「22年間で学んだ慈悲の教えを胸に、果たすべき僧侶の役割とは」お世話になった人への感謝を込めて、どんなお坊さんになりたいのかを書きました
この春、慶應義塾大学文学部を卒業したにしわき ゆいまです。
4年間お世話になった方々、本当にありがとうございました。
卒業にあたり、
「就職せずにこれからどうするの?」「お坊さんってどんな仕事をするの?」
と友人から声をかけられる機会が多くありました。
そこで今回、お世話になった人たちへの感謝を込めて、お寺で育った僕が22年間で学んだことと、どんなお坊さんになりたいのかを書きました。
なお、以下でお話しする内容について、詳しい宗教的見解には間違いがあると思いますがお許しください。勝手ではありますが、素直な僕の想いを第一に書かせていただきました。
仏教については今後、一から勉強させていただきます。ご指導いただければ幸いです。
慈悲のこころを持った僧侶になりたい
僕は今後、僧侶として仏道を生きていくことになります。僧侶とは、と問われて全ての人が納得できるような明確な答えはありません。
しかし、僕が目指す僧侶は、阿弥陀様のような慈悲を持った人です。
僕が生まれた浄土真宗のお寺の御本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)という仏様でした。
阿弥陀様は、悟りを開いて仏になる前、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)という名前の菩薩でした。法蔵菩薩は、自らが悟りを開いて仏になる前に、生きとし生けるもの全てを救えなければ自分は仏にならないという誓いをたてています。
恐ろしい程長い期間の修行の末、その誓いを達成して仏様になられたのが阿弥陀様です。
阿弥陀様は「誰一人決して捨てない」「ありのままの自分を救ってくれる」仏様です。
僕は阿弥陀様のように深い慈悲を持った人になりたいです。
そして、一人でも多くの人々が人の温かさを感じられるような慈悲の心があふれるお寺や社会をつくりたいです。
僕に何かを与えようとしてくれた全ての人の想いこそが原動力
僕が慈悲のこころを持った僧侶になりたい理由は、22年間で慈悲の大切さを学んだからです。
僕は、人に優しさを与えられる喜びを知っています。
僕を今まで育ててくれた両親は、どんな時も僕の味方でした。
22年間、両親から僕の存在を否定されたと感じたことは一度もありません。
1年前の僕は、実家のお寺を継ぐかどうか、とても迷っていました。
今では、両親に向かって「お寺みたいな堅苦しい場所は嫌だ」「お寺なんて必要とされなくなるでしょ」
と不満を吐き出してしまったことを反省しています。
しかし、僕がそれを伝えると
「ゆいまが楽しくやれればそれでいい」
と言ってくれました。
両親はいつも僕を温かく見守り、僕が嬉しい時は喜び、僕が悲しい時は一緒に悲しんでくれました。**
幼い頃に与えられた、どんな生き方をしても生きている価値があるんだという安心感は、全ての行動の土台として僕を支えてくれました。
物事に挑戦したり、人に優しくしたいと思えたり、毎日頑張ろうって思えたり。
おかげさまで大学の4年間では、僕を温かく受け入れてくれる人達にたくさん出会うことができました。
地元から一人で上京した僕に温かく接してくれた友達は、大切な思い出と共に人と一緒にいることの幸せを教えてくれました。
バイトやインターン、大学を通じて出会った人生の先輩方は、大切なことを惜しみなく教えてくださいました。
22年間を振り返ると、人の温かさに溢れた環境で育ったと思います。
これまで出会ったたくさんの人が、僕に笑顔や優しさを教えてくれました。
僕に何かを与えようとしてくれた全ての人の想いこそが僕の原動力です。
想像できないほどの苦しみを抱えた人の話を聞いてきた
しかし、世の中には支えてくれる人が居ない人、人の温かさを失った人が沢山いることも知っています。
幼い頃から聞いてきた父の法話(仏教の話)から、僕には想像ができないほどの悩みや苦しみを抱えた人の話を何度も教えてもらいました。
僕は父から、祖母のように大切な家族を失った人、今1人で悩んでいる人、孤独を感じている人、の話を聞いてきました。法話のなかで、その人たちがいつも阿弥陀様の慈悲に救われて強く生きていく姿を知って、慈悲の大切さを知りました。
慈悲を受けることは、怒り憎しみ悩みを転じて、幸せに生きていくための土台になります。
笑顔1つ、優しい言葉1つが大きな力になると知っている僕だからこそ、多くの人々にそれを与えていきたいです。
僕が幼い頃から聞いてきた父の法話を普元寺Instagramで投稿しています⬇︎(画像をタッチするとInstagramにとびます。)
多くの宗教家は利他の精神を大切にしていた
浄土真宗の宗祖の親鸞聖人は、阿弥陀様の救いに気づけば誰でも救われるという教えをお伝えされました。
修行をした人達が悟りを開けるという常識だったそれまでの仏教から考えると、日本仏教にとって大きな転換点ともいわれています。
親鸞聖人が、当時の社会的な弱者や差別された職の人々など、修行をできない多くの人達にも目線を向けていたことは確かでしょう。
当時の東大と言っても過言ではない比叡山で修行や勉学を続けた後に、阿弥陀様の慈悲を伝えられた親鸞聖人の想いに僕は感動します。
イエスキリストも、愛を大切にしています。当時の常識にとらわれず、裏切られながらも、全ての人は神に愛されると仰りました。愛のために犠牲になったといわれるイエスが多くの人々に寄り添ったことは間違いないでしょう。
仏教の祖であるお釈迦様も、生まれながらにして身分が決まるというカースト制度を否定し、苦しむ人々に寄り添われたのではないでしょうか。
慈悲で溢れるお寺をつくれるように活動していきます
親鸞聖人は、人間には阿弥陀様のような完全な慈悲を持つことはできないと説かれました。
(浄土真宗では、慈悲は阿弥陀様の「誰一人決して捨てない」「ありのままを救ってくれる」完全なものである一方、愛は争いや憎しみの元にもなる人間のものと考えます。)
本当に仰る通りです。僕はこれまでに多くの人を傷つけ、生き物を殺して生きてきました。そしてこれからも、自分を守ることなしには生きていけません。
しかし、これまで受けた多くの愛は、僕にとって阿弥陀様の慈悲が宿ったような、ありのままを受け入れてくれるものでした。
だから、自分を省みることを忘れず、少しでも世の中に人の温かさを感じられる人が増えるよう、生きていきたいです。
はじめは見習いながら学びながらですが、応援していただければ幸いです。
コメントなどもいただけたらとても励みになります。
どうぞこれからも、よろしくお願いします!
追記:理想と現実の狭間で苦戦中
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