ぽわん、とした想いの置き場所
「人生、やりたいことをやったもん勝ちだ!」
と言う、前のめりで真っ直ぐでポジティブなこの言葉は、実際その通りであると思う。
しかし、こういう正論を直球で投げられると、心のうちにあることを口にするのが憚られる。
誰もが、高らかに宣言するまでもない、「ぽわん」とした、願望を心の中に抱えて生きてるのではないかだろうか。
実現できないほど遠くもなく、かといって今やれるかといえばやれない。
諦めるには惜しいけれど、すぐに行動には移せなくても気にならない。
私にもいくつか、そういった「ぽわん」とした願望がある。
夢と呼ぶほど大きなものでもないし、携帯電話に上がっては消える、誰の記憶にも留まらない記事のような、ささいなこと。
だけれど、堂々と口に出すにはちょっと毒がある、そんな願望。
それを「ひひひひ」と心の中で温めながら、主張がすぎて「今」を壊さない程度に共存する。
今のところ、それは50歳の自分へのギフトだと思っている。
50歳。
ちょうど子供たちが大学生か社会人になる頃だ。
*
なぜ50歳なのか。
そんな話をちょっとしてみようと思う。
私の母は、アルコール依存症の父から逃げるため、高校生の私を連れて夜逃げした。
それまでの間は、母は朝から夜まで働き詰めで、夫からお金も自由を奪われていたので「自分の楽しみ」というものが全くない人だった。
さらに、アルコール依存症による、さまざまなヘビー級の試練に、母と私が苦しめられたのは言うまでもない。
夜逃げした時、母は50歳になろうとしていた。
母と2人で辿り着いた部屋は「〇〇ハイツ」ではなくて「〇〇荘」のアパートの一室だった。
そのアパートの一室で、父の抑圧から逃げた母は、いきなりglobeにハマった。今まで昭和の歌謡曲をソプラノ気味で歌う母しか見たことなかったのに。
Keikoに感化されたのか知らないが、日の当たらない和室で「Deputure」を熱唱する母。
高校生の私は、母がおかしくなったのだと思って怖くなったが、叔母たちに「今はそっとしておいてあげて」と言われて見守った。
だが正直、「Joy to the world」「FREEDOM」「Can't stop falling love」と立て続けにヒット曲を連発(してソプラノで歌う)母の姿はホラーだった。
さらにぱっかん!と何かが母の中で開いたのであろう。
母が図書館から借りてくる本も「花村萬月」「山田詠美」「瀬戸内寂聴」「内田春菊」といった割と過激なライナップだった。
こっそり盗み読みしていた高校生の私にはいささか刺激的ではあったけれど、たまに紛れてくる「よしもとばなな」で中和されながら、母のおかげか否か、これらの小説を通して大人の階段を登ることとなった。
そんな振り切れ気味の数ヶ月が過ぎると母は落ち着き、ずっとやってみたかったという和太鼓のクラスに通い出した。もともと絵が上手だったので、絵の教室にも通い出した。
それから。
つい最近体調を崩して退職するまでの20年間、母は仕事と趣味に生きた。
とても充実した日々で、とても幸せなのが伝わってきた。
実際、絵も和太鼓も、控えめに言ってかなり上手な母なのだった。
母は本当はアートの人だった。
考え方も、できることも、抑制されていただけで、私が思っていたよりずっと柔軟だった。
でもそれよりも、当時は目の前を生きることや私のことで一杯一杯だったのだと思うし、逆に、私が子供の頃に、母がその情熱のまま趣味に精を出していたら、きっと私は寂しかったのだと思う。
だから、その当時、好きなことを出来なくてもそれはそれでよかったのだと思うし、ベストなタイミング、できるタイミングが必ず訪れるのだと母を見てて思う。
*
そういうわけで、「50歳から始まる人生がある」ということを私は知っている。
夫と家族の名誉のために言うと、私は母のように抑圧されているわけでも、不満があるわけでもない。とても幸せなのだ。
幸せなのだけれど、今は叶わないとわかっている「ぽわん」とした小さな願望があると言うだけのこと。
この「ぽわん」とした想いを、50歳を過ぎたら実際に実行するためにも、今、目の前のことを、今の日々を、大切にしていこうと思う。
この「ぽわん」とした想いを心に灯し続けることができたら、きっとその時は、この灯りはたいまつとなり、進むべき道を照らしてくれるだろう。
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