まえがみ
四限の授業が終わった。1時間後に控えたデートのために、メイクを直さなくちゃと大学のなかでいちばん広くてきれいなトイレに行くと、ばったり綾子と出くわした。
私は鏡に映ったほうの綾子に笑いかける。バッグを置いてメイクポーチを取り出していると、
「髪、染めたぁ?」
綾子はリップをひきながらそう言った。いつもの高く甘ったるい声。すごくかわいい。顔を上げた瞬間、彼女は私から彼女自身に視線を戻す。それにしても、綾子は人の変化によく気づく。
「そうなの。よく気づいたね」
「わかるよぉ。明るいの、似合ってる」
クルッと上がった長いまつ毛、文字通り“吸い込まれそう”な大きな瞳が私に笑いかける。淡いピンク色のワンピースがとてもよく似合っていて、ため息が出そうだ。
「でもねぇあたしね、奈々にはパッツン前髪が似合うと思うよぉ」
グロスを塗る指をとめて、私は綾子のほうを見た。彼女はゆるく巻いた長い栗色の髪に指をとおしながら、鏡の中の自分を見ていた。
「ほんとうに?」
「うん、奈々は甘い顔立ちしてるじゃん。幼くはないけど、ピンクのチークも似合ってるし、唇はぷっくりしてるし、優しい目だよね」
オルゴールみたいに高い声はそのままに、大まじめに綾子は言った。毎日見ている自分の顔について、そんなに具体的に述べられたのは初めてだったので、私は混乱した。前髪は、前まで目の上でぱっつり揃えておろしていた。だけどあまりに年下に見られるのが気に入らなくて、少し伸ばして横に分けたのだった。「大人っぽく見えるね」と、今の今まで友人たちにもおおむね好評で、気に入っていた。
「……いつからそう思ってた?」
声に出してから、自分が変なことを言っていると気づいて後悔した。自意識過剰もいいところだ。綾子はふと思ったことを言っただけじゃないか。ごめん、やっぱりなんでもない、と撤回しようと息を吸う。
「うーん? 今!」
へへへっと笑って綾子は言った。私は言おうとしていた言葉を飲み込む。大まじめに私の顔を解説していたあのときと違って、屈託のない、もはや適当ともいえる答えに拍子抜けしつつ、救われた思いになった。
そのまま、バイバイと右手をひらひら振って、彼女は行ってしまった。
そもそも、私はそこまで綾子と深い付き合いではないのだ。一緒になる授業がそこそこ多くて、何度かグループでランチをとったくらいの関係。綾子が常日頃から私のことを考えているはずがない。ただ、偶然髪色が変わったことに気づいてくれただけなのだ。
でも、私は、いつもばっちりメイクをしていて、可愛い服を着て、ふわふわの髪を揺らし、春のお花みたいな香りを漂わせながら、つやつやの唇で甘ったるくしゃべる綾子を。絵に描いたような、いや、お人形のような女の子である綾子のことを。ほんとうはずっと、憧れのまなざしを向けていた。あんなふうに生まれたかったな、とさえ思うほどに。
その綾子に「パッツン前髪が似合う」と言われたことは、私にとっては事件だった。彼女が軽い思いつきで言っただけだとしても。明日には、そう話したことを忘れてしまうのだとしても。
長い前髪を指で内側にまるめて、鏡を見てみる。これが、綾子がいいと思う私なのか。ほかの友人たちにどんなに褒められても、彼女ひとりの意見の破壊力にはかなわなかった。
私はすでに、決心がついていた。
あとがき
8年前(!)女子大生のときに小説の授業で会話文の課題として書いたものが原案。モデルにしているのも青短の1階、美術室の前にあった広いトイレです。綾子のイメージは当時AKBからソロ活動をはじめていた河西智美ちゃんでした。同じCDを2枚買ったのは初めてだったよ。しかも特典ライブの席が最前で、アイドルの現場自体初めてでひとりで行ったわたしは本当に喜びと困惑で目が回りそうだった…。
それとは別に同級生でアイドル活動をしていた子がいて、メイクのアドバイスとかしてもらってた。エピソードの元ネタはそれです。彼女、忙しくなったのか学校には来なくなってしまったけど、元気かな。
憧れの同性、いなかったですか? 恋とはちがうけど、かわいい、こうなりたい、この子に言われたことは全部正しく聞こえる。わたしは小学校のころからそういうのがありました。クラスのマドンナみたいな、かわいくて快活で人気者の女の子から勉強を教えてほしいと言われたとき、結構舞い上がってた。修学旅行の部屋割りをドラフト形式で決めたときも(超残酷じゃん、先生止めろよ)、結構序盤で誘ってくれてめちゃくちゃほっとした。自己肯定感が上がるというか。好きな男の子と喋れるとかよりもうれしかった気がする。
社会に出てから気づいたのは、美人って結構攻撃されてるってこと。あれ本当になに? 性格悪いとか絶対整形とか噂されたり(その時点でアンタの性格が悪いよ)、愛想がいいだけで「女を売ってる」と言われたり(まあそういう子もいるんだろうけど、武器を使って何が悪いというかんじ)。まあ根本的にコンプレックスが人の思考をねじれさせると思ってるので、そういう人には根深いものがあるんでしょうね。なぜかわたしはアルバイト時代もいるだけで目立つような美人の子と仲良くなることが多くて、ありがたかったなー。そしてみんなわりとさっぱりしてて、嫌味みたいなところはわたしは感じなかった。もしかしたら居心地がいいのも、彼女たちにコンプレックスが少ないってことなのかもしれないけどね。まあ、私も1日くらいみんなが振り返るみたいな美貌を手にしてみたいような気もするけど(笑)。寝て起きたら宇垣美里になってますよーに。
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