我慢できなくなったあるいは信じられない人たちが悪役として革新的で急進的なことをやりはじめるのだな。(シャアやマフティーなど)

ユニコーンが1stからΖや逆シャアを経て、ニュータイプは人類の革新で個人で奇跡を起こせるしそれを見たものたちが世界を変える(人類の革新は個人で世界を変えられる)みたいな結論に至るのはシリーズの積み重ねとしてはやっぱり妙というか、逆シャアの時点でそれは悪役の立場なんよな。で問題となるのがアクシズショックなんだけど、あれが起こせる人間は一瞬にして世界を変えられるんだと思うのは無理はないけど、それをシステム化して方程式と化すのは、逆シャアのテーマ的に違うのかな?と。でもナラティブで「オールドタイプは現象しか理解しない」みたいなことを言わせてるのは解釈一致でその点やっぱユニコーンとナラティブはセットの作品なのかな?と思う。セットでやっとユニコーンのニュータイプ論に納得できるというか……。

やっぱりハサウェイってアクシズショックを見ながらも連邦の要人暗殺という形でしか世界を変えられないという意味では、なんかガンダムのニュータイプ論のアンチテーゼ的作品なんだな。>極めておつらい現実的側面のみを描いているというか。

やっぱりアクシズショックを見て、俺たちには可能性があるんだと思うのと、あれを見ても人は変わらなかったから、過激な世直ししかないという結論に至る作品が、同一シリーズで同時に存在しているのは面白いな。(同じものを見ても主張が真逆だ)

人は世界を変えられるのか?論きっとGレコは結論ありきで描いてるから、テーマ的には逆シャアハサウェイ辺りの変えられる?変えられない?みたいなぶれ幅がある方が作品として面白いというのはわかる。
Gレコは『Gの閃光』とかに代表されるけど、やってみなきゃはじまらないとそれ以前の話をしてるよね。それが良い行いであれ悪い行いであれ。
自己の変革、自分のモノの見方(認識)を変えることが、そのまま変革につながるという、自己の内側の世界の話をしてるとも感じるな。>Gレコは。

やっぱりこうして考えると逆シャアのオチのアクシズショックがだいぶ歪みを生んでるというか、あれに騙された人が現実においても、フィクションの中でも多すぎる。罪づくりな奇跡。

富野由悠季の人間観。 1st>人は世界を変革できる。
シリーズを重ねるにつれて>今は無理だけど次の世代に託せば次の世代が変えてくれるかも
Gレコ>世界を変えるには一歩一歩積み重ねていくしかないそれを始めるにはスタートを切る第一歩が必要
こんな感じか?

世界ではなく人間そのものが宇宙に出ることで別種となってしまう。>クロスボーンガンダムなど長谷川ガンダム。こんなイメージ。







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