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「哲学」ってなあに?ジャズギタリストが書いてみた④まとめ&展望と願望
Guitaristのタナカ裕一です。noteはじめました。
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話し相手⇒書き手。ですね
突然だけどぼくは「哲学」が大好物なのです。
「哲学」が大好物だと言うと、なんか宗教?と思われたり、「思想強そうww」とか、ようするに煙たがられたりするのだけど、それはぼくにとって何とも生きずらい。
でも。ここで言っている「思想」と言うのは「主観(思い込み、それはアナタの感想ですよね?)」が強そう。って意味でしょう。
けれど、哲学と言うのは主観や思い込みを解体しようと言うような取り組みなので、真逆なのである。
哲学と言うのは主観や思い込みを解体しようと言うような取り組み
それってアナタの感想ですよね?って煽りを真正面から受け止めて跳ね返し、粉砕しようとする戦いの歴史なのである。
まとめ&展望と願望
まとめⅠ
①、②、③までをお読みいただいた方にはおよそ伝わっているかなと思うのだけど、ここまで何を言いたくて書いてきたかと言えば、つまり。「人間寄り」と、「人間より大きな枠組み」のどちらの重要度が高いとするかを時代ごとにずっと行ったり来たりしてたよね。ってこと。
あと、現在は「人間寄り」なんだと思う。多様性、云々と言ったように「人間」に寄り添うのが正しい、重要度が高い。とされている時代。
これは今回書いて行く内容だけど目下最後の「人間より大きな枠組み」は「構造」だったのだけど、それはマジレス的には粉砕済み。(※○○と言う集団には△△と言う傾向が顕著です。みたいに統計学とかそういう分野ではとても役に立つけれども。)
そう言う意味でも「人間より大きな枠組み」の重要度は低下していて、すなわち現在は「人間寄り」であることの重要度が高い時代と言えそう。
圧倒的自然の脅威とか、AIが暴走してAIに支配された世界とか、宇宙人がやって来て地球を支配とかそう言うことが起こらないかぎりは、もしかすると「人間より大きな枠組み」の重要度が「人間寄り」であることの重要度よりも高くなる時代はもう二度と来ないのかもしれない。
まとめⅡ
【人間より大きな枠組み】と言うのは例えば
神話の時代なら「言い伝えの神話」、神の時代なら「神(キリスト教とか)」
人間の理性によって本質を目指そう!と言う時代なら「本質」
わざわざ本質などをより良くより良く!と言ったように進歩的に目指さずともそこにある仕組みを発見すればいいし、もとよりそれしかやりようが無くないかしら?また、なおその構造の中にしかいられない「構造」
と言ったようなもの。
いま現在、地球の運営に際して、「言い伝えの神話」も「神(キリスト教とか)」も「本質」も「構造」も、それらを最重要にしようと言う人がいたら反発するでしょう。と言うか、過去に最重要とされた時代があって、それはことごとく「でもさ…」と人間寄りに引き戻されてきた。そしてたどり着いた現在はと言うと。
民主主義、資本主義が勝利している世界だから、人々の声が強い。
何らか人間より大きな枠組みに従って、例えば「言い伝えの神話」や「神(キリスト教とか)」に従って地球を運営しようとする人は現在の地球リーダーに選ばれないだろう。
また、人間の「本質」はこう!群れを作って生活し、およそ○○歳までに異性同士がつがいになって子孫を残し云々であるのだ。だからこうするべき!のように言う人もまた「オレはそのおっしゃる本質ってのに当てはまらないLGBTQなのですが?その本質ってポンコツじゃないですか?」と反論にあってやはり地球リーダーには選ばれない。
「構造」の中にしかいられない、と言うのも何だか正しそうな気がするけれど、かと言って、もうそれ以上何もしようが無いって感じがするし、これも採用されないでしょうね。偶然何か良い「構造」が発見されるまで各自自由に暮らしてください!もし偶然何か良い「構造」が発見されなかった場合はそのまま人類は滅びます!以上。と言う人は地球リーダーには選ばれなさそうだ。
人類は基本的にちょっとでも良くなる感じがする方へ向かって、光の指す方へともがいて、あがきながらいたいのだ。
(たぶん)
展望と願望
前項のように「人間より大きな枠組み」を最重要に掲げようと言う勢力は現在弱くて、【人間寄り】の時代を我々は生きている。
そして光の指す方へともがき、より良く!より良く!的にあがきながらいたいとして、でも何も指針にするものが無くて、その結果、ただ単に各自を大切にしよう!となれば、下手すると地球人が全員「ぼくは自認3歳!」とかなって、みんなでバブバブしてインフラ崩壊、滅ぶか…人類…。しかし、そんなわけにはいかない。
ならば、このまま【人間寄り】ってスタンスを取るとしても、人間はいったい何を大切にして今後、未来を目指したらいいんだろ?ってなる。
何を大切にしたらいいか??
みんな仲良く。人に迷惑をかけない。とか?これは良さそう。もっと言うと「道徳」じゃないかしら。地球人全員が「道徳」的であれば人に迷惑をかけない、みんな仲良くて、いい世界な気がする。
「ぼくは自認3歳!」とやると、誰かがそれを支えないと行けなくなる。負担が連鎖する。その負担の連鎖を知りながら甘んじてバブバブ、ヨチヨチってさせて貰い続けるのっていいの?「道徳」的に?
これで、「ぼくは自認3歳!」が一番正しい!各自の自認が最重要!みたいな方向性の行く末、人類の滅亡は回避できそうな感じがする。
って感じで。
じゃあ人類は「道徳」を一番に掲げて生きてきましょっかね!
…しかし、なんとそれをやると「人類は滅亡」を選ぶことになってしまうのだそうだ。
おいおい…じゃあどっちにしても人類滅んじゃうの…!?そゆこと??
と言うのが、反出生主義ってやつ。「反出生主義」名前がパンチ効いてるけど、道徳の話なんだよね。
このnote記事を書き始めたのは、オモコロのライターで、哲学にも造詣が深い恐山さん(品田遊)著の「ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語」を読んで
「へー、道徳でもダメなのか。マジか。ヤベーな。」
って思ったのがきっかけ。
※反出生主義:道徳を突き詰めると、新しく苦痛を感じる実存を生み出すことは悪であると言う結論に到達し、人類を滅亡させる不出生を肯定し、道徳により人類は滅亡を選ぶ必要が出る。
数カ月前のnote記事の末尾でも取り上げてました。
じゃあ、道徳の取り扱いってどうしたらいいんですかね?とかそんな話をしたいかな。別に答えもないのだから、ダラダラ酒でも飲みながらさ。酒の肴、つまみ。トークテーマってやつです。
答えの有無は別にして、道徳でもダメなんだそうだとしたら、人類は何を指針にして行けばいいんだろね。と言うトークテーマで酒飲みたい!けど、ここに至るまでの戦いの歴史、前提条件を知らなければ、すでに哲学者たちが考えごとのインフレバトルを繰り広げ潰し潰されてきた内容をあーだこーだと、それこそ酒飲み話に終始してしまうだろうと言うことで、このnote記事①~④読んでから飲もうぜ!みたいなものを書いていると言うことでした。
冒頭に「哲学」が大好物だと言うと、ようするに煙たがられたりするのだけど、と書いたけど、うん。そうだね。たかだか酒飲むのにこんな文章読まされるとしたら煙たがる人の方が多くて当然か…自嘲(笑)
構造主義 - 後編
構造主義 - 前編までの振り返り
語弊を恐れずものすごく端折っていうと、「言い伝えの神話」、「神(キリスト教とか)」みたいな完全、無限、絶対のようなものがあるとして、それを最重要としましょう!と言う時代のあとに来たのは、人間の理性でもって「本質」を目指そうと言うことだった。
けど、「動植物や鉱物などについて、それは○○と言うもの(本質)です」は、人間には主体的に自らの意味を決めることが出来るので、こと人間に限っては当てはまらない。「人間とは○○です」について各自が「ワタシはそうじゃない!」と言う態度を取ることが出来る。もとからの意味なんかないんだ。だから、各自が主体的に世界に意味を見出すのだ!
しかし、無意識が発見されて、主体的ってなにそれ?知らない自分、無意識から受ける影響を排除できないんだから、主体的とかないよ(笑)つまりさ、無意識の影響下にいることだったり、誰しもがそう言う構造の中にいるんだから、主体的にどうこうしようとかそれ自体がそもそも無理。
「構造」is No.1!
(詳しくは前回③を読んでね。)
構造主義 - 後編Ⅰ
ウィトゲンシュタインと言う人がいましてね。こんなことを言ってました。
世界と言うのは事実が集まってできているよね?言語と言うのはその事実を記述する、事実を映し出す鏡みたいなものだよね?言語と言うのは事実と対応関係にあるものだよね。(写像理論)
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写像・・・これを貼らずにいられなかった(笑)
言語と言うのはそういう性質のものだから、記述不可能なものがあるよ。
「語りえないものについては、沈黙しなくてはならない」
「言語で語れるもの(事実と対応するもの)は語れるし、言語で語れないもの(事実と対応しないもの)は語れない」わけです。シンプル。
コレを否定するのは「言語と言うのは事実と対応するものだけ!言語=事実」を否定することになって、「言語は事実と対応しません!言語≠事実」と言うことになるので、否定できない。強い。屁理屈お化けの頂点に君臨するかの如き理屈。
論理式とか疎いのでこの書き方が正確でなかったらすみません。
そして、思考と言うのは言語を組み合わせて成り立つものだから、事実と対応しない神だの愛だの絶対だの完全だの、無限だのについてはそもそも考える(言語を組み合わせて取り扱う)こと自体が出来ない。もう考えても無駄。
哲学(考えごと、言語を組み合わせること)終了!
もうただの現実、事実がそこにあるだけでーす。
考えごとの役目は終了でーす。
構造主義 - 後編Ⅱ
「語りえないものについては、沈黙しなくてはならない」と哲学を終了させたウィトゲンシュタインさんでしたが、あるとき考えを改めて、また別角度から哲学(考えごと)を終わらせに来ます。やべー(笑)
言語ゲーム、慣習的なルールの集まり。
言語って、そう言ったものだよね。
将棋ってゲームがあったとして、飛車はこう動けて、なのでこのように駒を動かすと相手を詰ますことが出来る(勝利)だよね。でもさ、何で飛車はそう動けるって決まってるの?理由はとくに無いよね?ただ単にそう言うゲームだからと言うことなわけでさ。もちろん、ただ単にそう言うゲームだとしたらおっしゃる駒の動かし方をすれば相手を詰ますことが出来る(勝利)のだけどもね。
例えば「アゴをこする」と言う動作が自分に向けられたとして、キミならどう思う?ちなみにこれ、オレ(ウィトゲンシュタイン)の地元では相手を侮辱する意味を持ってるから。キミはいま侮辱されてるよ(笑)
でも「アゴをこする」=「相手に対する侮辱」って対応関係に理由なんかないだろ?これは言語についても同じことが言えるよね。ピンチの場面で「やべー!」って言ってるのと、とても美味しい料理をほうばって「やべー!」って言ってるのは意味が違うじゃん。こんな風に、言語の意味なんて使用の前提によるんだよ。しかも、それが何でそう言う対応関係になっているかは慣習的にそう決まったからと言うだけじゃないか。つまり、そう言う本当はとくに理由も無い慣習的ルールが集まってできた言語って言うのは将棋みたいなゲームと同じだよ。
だから、もしキミが言語ゲームの末に勝利して、世界を詰ませた!真実へとたどり着いた!気がしたとしてもさ。それは言語と言うゲームの中での話なんだよ。まさか「ただ単にそう言うゲーム」をクリアしたからって、思考つまり言語を組み合わせた○○が真実、普遍的な正しさだとかそんなわけないじゃん(笑)ゲーム脳乙。
言語によって思考する限り、言語(言語ゲーム)と言う「構造の中での正しさ」にしかたどり着けませーん!だからもう考えても無駄でーす。
哲学(考えごと、言語を組み合わせること)終了!その2!!
これにて、「考えごと」そのものが完全終了。
○○の状況で△△と言うと■■の意味になりますと言う「なぜそうなの?」がとくにない慣習的ルールの集まりでしかない言語と言う構造の中でしか考えることが出来ないのだから、もう幾ら考えたって、いつしか「考える」と言うことのゴールへたどり着いたとしても、それはただのゲームクリアでしかないんだよね。
将棋でも、スーパーマリオでも、何かスポーツ(サッカー、野球etc)でもいいけど、そのゲームクリアは、別にそのゲームのクリアでしかないでしょう。
思考と言う言語ゲームをクリアしてもそこには普遍性なんか無いよ。
考えごとなんて言語と言うゲーム
「構造」の中でのお話
ポスト構造主義
本記事の冒頭にも書きました。
【人間より大きな枠組み】と言うのは例えば
・神話の時代なら「言い伝えの神話」、神の時代なら「神(キリスト教とか)」
・人間の理性によって本質を目指そう!と言う時代なら「本質」
・わざわざ本質などをより良くより良く!と言ったように進歩的に目指さずともそこにある仕組みを発見すればいいし、もとよりそれしかやりようが無くないかしら?また、なおその構造の中にしかいられない「構造」
と言ったようなもの。
これらの「人間より大きな枠組み」は全部、それを頼って、人類の最も重要なことですよ!とすることはどうにも出来そうにない。
考えごとのインフレバトルの末に、「考えごとって言語ゲームじゃん。そんなのクリアしても、ただ単にそう言うゲーム(構造)の中でのクリアでしかないから(笑)」と、考えごと自体が終了っぽい感じになってしまいました。
もう頼るべき「人間より大きな枠組み」がないし、ひとまず「人間寄り」でやってこうとしても、さてどうしたものか・・・
「クリティカルな○○」はいま現在もありません。
そして、これも本記事冒頭にも書きましたがどうも一見良さそうな「道徳」もアウツ(?結局人類はその道徳によって緩やかに滅ぶ?)としたら、ああ、どうしたもんかねえ。
と言うのが21世紀現在も続く「ポスト構造主義」の時代。
「構造主義の次の時代」と言っているだけで、○○がポスト構造主義です!というものはありません。ですから。
人間寄りと言ったって、結局人など不完全で定まらないものですから。結局「人それぞれ」と言ったような個別の事柄について扱って(自認3歳なのですがどうしましょうか?とか)いくか。
もしくは前項のキングオブ屁理屈お化けことウィトゲンシュタインの言い分を、真正面から受け止めて跳ね返し、粉砕しようとする戦いを挑み勝利し、それってアナタの感想ですよね?って煽りを叩きつけ、「考えごと」を人間の手に取り戻すか。
って感じで、どうしよっかね。と言うのがポスト構造主義。しかし、どうも後者は難しそう。だって、考えごとって言語ゲームでしょ?ゲームなんてバカバカしいよ考えたって無駄無駄。って言ってる人に、言語を組み合わせた思考でもって戦いを挑んでも、バカにされるのがオチでしかなさそう・・・
もちろん、どうにかしてウィトゲンシュタインの隙をついて、根本から撃破することが出来るのかもしれませんが、その対応策が思考(言語の組み合わせ)だとしたらちょっと無理っぽい。
どうしよっかね(個別相談)
人間寄りと言ったって、結局人など不完全で定まらないものですから。結局「人それぞれ」と言ったような個別の事柄について扱って(自認3歳なのですがどうしましょうか?とか)いくか。
いくら個別の事柄について扱っていくとしてもだよ。出来るだけ大きな事柄について考えてみた方が良さそうだよね。
例えばいま人類は核爆弾もってるから、本気の大げんかとかやるとそれで人類が亡んじゃう。じゃあどうやったらそれを回避できるかな?とか。
機械やAI、どんどん発展して、最もポジティブなパターンならみんな働かなくて良くなる!でも、暇になっちゃうよね。そしたら暇についてどうしたらいいか考えとかないと、「最もポジティブに機械やAIが発展した場合でも」結局みんな暇を持て余して「困っちゃう」よね。
現在の覇権経済システム資本主義って、アップデートの余地はないもんかね?
とか、いろいろある。
優先順位はどうしよっかね?
個別なんだから、細かく言えば問題は幾らでもあって、だから片っ端から対応するんじゃなくて、優先順位はどうしよっかね?とか今はそう言う時代なんです。たぶんきっと(筆者の主観)
ポスト構造主義の時代を生きる我々には全員が熱狂できる旗印、「人類よ!この旗のもとに集え!」と言う何かはありません。ただ、それぞれそう言う派閥って感じになっちゃう。
優先順位って言ったって、各派閥ごとに異なるから結局ポジショントーク的になっちゃうし、いちおう一番大きなくくり人類にとって何が優先順位高そうかな?ってのが考えるべきことでありそうだなとは思います。
次回は「ポスト構造主義」の哲学についていくつかご紹介して、このシリーズも何とか締めたいと思います。
このシリーズは酒飲み話の前ふり的な意味のものだと冒頭に書いたけど、照れ隠しでもあったりする。実際は自分なりの考えもあって、おっかなびっくりながらそれについても書いてみたいと思っているのだ。なので、次回が最終回としたら、そこでは自分の考えについても書いてみることにする。
以上。感想などなどもお気軽に。
哲学に興味を持っていただけたら幸い
とても嬉しいです
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今回以上です!
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【最終話】
— Yuichi Tanaka (@YuichiTanaka) August 19, 2023
突然だけどぼくは「哲学」が大好物なのです。
哲学に興味を持っていただけたら幸い
とても嬉しいです
差異(小さな物語)をそれぞれが力強く生きるその先にあるものとは⁉
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「哲学」ってなあに?ジャズギタリストが書いてみた⑤最終回「君たちはどう生きるか」https://t.co/E4rMNsncqp