大天才の「無知」⁉をどう考えるか~イチロー氏の指導について思うこと~
球界を引退後、日本の高校生の指導に力を入れているイチロー氏。
言わずと知れた、日本はおろかアメリカの球界史上にも燦然と輝く、正真正銘のレジェンドです。
最近また、TVでイチロー氏の活動が特集されたようです。
ところが、その際に流れた高校生への指導について、トレーニング界隈では様々な賛否が寄せられているようです。
この記事では、そのことについて書きたいと思います。
どうやら、イチロー氏が高校生に教えている「スクワット」がどう見てもスクワットではないので、いろんな意見が噴出しているようです。
批判もあれば、擁護も。
まず確認すべきは、イチロー氏が伝授したのは、たしかにどう見てもスクワットではないということ。
むしろ「硬くなりそうなスクワットだ」としてイチロー氏に退けられた、高校生の見せた動きの方が、標準的なスクワットです。
それに対し、イチロー氏がやって見せたのは、グッドモーニングやルーマニアンデッドリフトなどに似た、ヒップヒンジ系の動きです。
しかも、テンポよく、なるべく反動を効かせるような動きです。
あまり標準的な動きではないので、とりあえず「イチローヒンジ」と名付けましょう。
ケトルベルで行う「スイング」の動作にも、少し似ています。
どうでしょうか。
どうやらイチロー氏はこの「イチローヒンジ」によって、ハムストリングに刺激を入れることを重視しているようです。
面白いことに、ケトルベルスイングも、数あるトレーニング種目の中で、ハムストリングへの負荷が特に高いことで知られています。
なので、ハムへの刺激を狙うイチロー氏にとって、この動きはまさしく「正解」なのだと思われます。
この動き、どうなんでしょう?
加えて言うと、近年のトレーニング科学の領域で判明しているのは、ダッシュやジャンプといった挙動において重要なのは、このヒップヒンジ、つまり股関節伸展の動きだということです。
逆に、スクワットで主導となる膝関節の伸展は、これらの動作にはそれほど寄与しないことが分かっています。
つまり、野球選手のトレーニングとして競技力向上を目指すという観点から言えば、イチロー氏の指導は理にかなっている可能性が高いのです。
ただやはり問題なのは、その動きがどう見ても「スクワット」ではなかったということでしょう。
ここに、混乱の原因があるように思います。
イチロー氏が野球の大天才であることは論をまたないのですが……おそらく筋力トレーニングについてはそれほど該博ではないというか、かなり独特の知見とこだわりを持っている人といえるでしょう。
彼は現役時代から通常の筋力トレーニングには否定的な立場で有名で、その代わりに「初動負荷理論」というユニークな手法を採り入れていました。
小山裕史というトレーナーの方が確立した理論だそうです。
イチロー氏が自宅などに取り揃えていたという、初動負荷理論に依拠したトレーニングマシンはつとに有名です。
(全部で数千万はかかったとか)
そもそも、彼の野球のスタイル(振り子打法に代表されるような)そのものが、当時の球界からすると異端だったとされていますね。
そんなイチロー氏にとって、おそらく高校生が見せた標準的な、教科書通りのスクワットはあまり良くないものに映ったのでしょう。
しかし、イチロー氏の一連の指導は、逆に標準的な手法でトレーニングを行っている人からすると、かなり奇異なものであることも事実です。
小指側、足の外側に重心を置くことを意識するため、足裏を外側に傾けるような動作をしていますが、これも、スクワットではやってはいけないとされている動きです。
標準的なスクワットは、足裏全体で荷重を受けるのが効率的とされています。
この高校生は自重でスクワットを行いましたが、そのままバーベルをかついでバックスクワットに移行しても問題ない、安定したフォームに見えました。
バーベルで自体重以上の負荷を加えたとき、足裏全体で地面を押すように立ち上がる意識が重要になってきます。
おそらく、高校生たちも普段のトレーニングではそのようなスクワットを行っていたのではないでしょうか。
さて、どう考えるべきでしょうか
今回の出来事、単にイチロー氏を「無知」として批判してよいのか。
あるいは、自身の経験則から「ヒップヒンジ動作」の重要性に気付いた、類稀なる身体感覚を賞賛すべきなのか。
イチロー氏を無知だとあげつらうのは、あまり感心しません。
誰にだって知らないことはあって当然です。
逆に、イチロー氏の指導を手放しで絶賛するのも、盲目的な信奉というものです。
ネット上では、立場を異にする人たちが、喧々諤々の批判合戦を繰り広げているようです。
……正直、不毛だなあと思ってしまいます。
従来の標準的なバックスクワットにも、メリットはあります。
スクワットは大腿四頭筋など下半身の筋群を中心に、多くの筋肉を動員できる、優れたコンパウンド種目です。
下半身の筋力向上や筋肥大に、とても効果のある種目です。
球技を行うアスリートをはじめ、様々な分野の人がバックスクワットを行い、そこから恩恵を受けています。
ただ、そこで得られた成果が野球の競技力に直結するかというと、それは分かりません。
一方で、「イチローヒンジ」はどうでしょうか。
先ほど説明した通り股関節伸展の動きなので、確かに跳躍力やダッシュ力に直結する動きだと思います。
ただ、たとえばこの動きに自重以上の負荷をかけるとなると、どのように行うのが良いのでしょうか。
おそらく、グッドモーニングやルーマニアンデッドリフトのようなやり方で行うことになるでしょう。
とはいえ、イチロー氏のことなので、もしかしたらバーベルなどで負荷をかけるのには否定的な立場かも知れません。
イチロー氏が見せたあの独特のテンポも、バーベルやダンベルなどの負荷とはあまり相性が良くないように感じられます。
となると、本格的に鍛えようとしたら、高校生もイチロー氏同様に、高価な初動負荷マシンを使用しないといけないのでしょうか。
もしくは、ゴムチューブなどで代用可能なんでしょうか。
(ゴムは伸びるほど負荷が増すので、むしろ初動負荷とは逆になりますが)
おわりに
今回のイチロー氏の指導、トレーニング界隈の言説に翻訳すると以下のようになるでしょう。
「野球はジャンプやダッシュ動作が重要なスポーツで、そしてそれらを向上させるには膝関節伸展中心のスクワットより、股関節伸展中心のグッドモーニングやルーマニアンデッドリフトの方が効果的だよ」
こう言ってもらえれば、おそらく誤解や軋轢(といってもそのほとんどは「外野」で起こってますが)はほとんど生じないでしょう。
もしかしたら、スクワットとグッドモーニングの「種目対決」が始まってしまう可能性はありますが。
とりあえず、相手側の意図を真摯に汲み取り、自分の領域の言葉に翻訳した上で、共通理解を得ようと努力をしてみることは重要ではないでしょうか。
個人的には「一方通行な主張や批判をしない」ことの重要性が、近年ではより高まっているように思います。
特に、ネットメディアが浸透した現在では、簡単に分断や軋轢が生まれまてしまいます。
最後まで、ありがとうございました。