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大人はみんなひとそれぞれ理由がある

「Walk in someone else's shoe」

という言葉がある。

直訳すると、「他人の靴を履いて歩いてみなさい」となる。

つまり、他人がどういう生き方をしているのか、傍から見ているだけではわからない。実際に他人の身にならなければその人の気持ちはわからない。

という意味の表現。

この表現を単語で表すならば「Do not judge others」となり、このコンセプトは「Be kind to others」と同じくらいあちこちで見聞きする、移民国家のカナダで暮らすための心得とも言えるフレーズでもある。

もちろん、この言葉を言葉ヅラで理解することはそう難しくない。

しかし私はある時、この言葉の意味することを体感し、
それからは、この言葉を時にスルメのように、時にワインの様に「ああーっ、そうなのよ、そこなのよ」と深く味わえるようになった。
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話は10年以上前のことになる。
私は北アルプスの難所と言われる涸沢岳→大キレット→槍ヶ岳縦走にチャレンジした(そう、ワタクシ意外と山女なの)。

大キレット?アルプスの難所?なんのこっちゃ。という方もいるかと思うのだけれど、とりあえず高度3000mのナイフリッジ(両サイドスコーンと落ちている切り立った崖)で鎖や三点支持を使いながら岩に張り付いて進む、恐怖の天空4時間登山をイメージしていただいたらよいかと思う。
ついでに興味あれば「大キレット」でググっていただければ話は早い。

登山には割と自信のあった私でも、恐怖と戦う精神力に加えて体力の限界のさらに上を要求されるきつい登山。

テントも食料も全部担いで登っているので、荷物の重さに体が振られる。
でも振られて足踏み外したら死ぬわ。。。
ああ、もう帰りたい。。。
途中「飛騨泣き」という難所があるのだけど、わたしは「歩き始めからずっと泣き」。

その中をだよ、その中をだよ、

タイムトライアルで走って駆け抜ける人がいた。
しかもその人は、このコースを2往復するするらしい。。。

”アタシこんなに疲れてるのにここ走るってどういうことなの?!”となぜだか腹が立ち、思わず聞いてしまった。

「なんでこんなとこ走ってるんですか?」って。

その人から返ってきたのは、

「逆に聞くけど、なんでそんな思いまでしてここ歩くの?」

という言葉だった。

疲労困憊で魂が抜けかけている私に、そうとしか掛ける言葉がなかったのだろうね。いや、そうなのよ。まさに。。。ちーん。

でもさ、こんなボロボロだけど、この修行のような登山のおかげで、心の奥の光は実はすっごい強くなってるのよ、だからさ意味あるのよ私にも。

と、そのやりとりを傍からみていた、当時は彼氏だった夫とその友人に、

「大人はみんなひとそれぞれ理由があるもんだよ。」

と諭された。

実際、大キレットですれ違う人は歩き方も装備も年齢も様々で、当時は結構な雪山女だった私からすると「その装備でこんなところ歩いちゃダメでしょ!」と言いたくなる場面も度々あった。

腰の曲がったおばあちゃんとおじいちゃんのご夫婦にもすれ違い「おばあちゃん、ここ歩くの危ないよ!」と思ったけれど、もしかしたらこのご夫婦は私がいつか夫とまた挑戦したいと思っているように、昔の思い出をもう一度的な記念の登山なのかもしれない。

逆に傍からみたら私は「魂抜けそうな状態の危ない若い子」に映っていただろうし。

みんなそれぞれ理由があるんだよね。と思うと結局のところ、

みんな無事に目的地までたどり着きますように。

その一言に集約されることに気がついた。

それからは「この人のこの行動(言葉)私にはわからんわ。」と思うことに遭遇するたび

「大人はみんなひとそれぞれ理由があるもんだよ」

という言葉と、大キレットの景色が浮かび上がるようになった。

「大人はみんな人それぞれ理由がある」

すこし人に優しくなれる、北アルプスからのおまじない。

Walk in someone else's shoe

言うまでもなくこの登山は私の人生の中でも強烈なインパクトを残した出来事で、言葉で表現できないほどの北アルプスの勇ましさと神々しさを全身で感じることができた最高の経験になりました。

100回見聞きするよりも、1回登っただけでわかる。
自然からのレッスンはいつも体の深く深くまで染み渡ります。

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        秋の涸沢岳。綺麗すぎて言葉を失いました。

またいつかチャレンジしたいな。

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